| 10-0034 | |
| ◆刺客 ◆カムイ ◆10年07月16日 14:10 | |
| 刺客は政争裏面に働く戦士である。 表に名を表さず、仕事の成果 だけが世に残る。 ”けいか”は、学識もある表の人だが、厚遇をうけた太子丹のため、 裏の仕事を買ってでた。 秦王政はすぐれた人だが、その生い立ちのためか、性格に陰湿な ものをもつ。 燕の太子丹を追求する執念は異常なものがある。 燕はいずれ滅ぼされる。 ”けいか”は秦王を刺す策を練り、秦王に近づく。 事はならな かった。 ”けいか”に刺客の資質がなかったのであろう。 壮途に上るに際して作る、”易水送別の歌”は心に残る。 | |
| 10-0031 | |
| ◆歴史 ◆カムイ ◆10年07月15日 09:40 | |
| 私は歴史が好きで、歴史書も歴史小説も数多く読んだ。 書物を鵜呑みに するのでなく、自身をその中に参加させる。 人の行動には理論があり、 登場する人物の宿命にも、必然性がある。 私、”時の旅人”は時空を旅して過去へ行く。 自己催眠で意識を沈ませ、 過去へ運ぶ。 私の夢想に過ぎないのだが、知識が豊富であり、理論推理 が高度にできれば、かなり真実(世の中は相対的なことが多く、真実と いうものがあるかどうか。 数学には真実があるが。)に近い史実が見れ るのである。 人は、歴史を学ぶのではなく、歴史から多くのことを学ぶのである。 | |
| 10-0030 | |
| ◆介之推考 ◆カムイ ◆10年07月14日 15:51 | |
| 介之推(介子推とも書く)を多摩川さんが、好きな武芸者と言ってくれた ことが嬉しい。 私の介推は崇高な武芸者である。 彼が文公のもとを 去ったのは、論功の不満ではないと信じる。 19年間、無欲に忠誠を 尽くした彼が、恩賞の多寡で、主人を見限るはずがない。 報われない 悲劇のヒーローとした通説は、彼を信仰する民がつくりあげたものでは ないか。 文公は、彼をさがし、大夫に迎える考えがあった。 宮城谷 昌光氏は、”沙中の回廊”という小説の中では、士会の考えを借りて、 介推は文公がつくった組織を、通烈に批判したのだと言っている。 文公の初期の組織は、臣下の能力を活用するのでなく、情実人事をくり 返す。 介推はそのことに絶望して、官を辞し、身を隠した。 文公は、 自分の聴政を賛美するものに囲まれていたので、組織の不備を認識する ことができなかった。 介推の晦蔵が文公に活眼を与えた。 無言の中 に去った賎臣を自ら捜しに行く行為が文公の内的変革ではないか。 自分を不幸にしても、主人に名君への道を歩ませる。 私も会之推の信者である。 | |
| 10-0028 | |
| ◆人物像 ◆カムイ ◆10年07月13日 09:39 | |
| 私は、碁と同じように武道を愛する。 子供の頃読んだ、吉川英治氏の 宮本武蔵、富田常雄氏の姿三四郎の印象が強い。 作者が書く人物像と 私が画く理想人物像とは、同じでないかも知れない。 自分の求める道 に一途に打ち込む。 姿三四郎は、世に出てから一人歩きをし、作者の 考えからは大きく離れていった。 その強さだけを、キャラクターの すべてのように伝えられた。 明治に生きる素朴な青年、無欲で純情な 性格が好ましく、真面目に自分の生きる道を求める。 私の理想人物像 に近く、私の人格形成に大きな影響があった。 私は、柔道にもかなり打ち込んでいたが、終戦、GHQは、学校柔道を 禁止した。 ここにも、終戦は、私の夢をつぶしたのである。 | |
| 10-0027 | |
| ◆介之推 ◆カムイ ◆10年07月12日 23:47 | |
| 介之推(かいしすい)は棒術の達人、流浪の公子、重耳に従って 19年間、護衛した。 介之推なくば、重耳は刺客の手に倒れて いたかも知れない場面は、幾たびもあったらしい。 重耳が帰国 して王位についたとき、忽然と姿を消した。 文公(重耳)が、 彼に封禄を与えなかったためと伝えられるが、無欲な彼が、論功 に不満を持ったとは考えにくい。 自分の武術への評価が心を 満たすもの、政治への関心は少なかったであろう。 主人が王位 につくまでが彼の役目、去って山にこもるのも武術家らしい。 自分の好きな道に、一途に打ち込めるものは、一芸に秀でた達人 であろう。 | |
| 10-0025 | |
| ◆三舎を避く ◆カムイ ◆10年07月11日 16:28 | |
| 中国の春秋時代、五覇王の一人に数えられる、晋の文公は、若い頃 の名を、重耳といい、弟との相続争いを避け、国を出て諸国を放浪 して歩いた。優遇してくれる国もあり、冷遇する国もあった。 楚の国では優遇された。 楚を去るとき、王に世話になった礼を なすべきものが、今の自分には何もない。 将来、貴方の国と戦い をするようなことがあったら、初戦に三舎退きましょう、と言った。 一舎は軍が一日進撃する距離、約30里とされる。 今日世話に なった礼に、戦いのとき、軍を三舎下げるという。 位取りは、 形勢に大きな影響がある。 後年、これは実現した。 約束通り 軍を退いたが、この戦いは晋の勝利に終わった。 昇降の別れ道とも言える一局を、対戦してくれた碁友に、謝意を呈 して、次局には、三舎を退く思いがある。 | |
| 10-0024 | |
| ◆攻防 ◆カムイ ◆10年07月09日 11:36 | |
| 段尻にいるときは、気力の頑張りを必要とする。 と碁友に書いた。 私が実践しなければならない。 私の碁の中で、十段と九段が鎬を 削る。 十段の中まで行きかけてからも、何回も九段まで下降した。 一進一退、北風と南風の戦いのよう。 人が多く望みを抱く季節、 春、南風は次第に北風を凌駕してくる。 十段と九段の攻防はまだ 続く。 上位の段を守らねばならない。 上がるのは私の努力で あり、下がるのは健康状態などの管理の悪さである。 九段は、長く住んだ家だが、去らねばならない。 新しい住みかを 求めて。 | |
| 10-0023 | |
| ◆初心者教書 ◆カムイ ◆10年07月06日 10:48 | |
| コスミさんの教書は、要点をよくとらえています。 級位者だけでなく 有段者にも、ためになります。 碁に絶対はなく、相対的であるというのは、私の持論でもありました。 エッセイ欄の活用、これからも頼みます。 | |
| 10-0022 | |
| ◆再び初心者に与ふる書 ◆コスミ ◆10年07月06日 17:02 | |
| てっきりお叱りを受けるとビクビクしていたら、思いがけないおホメ。恐縮至極。図にのって続編を書いてみます。今度は具体篇です。 1 相手の石をとってトクトクとしているあなた。 あなたの取った石が、相手の虎の子の石だったか、棄てたゴミ石だったか。ゴミを4,5目抱えている間に、相手はあなたの財産を掠めていますよ。 2 石を取られてガッカリしているあなた。 「取られた」のでなく「取らせた」あるいは「呉れてやった」と思ってみましょう。いわゆる「オトリ」ですね。そうすればその石を利用していろんな工作ができます。 また将来コウ材にもイッパイ使えます。 ですから確実に取られそうな石(棄てる石)は、トコトン死ぬまで打たないでおいた方が利用価値が大きい。 できれば、相手の石も目のないようにしておけば、相手は最後にとりきらねばならなくなり、死んだ石も大いに面目をほどこすというもんです。 3 アタリでもないのにあわててツイでいるあなた。 トントンを警戒したのか、攻めあいを図ったのか知りませんが、そうでなければ怖じけているんじゃないですか。用心深いのは結構ですが、この忙しいときにあなたは1手まるまるソンをしてます。 (先にツイだ方が強力な攻め手になる場合もありますが) 4 目がないのに、目(1目)がある相手の石と攻めあいをしているあなた。 自分の方に早く1目 作るのが先決です。お互いの外ダメと内ダメを慎重に数えてください。目のない方の石はたいていの場合攻めあい負けです。外ダメ、内ダメの関係がありますが、面倒なので書きません。解らなければ「目アリ目ナシ」という言葉を調べて下さい。 5 シッポの石をツナいでいるあなた。 全体が活きるか死ぬか、大問題を抱えているときに、相手がシッポの数目をキリにきたら、喜んで進呈しましょう。 つまり手を抜くということは、自分の好きなところへ二度続けて打てる、ということです。もちろんツイでも全体活きる自信があれば別です。 6 3−3の空き巣に入ったあなた 首尾良く活きの形になったのに、更に1手余分な補強をしてませんか。補強が必要と思いこんでいませんか。 7 終盤狭い地所に相手が図々しく打ち込んできた時、つきあっているあなた。 ここでじっくりと考えて、相手の活きがない、または自陣に被害が出ないと解ったら、手を抜いて他に転じて見ましょう。他になければパスしましょう。1目トクした上、ずいぶん気分がいいですよ。 ただしヨミチガエだと大事件になります。 8 ヨセを何気なく打っているあなた。 1目2目の差が勝敗を分けることは珍しいことではありません。(われわれヘボ級ではそんなことはないか) でも、ヨセの段階では目を皿のようにして、先手はないか、どこが一番大きいか、慎重に見極めましょう。 そうすれば、手入れを忘れたり、地所の窓が開いたまま終局とするようなブザマがへります。(私もときどきやらかしますが)ヨセの手筋を知っているとずいぶんトクがありますが、まあそれは追々覚えてください。 9 やたらホウリ込んで相手の目を欠いているあなた。 先生に教わったかも知れないけど馬鹿のなんとやら、全く意味ない場合はよした方がいいですよ。ソンすることもありますし、かえって目を作らせることもあります。コウ材もなくなるし。 10 両アタリ、トントン、ウッテガエシ、ツルノスゴモリなどかかったあなた、 お気の毒です。十分注意していてもついウッカリして、アッといったがこの世の終わり。世の中にはこの手の魔物がイッパイです。損害が小さければ気を取り直してガンバッテください。 上手はいつもこの悪魔の手下を使っています。イジワルですね。われわれも大いに利用しましょう。 11 どこに目を作ろうかと思案しているあなた。 包囲網の中でコジンマリと活きるより、できるなら脱出して広く活きる方を選択した方がトクですし、気分もいいでしょう。 その際すぐに目作りせず、行きがけのダチンとばかり、なるべく相手陣を脅かし、暴れる気合いが必要です。(暴れ回って気がついたら、目のできるところをなくしたりしたら悲劇ですが) 12 序盤から考え込んでるあなた。 あなたは大物になるかも知れません。碁は考える競技ですから偉大な頭脳を大回転しているのでしょう。デモネ。 ヘタな考え何とやら(失礼)我々クラスの碁は、この先どこへ着くのやら知れたものじゃありません。。何しろお相手もヘボ級ですから、いくら考えた末の妙手(自称)でも、こと志と違っても相手は筋書き通りに受けるとは限らない。 いっそ信じるところへエイッと打ってみた方が、スッキリと解りやすいじゃおまへんか。 時間切れねらいの被害も減りまっせ。 プロだって「いい加減」ということばを使っています。 13 キカした石を大事に守っているあなた。 碁石はペットじゃありません。カワイいかも知れませんが、用事が終わったら切り捨てた方が身のためです。「大事の前には小事を切る」って云うじゃありませんか 。 14 相手の囲いの中に打ち込んだあなた。 いい気合いですね。でもどうして活きを図るか悩んでいらっしゃる。もしかして、打った石全部を救おうとしているんじゃありませんか。最小部分だけ活きれば大成功、目的は十分達しました. 辺で最小限の2目で活きただけで、少なくとも20目前後モウケたのです。切り捨てた石は相手も同じだけ応じているからソントクなしです。 「セキ」も活きのうちだということも、おわすれなく。 15 一歩づつ地所を固めているあなた。もしくは相手がグイグイ押してきてるので、丁寧に受けているあなた。 「石垣碁」という言葉をご存じですか。また「車の後押し」というのも。さて終わった後の、彼我の面積の差を眺めてみてください。 16 自分でアタリに突っ込んだあなた。 オオ オウンゴール。 先生方はこんなことは、碁以前の問題だと切り捨てるでしょうが、実はここが私のこの駄文の眼目です。対戦者は眼が見えなくなる。いや初心者とは限りません。全体を見ない。石の関連を見ない。手数を見ない。大きさを見ない。大勢を見ない。 損得を見ない。見えない。見ようとしない。見えているのに見ない、みな同じこと。今まで述べたことすべてがここに関わっています。 いつも反省しきり。でも打っていればスグ忘れるだろうな。 総じて以上述べたことは、「碁は相対的である」という前提に立っていることはもちろんです。すべての局面に当てはまる訳ではありませんので念のため。碁に絶対という言葉は禁物です。 禍福はあざなえる縄のごとし。ソンがトクになり、トクと思った手が、思いもかけない損害をもたらすこともしょっちゅうです。ことに我々ヘボザル族の碁は、三手先の世界も予測不能なワンダーランドです。 子規曰く。 《コスミはヘタな碁打ちにて候》 飽きられないうちこのへんで。 | |
| 10-0021 | |
| ◆石取り ◆カムイ ◆10年07月06日 08:44 | |
| 子供教室で、碁を打ったことがない入門者は、石取りゲームから 始める。 九路盤で、地に関係なく、石を10個取った方が勝ち とする。 当たりとか、つなぐことがわからないから、取り合い の競争だが、石を取ることに興味をもつのである。 何回か行う と、要領がわかって、どちらも取られないことに注意するように なり、勝負がつかなくなるので、地取りの考えを加えるようにす る。碁は面白いかと子供に聞くと、石を取るのが面白いと答えた。 碁と言う競技が、石取りから始まったのか、地取りから始まった のかは、古代の人が、戦いを模写したのか、土地の所有権を考え たのか、おそらく、双方ともであろう。 現代の棋士でも、地に辛い人、戦いに重きをおく人、棋風は様々 である。 子供ならずとも、石取りは面白い。 自分の快感を 満たすだけでなく、相手の考え違い(あるいは心得違い)を懲ら すために行うこともある。 だが、石取りゲームがすぐ行きづまるように、地取り、石取りは 関連して、碁を奥深いものにしているのである。 | |
| 10-0019 | |
| ◆初心者に与ふる書 ◆コスミ ◆10年07月04日 17:18 | |
| ご大層な表題ですが、わたしは2段のヘボ級碁打ちです。とても大先生のような、高級深遠なことは言えた分際ではありません。 しかし私は私より下手(したてと読むかヘタと読むかお任せします)のかたがたの対戦を見るのがたいへん楽しい。失礼ながらいつも一人でビックリしたり、怒ったり笑っちゃったりしています。(悪い趣味ですな。でもたぶん皆さんも私の碁を見れば同じことかと) そこでこの方々、特に初心者クラスの碁を見ていつも感じていることを、自戒を込めて書いてみました。。(ヘボ碁、ザル碁仲間の話ですから高段者はメクジラたてないで) ご用とお急ぎのないかたはどうぞご覧ください。 一 碁はすべて相対的であること このことを常に認識していることはたいへん重要なこととおもいます。徹底的にソントクの世界です。最後に1目勝った方が勝ちです。この石をとられたら即マケ、という王様石はありません。この地所を占めたら勝ち、という首都もありません。途中何十目トラレても別のところで取り返せばいい。アタリの半目をツイで別のところで10目20目ソンしている人が多い。トクするところへどん欲に挑むことが肝要です。 1 つねにどこが一番大きいかをみてみる。相手の手ばかり応対するな。 一手打つたびに世界(碁盤)全体をながめる姿勢を忘れないよう。これが意外とムズカシいね。高段者でもあつくなるとつい局所にこだわってしまう。世界には大場がいっぱいあります。(私自身は世界どころか相手の手も見ず打つクセがあります) 2 中盤では4目5目はクズみたいなもの(タネ石でなければ) 低級者はどこが一番大きいか、どれがタネ石かわからない。これは自分を信じて打つしかないが、少なくともそのような判断してみるのを怠らないことが大切です。 いけないのは相手の打ったところばかり眼がいってしまうこと。1目のアタリでも無条件でツイでしまうこと。カス石の数子がとられそうになると必死に逃げようとし、それは呉れてやっても、もっとトクな手(場所)があるのに気付かないこと。 3 相手を詰めれば、我が身も詰まる。(相対的) 身のツマリは鬼よりコワイ。相手を詰めているつもりで、いつの間にか自分の石が詰まっているという、ツマラナイ話。 二 いかに手抜きするか。手抜きが碁を活性化する。 1 相手がキリにきたりノゾけば、必要性の如何を問わず、すぐツイでしまう、まったく生き死にや地所に影響なくても無条件に応じる態度、実にツキアイのいいかたです。この時こそ自分が先手(主導権)を握るチャンスなのに。 不要と思ったらいさぎよく手抜きすることが要諦。他所の戦闘に入る時です。 2 よくヨミ切れなくても、活きのある石と思ったら、絶対手入れしない覚悟。結果もし死んじまっても、それは自分のヨミが浅かったとアキラメる。つぎの碁に役立てればいいのです。(活きの形をたくさん覚えればいいのですが、私も勉強嫌いであまり知らない) 3 同じように相手がどのようにしても活きがない、手抜きしても影響のない地へ打ち込んできても、几帳面に受けている人が多い。一手手抜けば一目トクすることを思うべし。 三 常に先手を探す 相手が受けざるを得ない手を先手といいます。相手が受けるかどうかは相手の勝手ですが、受けなければリスクを生じる。リスクの量はどれくらいか。これも相対的な価値判断とヨミが必要です。 逆に相手から受けてもらえない手、必要のない手を後手という。中盤でもヨセでも先手の場所がいくらもあるのに、平気で後手から行く人が段位者にも多い。相手が受けなかった場合の展開を2,3手考えれば、どれが先手か後手か判断できます。場合によっては10目の後手より1目の先手の方が優先します。 いい例がご存じ一線のハネツギ、2線のコスミ等。これはヘボ同士なら打っておいてほぼソンはない。ただし中盤以前に連発すると高段者からは軽蔑されます。 先手後手の判断力とヨミ、それからウマく先手をかわす技術は、勉強と訓練することが必要ですが、われわれヘボザル族は何度も痛い目に遭うのが一番。先手先手でヨセまくられてウンザリした経験は誰でもあるでしょう。 四 上手(うわて)をおそれない 1 防御より攻撃を考えよ。そうしていろんなテクニックを覚える。 上手がチャンバラに強いのは、8割がた下手の腰が引けてるからです。白石だっていろいろ欠陥、弱点がありイバレない。下手はそれを衝けば逆に黒の有利な形勢になるかもしれないのに、自分の保身のことばかり眼がいってはジリ貧です。。 最初から最後までお互い平和に地を囲いあって、並べてハイ何目勝ちました。こんな碁ほど打った甲斐のないものはありません。旦那様とお出入り商人の碁みたい。 自地がほぼ安全とみたら、(勘定が足りないと思ったら)敵地に切り込んでゆかねば勝碁は望めません。成功したときの気分はタマリませんな。 2 打ち込むタイミング 相手が自地を囲ったとたん、あわてて打ち込む方がたくさん見受けられますが、なぜその前に打込まないのか。機会はいっぱいあったのに。堅くなった敵陣であえなく討ち取られ、ダメージを広げるばかり。 もっとヒドいのは、ヨセあってもう打つところがない時に、延々と考え出す人も多い。あげく目の余地もないようなところへ打ち込んであわよくば活きようとする。成功率0%かと思うと、あにはからんや相手もまごついて活かしてしまう。ほんとに碁はヤメラレナイ。こりゃ碁じゃないとせんせい方は顔を顰めるでしょうが。 3 いらぬ遠慮は身を滅ぼす。 やたら遠慮深い人がいます。すぐに押さえるとアブナイと思ったのか、1路引いて受けたりする。1目以上ソンのうえ、ヘタをすると石全体の命取りになったりすることもあります。 相手のハネツギを1本引いて受けたりします。チットモ安全にならない。(もっともすぐに押さえてはいけない場合もありますが) 押さえて構わないとき引いて打つ。伸びたほうがトクなときコスんで受ける。もう1手で相手を叩けるのにゆるめる。相手が自分を護った手を攻撃されたと思いこむ。イヤハヤ (20秒でいいから考えてください) 3 負けてもともと。首をトラレるわけじゃなし。 上手と打つ時は、思い切り自分の感覚をぶっつけた方がいいでしょう。相手の受け方が学べます。どうしてもヨミきれない時は思い切って打ってみること。失敗した時はサっとひきあげること。 五 希望的観測は判断の敵 こう打てば相手は絶対ここに来る。という思いこみこそ判断力を鈍らせます。思いがけない手を打たれたり、手抜かれたりしてギョッとします。こう行くのが定石だから、と信じ切っているのもダメ。その場の状況によって千変万化、とくに素人碁はどこへ行くかわかりません。(ダカラ面白い)いつでも柔軟な思考力を保ちましょう。 (といいつつ、いつも失敗している私です) 六 碁は数学である 1 碁は徹底的に数学である。(先生も承諾されるかな)魔術、妖術、手品ではありません。数学というより算数サンジュツ、勘定といったほうがいい。早いはなし、目数をかぞえるのも手数をかぞえるのも、1,2,3と指や眼をつ かって勘定します。 高段者がサっとかぞえるのをみて、また摩訶不思議な手順で黒を絡め取るのも、初心者がそう感じるだけで、ただのヨミ(勘定)が早いだけのこと。極端なはなし明らかなシチョウを、時間がたてば途中でくずれるかもしれないと思う人はないでしょう。一手違いの攻めあいは周辺の石と関係ない限り何手打っても1手違いです。面倒でもなるべく数えて打ちましょう。この攻めあいは勝てるか、負けてもいかに損害を少なくするか判ります。 2 局部の手筋のほとんどは厳密に検討され紛れようはない(と思います)つきつめて考えると碁の窮極は絶対の手順が存在し(複数)、人間がそれを知らないだけとおもいます。どれほどその手筋を知っているか応用できるか考え出せるかが上手ヘタの違いです。 3 量子数学?といったものがあり、数にユラギがあれば知りませんが、ホントウは人の心のユラギが碁を存在させ面白くしているのでしょう。 いくら高段者でも初心者でも、理屈を変えることはできません。ただ人間が完全じゃないだけです。 だから相手をケムに巻くための奇手(?)はタマにはいいかも。(高段者もチョイチョイこうして下手をイジメています)(クリックミスが案外妙手だったこともあり) 七 碁は自由である。天地は広い 碁がスバラシイのは基本ルールは最小必要限度だけということです。(だからムヅカシく面白い)こまかな規定はプロに任せましょう。1−1に打とうが、天元に置こうがマネ碁だろうがルール違反ではありません。(ただツマラないだけ) 小さなことにこだわらず、広くのびのび打ちましょう。とは云っても最後まで1目2目を大切に。(石を捨てることとは意味が違う) 八 最後に 1 地を数えること、自地、敵地を大ヨセあたりでざっと数えて見ること。幸い指でかぞえてもマウスのポイントでも相手にゃわかりません。正確でなくてもいい。ここでムリをするべきか、このまま収めようか判ります。ヘボ碁にゃ時間はタップリあります。 回復の余地がないと思ったら、キッパリと投げましょう。時間の節約です。もちろんギリギリねばっても構いません。(後味はよくないがね) 2 碁が終わってから考えるくらいなら、中盤以降くらいにホンのチョット考えてみる。碁盤を見渡してみることをお忘れなく。布石あたりでは、ヘボ級はどこに打ってもたいして変わりゃしません。 3 碁はゲームです。頭の体操です。楽しい碁を打ちましょう。アタマにきてもカッカとせずに(ムリか) 長々とゴタクを並べましたが、読み返してみると何のことはない、碁打ちならみな知っていること、先輩からさんざん云われたことばかりです。しかし私を含めそれがなかなかできない。すべての競技の対戦者心理でしょう。 あえて私が書いたのは、碁が好きで何年も打っていてもちっとも初心者の域を脱しない、でももう少しうまくなりたいと思っている方々の、チョットした意識の改革に役立てればと思ったからです。 上記の項目の一つでも守れば(守れれば)一目強くなる。ぜんぶ守ればたちまち高段者か。万年二段の私が保証はできないね。 高段者、特に品格高くプロなみの意識を持ち、囲碁道を修養の場と観じていらっしゃる先生がたは、チョット眼をつむっていてください。 ヘボザル党はホントウに碁が面白いだけです。あまり煩瑣な碁談義や精神論はゴメンです。特に私のような偏屈老人には。 | |
| 10-0018 | |
| ◆着手 ◆カムイ ◆10年07月01日 07:55 | |
| 碁の着手はつねに選択である。 要素は、石取り、地取り、石の強弱、 価値の大小。 いくつかの手、少なくとも二つの手から選ぶ。 候補手が思い浮かばないときは、格言などを思い出す。 最善手、 次善手の競いでなくても、なにも比較選択をしないよりはよい。 実行は難しく、そこに実力差ができるのである。 | |
| 10-0017 | |
| ◆上手の恐れ・下手の恐れ ◆カムイ ◆10年06月29日 08:48 | |
| 入会した初めの頃、私は6子以下の碁を避けていた。 6子以下の碁に 経験がないわけではない。 指導碁は数多く打ってきた。 だが、勝負 碁(点数が賭けられている)は初めてである。 下手の力は推測でき ないと、私は盤上の置石が怖いのである。 どれだけ働いてくるかわか らない。 通信碁になれない頃、クリックミスや時間切れを繰り返して、順位を 下げた。 9段で始めて8段まで下がったとき考えた。 勝とうと思う からいけない。 碁の手筋を楽しもう、6子以下の碁も打とう。 多子 局でも、手筋は沢山あるのだと。 そして、広く碁友をつくるのだ。 私の置石に対する恐れがなくなったのではない。 下手は上手の恐れを 思わない。 下手の恐れは、上手の力、ときには暴力である。 無法なことをやられ て負かされると、正当な手で負けるより、恐怖心がわくらしい。 恐れ のもとは正さない。 恐れをもつのはよいのである。 だが、恐れの相手は上手ではない。 一番恐ろしいのは、自分が読まないことである。 自分が読める範囲で 最善をつくせばよい。 碁が好きで、碁を愛するから、碁の中のよいものを求めればよい。 恐れをもつことは、人を謙虚にするのである。 | |
| 10-0016 | |
| ◆カムイ先生、待っています ◆とほる ◆10年06月27日 10:34 | |
| カムイ先生、PCの腕前が上がられたとのこと、大きな期待で待っています。 なにしろPCはそばに若い方がいないとどうにもなりません。 現役の頃は若い社員にああでもない、こうでもないと聞いてばかりいました。 「この前教えたでしょう」なんて言われてしょげちゃったこともあります。 引退後はなかなか聞けません。 どうにもならなくなったときは会社の優しい女子社員に電話します。 二人の息子は冷たくて話になりません。 三角関数や極限値を教えてやったのを忘れているのです。 恨んでいるのかもしれませんが。 カムイ先生の解説を見ることができれば、多摩川さんと並んでこの囲碁倶楽部の 最大の特徴になるでしょう。 繰り返しますがお待ちしています。 | |
| 10-0015 | |
| ◆上達 ◆カムイ ◆10年06月27日 07:27 | |
| 私も少し上達した。 碁ではない。 パソコン操作である。 通信対局の 最初の画面に、石ならべというボックスがあり、ここで棋譜がつくれる。 手順番号も入れられる。 パソコン20級は、やっと15級に昇級した。 これに、解説をつけるには、どうすればよいのか。 メール送付するのは どうするのか、考え中である。 | |
| 10-0014 | |
| ◆上達 ◆カムイ ◆10年06月20日 21:13 | |
| 碁の上達は年齢にはよらない。 75歳で碁を覚え、92歳で昇級した 人がいた。 級のレベルだが、その心意気は壮とする。 段のレベル でも、上がれないことはない。 棋譜並べ、詰碁読解、努力をつくして みてである。 打ち碁ほど楽しくはない。 だが、上達することは、 大きな楽しみである。 止まったことを、年のせいにするのは、年齢に対して申し訳ない。 ただし、高齢者は、生命の持ち時間が少なくなっていることを意識しな ければならない。 | |
| 10-0013 | |
| ◆力戦 ◆カムイ ◆10年06月20日 06:26 | |
| 私の師ともいえる安永さんの門下、影山敏郎さんは、戦後最初のアマ 本因坊戦に優勝した後、プロになった。 初段からである。 アマ戦 で活躍してからプロになったのは、初めてであった。 石取りに特異 な力をもっていた。 囲碁理論では、アマ四強の平田、菊池氏に及ば ない。 対戦すると、序盤では、割を食って、不利になることが多か ったが、中盤から力をだしてくる。 この対戦は、影山さんが、4段 になるまでは、互角であった。 後、7段まで上がっていった。 影山さんの碁をみる私は、石の形も悪く、手割で損なことを打っても、 石取りの執念はすごく、相手が捨てなくなった石の死活をかけた読み 合いに勝てば、勝負できると、理論派ばかりを目指していた、お利口 さん碁打ちに、石取りと力碁(ちからご)の面白さを教えてくれた ように思った。 | |
| 10-0012 | |
| ◆上手・下手 ◆カムイ ◆10年06月16日 22:08 | |
| 観戦していて、上手(うわて)の人より下手(したて)の人の方が上手(じょうず) な手を打ったのを見た。 うわて・したては、過去の経歴で、棋力の序列を言った もので、じょうず・へたは、そのときの、打つ手の程度を言ったものである。 振り仮名がなくても、使われる場合でわかるものである。 | |
| 10-0010 | |
| ◆下手名人 ◆カムイ ◆10年06月15日 10:00 | |
| 下手いじめの上手な上手、巧みに挑戦して、わけのわからない混戦に誘い込む。 4分6分の戦いでも、力の差で下手を混乱させる。 やるべきでない戦いに、 下手が乗ってしまうのは、前局までの因縁による。 地味な地取り戦のときでも 稼ぎまくって、中盤、すでに地合いは優勢、薄みを保護してればよいのに、黒が 少しでも地を囲おうとすると、徹底して邪魔する。 そんなにまでしなくともと 思えるが、取るものは取り、与えるものは皆無。 ”貧乏人は麦を食え”と 言った首相がいたが、この上手は、”貧乏人は麦も食うな”と言う冷酷さ、これ が次の局で、悪いところへ誘い込むこつなのか。 一寸の虫にも五分の魂、上手 下手の仲だけど、この仕打ちが、次回、いらざる抵抗を生むのである。 | |
| 10-0009 | |
| ◆趣味 ◆カムイ ◆10年06月08日 10:28 | |
| 庭の草木や野菜に、如雨露で水をやっていると、ホースでまけば楽でしょう、 と妻が言う。 園芸は仕事でなく、趣味である。 楽な仕事をしては苦労が ない。 水をやるとき、育ってくれよ、よい花を咲かせてくれよ、と話かけ ながら、水をやるにも気を配る。 草木にも意思がある。 以前、隣の木は 大事にされているのに、自分は大事にされてないと感じたのか、枯れた木が あった。 自然のすべてのものとも、付き合い方があると思う、 | |
| 10-0008 | |
| ◆遠くを見る ◆カムイ ◆10年04月03日 09:45 | |
| 私のランクは、上昇、下降、が激しい。 その上下幅は500点を越すので ある。 急落することは多いが、急上昇することは殆どない。 上がるとき はゆるやかである。 急落の原因は、体調不良(病気というよりは、極端な 寝不足の場合が多い)と精神錯乱(負けて熱くなる)である。 両方とも、 自覚して矯正できる筈。 わかっちゃいるけどやめられない。 でも、この ときは、対局が多くなり、対局数ランキングを上げていくのである。 急落は、短い期間に300点も下げたことがある。 大きく下げれば、手合い も1子近く変わってくるのに、なかなか上がれない。 3勝2敗では動かない。 一進一退の攻防、越すに越されぬ田原坂、先へ進めぬ西郷軍のあせりもかく ばかりかと思われた。 3勝した。 よし、上がる兆しが見えた。 一気に 駆け上がろう。 4勝、5勝、この下からなら連勝記録も狙える。 過去の 私の連勝は21勝、十傑にあと一歩であった。 6勝、7勝、そこで夢は 敗れた。 遠くを見たのがいけなかった。 崩れるとまた下に向かう。 この泥沼からも、這い上がってくる。 心の戦いの場、囲碁人生も捨てた ものではない。 | |
| 10-0007 | |
| ◆観戦 ◆カムイ ◆10年03月29日 13:01 | |
| 対局の相手がいない(対局室に対局待ちがなく、自分が対局待ちをしても、 申し込みをしてくれそうな人が、入室者の中にいない)とき、碁友の観戦 をする。 中盤過ぎの碁を観る。 私が初めに考えるのは、形勢判断で ある。 手残り、欠陥に、双方が気付かずにいるときもあるが、おおよそ の地合いを数える。 序盤からここまでの手順を追ってみるときもある。 進行状況、石の形が、形勢判断の資料となることもあるから。 形勢が はっきり決まっているときはそこで打ち切る。 興味がもてるときは、 終盤まで付き合う。 その間、私の相手になるような人が現れても、観戦 を止めることはしない。 どちらかに肩入れするようなことはないが、欲張り手、無理手が打たれると、 その相手の人の立場で考えるようになる。 終盤近くになって、手がない のに、相手の地の中に手を付ける人を見る。 置碁上手ならば、手が読め ないのか、故意に相手の間違いを期待しているのか。 形勢が悪いとき なら、止むを得ないが、そんなことをしなくても優勢なのに、意地悪く 下手いじめをするのを見ると、憤慨する。 下手の人の場合いは、手が 読めなくて、していることが多い。 終局直前、細碁の形勢、相手の地中 に打ち、手抜きされて、手にならず、再度打って、半目負けになったのを 見た。 愚かというか、その下手のために惜しむのである。 | |
| 10-0006 | |
| ◆頑張る手、欲張る手、無理手 ◆カムイ ◆10年03月06日 10:34 | |
| 敗局の中、頑張りが足らなくて負けた碁は寂しい思いがする。 その碁は もとより、後々の碁のためにも、いっぱいに頑張って打ちたいものである。 頑張るとは、手をよく読んで、最強、最善を求めることである。 頑張るを少し越えると、欲張り手になる。 欲張りがよいか悪いかは、時 と場合による。 欲張りがすべて悪いとは言い切れない。 劣勢の碁を ぬけるため、納得できる程度の欲張りを、相手に聞いてみる。 形勢の 転機となることもあるから。 ただし、我がままな気持ちを持たないこと。 欲張りが度を越すと、無理手になる。 無理手は、打つべきでないのが 常識だが、打つときもある。 敗勢が動かし難く思えるとき、試みて、 通らなければ投了する。 投げ場を求めるのである。 これは一度だけに とどめたい。 二度、三度、無理な手で逆転を狙うのは、よしんば、相手 のミスで成功しても、長い囲碁人生のプラスとは思えない。 対局の心掛けは、私が自戒することで、人に、かくあるべきだと言うの ではない。 もう一つ、無理手を打ってみるときがある。 置碁下手が、序盤から 稼いで、はやく逃げ切ろうとする態度を見せるとき、無理手でも、 逃げ気分の下手には、通用するのである。 成功率7割強、下手には恐ろ しい上手の怒りである。 無理手を通して勝つのは、よくないことだが、 下手が安易な勝ちを望むのも、よくないことだから、良心をとがめること もない。 とくに、序盤から一線のはねつぎヨセを打たれたとき、 どんなことでもして、その非を覚らせたい。 こちらも悪いことをする 言い訳ですが。 終盤ならば、両先はねつぎのヨセとなるようなところを、とくとくと、 上手に先んじて打ってやったという顔の石を懲らしめてやりたい。 ”なめたら、あかんでよう” ”極道の妻”岩下志麻さんの台詞のように。 | |
| 10-0005 | |
| ◆多摩川さん ◆カムイ ◆10年02月25日 10:17 | |
| チェスチャンピオン戦のいきさつ、およそのことは納得できました。 だが、囲碁の頂上をコンピューターに譲ることはできないという自論は 変えることはできません。 私が、草創期のプログラマー感覚から抜け きれないからかも知れませんが。 | |
| 10-0003 | |
| ◆電算機の思い出 ◆カムイ ◆10年02月23日 10:54 | |
| 私が電算機と付き合うようになって、昭和50年頃、手の平にのるほどの 小さなポケコン(ポケットコンピューター)を買った。 この頃は、性能 も向上していて、小さなポケコンでも、メモリーは2次元、座標指定で 設定でき、プログラム言語はベーシックだけだが、8000ステップ程 容量があった。 碁を組み込むには容量不足だが、私はこれにオセロゲーム をいれてみた。 盤は、8x8のメモリー、着手状況は、黒、+1、白、-1、 空き地、0、とした。 着手可能点(相手石をはさむことができる位置)は、 自石から隣接して相手石があるかどうか、さらに先まで調べていって、相手 石の先が空き地となったところである。 これを8方向に行う。 着手処理 は、着点から8方向にはさんでいるかを調べ、はさんでいれば、黒、白を 裏返す。 盤上の黒、白の石数も出力できるようにした。 局面のディス プレーが行えないので、私の頭の中に画くだけだが。 着手の良し悪しは、 私は判断するが、ポケコンは判断できないので、ランダムで着手を選ぶ。 強弱は問えないが、一応、ゲーム進行の形になった。 この時、私は、 いつか、コンピューターの中で、碁を進行させることができると確信した。 このポケコンはかなりの能力をもっていた。 私がつくった最大のプログ ラムは、24学級、週34時間、教員数40人、12教科、の時間割ボード を組み込んだことである。 座標指定するメモリーの枠に、各項目が重複 しないように、各教員の持ち時間だけ空き地に入れて行く。 小さな プリンターに接続して、全体の表、個人の週時間割表をプリントアウト できた。 実用に役立ち、人の手で5日かかっていた仕事を1日ですませる ことができた。 これから3年後、パソコンの時間割作成ソフトが市販され、 各学校が使うようになった。 これは、プログラム言語がマシン語であり、 私のものとは、まるで速度が違う。 ここにも、パソコンの急成長をみた のである。 今、囲碁有段者まで上達した。 私は、囲碁ソフトが人を越えることはない と自論をもつが、チェスソフトが人を越えたのは何故か知りたい。 | |
| 10-0002 | |
| ◆パソコン今昔記 ◆カムイ ◆10年01月07日 23:06 | |
| 囲碁ソフトが上達して、アマ有段者に対抗できるとういう文を読んで昔を思った。 昭和40年代中頃、現在のようなコンパクトした大容量のパソコンは、まだこの 世には存在しなかった。 誕生して間もない卓上電子計算機が、やっとプログラム 計算ができるようになった頃である。 その頃、本格的な大型コンピューターは、 一室を占めるほどの大きさであったと言う。 卓上電算機は、普及の目的で産振 法の補助があり、学校へ導入したものである。 電算機教育を数学で教える。 あまり関連なさそうだが、計算機と名がつくから、数学の分野なのか。 プログラムが組めると言っても、言語は、フォートラン、コボルなどには対応 せず、機種別の個別なアッセンブラー言語であった。 機能、容量も初歩的な もので、 僅かなメモリーとアキュムレーターとのデーター移送、四則演算、 演算エリアの符号判別によるプログラムのジャンプ機能、入力装置、出力装置、 最小限必要な能力を備えただけである。 プログラム容量も600ステップ しか使えなかった。 それでもかなりな仕事ができる。 私は、フローチャートを書いて、プログラムすることに興味をもった。 数学 関連のプログラムを50程つくってみた。 デジタルな計算、私の好きな研究 テーマ、整数論には大変役に立つのである。 電算機は急速に進歩し、機能、容量を増大した。 改良機種が年毎に発表された。 50年代に入る頃には、容量などに意を使わずにプログラムが組めるパーソナル コンピューターの時代となる。 私と電子計算機との付き合いは数年続いた。 電算機を数学教科で扱うのは、 無理であった。 受験競争が激しい時代、受験に関連しない電算機知識は、生徒 が身を入れて取り組めない。 学校も電算機教育はさめてきた。 高校教育から 電算機が撤退したもっと大きな理由は、教育に協力するという姿勢で、文部省に まで働きかけた電算機メーカーは、実は販路開拓に過ぎなかった。 新たな 販路を見つけて、教育の場から遠ざかった。 50年代、パソコンの性能は向上し、専門のソフトエンジニアも多くなり、優れ たソフトができるようになると、一般ではつくられたソフトを活用して実務に 役立てればよい時代となる。 パソコンは実用物として、新しい経営感覚の会社 へは、どんどん導入されるようになったのである。 その頃、私は電算機から離れた。 パソコンの、赤子、幼児期だけ面倒みたので ある。 私より後の時代に育ったソフトエンジニアの人の中に、囲碁愛好者も いたのであろう。 囲碁をコンピューターに教える。 私の昔の夢であった。 パソコンが人より強くなり、タイトルをとる時代がくるのは、好ましくないと いう文もあったが、それはあり得ない。 碁は対局して上達する。 パソコンは 対局しても、上達しない。 保護者(ソフト開発者)を越えることはできない。 コンピューターが自立成長するようになり、碁だけでなく、すべてのことで それが行えるようになったときは、人類破滅のときであろう。 | |
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| ◆東京近在便り 〜その六十四〜 ◆谷口 一 ◆10年01月06日 11:57 | |
| “人間万事塞翁が馬”とはよく言ったもの。2004年10月、丹後の宮津で未曾有の水害に遭遇した両親が、万やむなく住み慣れた地から、南東に百数十kmも離れた奈良の娘の家近くに移り住み、さて、年もとっているため、どうなるものかと心配したのだが、今年83歳の母は変わらず娟娟として、奈良の街歩きや買い物を楽しみ、ブックオフでの掘り出し本の講釈にかまびすしい。今年歳男の父は二度の脳梗塞のリハビリで病院生活が続くものの、若きハツラツとした介護士にも恵まれ、生駒山を眺める日の光のまぶしいほどの病室で、うつらうつらと日を送っている。窓下には柿の実が幾十も残っていた。 さて、その塞翁が奈良の町。まずは北の端の奈良阪の「奈良豆比古神社」を皮切りに、極寒の正月二日の夜明け頃、靴ひも軽く締め直し、走る世間に鬼は無しと、左に国宝楼門の「般若寺」眺めて足軽く、吐く息白きは盆地の底冷え、道なりに下っていけば鎌倉時代の癩病院「北山十八間戸」を左手に、寒さに縮む背を伸ばし、東の方に目をやれば三笠の山に若草山、その手前黄金の鴟尾(しび)も厳かに、「東大寺」の「大仏殿」のその偉容、西の空には十六日の月残り、まことに大和はまほろばで、さらに走れば佐保川の、流れも冷たき枯れ葦に、小橋渡ればバス通り、軒先低き商家が続き、一条通りで軒が切れ、そこに現わる「転害門(てがいもん)」、その大門こそは天平の、創建のままのおおらかさ、これぞ国宝の名にふさわしく、右の手の潜戸を入れば鹿の二匹三匹、走る男に目もくれず、緑残した野の草を、鼻で探しているばかり、さらに三匹五、六匹、あちらにかたまり寄り添いて、いっこうこちらに気も留めず、角も切られておとなしく、寒さの中に身をあずけ、神の使いと境内で、寝食するは何百年、坂道続きの東大寺、右手に「大仏池」を見下ろして、左手奥に「正倉院」、人も稀なる裏道を、ひたすら東に登りゆき、大仏殿の真裏から、やがて「二月堂」への石畳、雨だれ石をうがつの如く、千年の丸みを持った石畳、走り登る者にはただ辛き、さらに最後の回廊の、八十六の石段を一気に駆けて「二月堂」、欄干に立てば眼下に望む奈良の町、1300年の奈良の町、この壮厳さに手を合わせ、身も引き締まる心地して、ついでに体も心底冷えて、先程までのしたたる汗も、つららの如く身に感じ、いざ石段を駆け下りて、「三月堂」を左に見、若草山の山麓を、「春日大社」を目指し走れば、鹿の二声鳴くを聞く、その細き口笛の如き音に、秋ならば「奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき」となるものを、冬の正月ともあれば、いささか場違い時違い、これこれしかじか説教して、馬に念仏、鹿に経、なおも南に走りて行けば、願いを一言だけ聞いてくれる、「一言主神社」の小さき社、いろんな神様おられるもので、一言主とは楽しきと、若草山の山麓を、山焼き間近の枯れ草眺め、「春日大社」へひた走れば、三々五々の初詣、背中に善男善女の柏手響き、春日の森も輝きて、一気にバス道駆け下りて、左に名高い博物館、右に奈良の県庁現れて、いよいよ左は「興福寺」、あの阿修羅の像の忙しき、国宝五重塔も誇らしく、廃仏毀釈の明治の始め、塔が2円で薪に売られようとしたとは、今では誰も知らぬこと、現在価格で10万ほどか、恐ろしき時代があったもの、ここで半周、ここから西へと道をとり、ぐるりと北へ帰る20km、正月二日の朝飯前の奈良のジョギング楽しけり。 結局、塞翁が奈良を人一倍楽しんで、 ほんに、遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけむ | |
| 09-0047 | |
| ◆カムイ様へ ◆ななず ◆09年12月22日 23:26 | |
| らんりです。貴重なご意見ありがとうございます。 検討致します。 | |
| 09-0046 | |
| ◆時 ◆カムイ ◆09年12月22日 10:22 | |
| カムイはスピード好みである。 人が5・6時間かける札幌、 函館間を4時間弱で走行する。 スピードオーバーのリミット を考えながら、できるだけ定速で走行する。 加速、減速を 繰り返すのは、燃費の無駄とおもうから。 ブレーキを踏む 回数は少ない。 いつも思う。 市外の順調走行にはいる前、 市内は、平均時速も低く、時間もかかる。 他車も多く、注意 力、運転神経を集中する。 スピードを楽しむ前の、期待を 膨らませるときである。 以前、子供教室を担当し、子供の囲碁の生い立ちをアシスト していた。 素質の基礎を根付かせる時が長く、目覚めてから、 急速に才能を伸ばして行く。 7年間、地中に雌伏し、羽化してから、3週間で、命を終える 蝉の生涯を思った。 声高く、命を謳歌する3週間のため、 地中の7年も大事なときである。と。 | |
| 09-0045 | |
| ◆らんりさんへ ◆カムイ ◆09年12月20日 19:06 | |
| 私の畏友、アマチュアの星、菊池康郎さんの門下からプロ棋士の 逸材が育っています。 緑星学園のマネージャー、子供達の世話 をする結城さん(女性)は、礼儀作法、一般教養の躾も厳しく、 プロ棋士の精神を育ててくれます。 緑星学園の寄宿生になることを、勧めますが、入学には試験が あります。 | |
| 09-0044 | |
| ◆らんりよりカムイさんへ ◆ななず ◆09年12月19日 23:54 | |
| (ななずとなっていますが、投稿者はらんりです、変更できませんでした) びっくりしました、カムイ大先輩が天神さんだったとは!誰も気がつかなかったでしょう。天神さんの名前が消えることは少々残念ですが、カムイさんが戻って来られることは、囲碁倶楽部の人にとって喜ばしいことです。 私は、今らんりというハンドルネームですが、以前はアスカで打っていました。仕事が忙しいので一度退会し、再入会したら、五段に同じ名前の人がいたので、ネームを変えました。アスカの時は、カムイさんとして手合わせしていただき、らんりで天神さんと打ちました。以前は二子置きで今互先、今度はどうなるでしょうか。楽しみです。 私は実はななずの父親です。掲示板への書き込みは、私がするべきでした。ななずが対局中私が指導していると誤解されるのが嫌で、妻に書かせました。帰宅が遅いので実際ななずの対局を見ることは少なく、後で検討している程度で、今やっているのがななず本人の力です。妻が、隠れてないでちゃんと名乗ってお礼しなさい、と…。 カムイさん、多摩川さんの貴重なご意見をいただいて、ありがとうございます。私はどちらも正しいと思います。お二人のご意見はズレはないと思います。ななずは弱いまま院生になったので、囲碁倶楽部でまだまだ伸びる余地があると思います。棋譜並べや研究時間を増やしながら、カムイさんがおっしゃるように実戦不足を倶楽部で補っていきたいと考えます。県代表クラスに勝てるようになった時、それ以上対局で伸びないと自分で気付き、自然に多摩川さんのおっしゃるような、プロを目指す者としての勉強ができるようになるのではないでしょうか。その時には私はもう教えることができなくなるでしょう。ただ、そうなるまであまり時間がかかりすぎると、プロは無理でしょう。この半年が勝負です。 6年生になって私を抜きカムイさんや多摩川さんくらいのレベルに達していたら、しかるべきところに子供を託さなければならないでしょう。私は中国出身で、日本人と結婚後帰化しましたから、中国の道場に行かせるという手もなくはない。今年夏休みにも2週間ほど馬暁春道場に行かせました。3年くらい放りこんだら、相当強くなって精神的にも自立して帰って来ると思いますが、学校や言葉の問題があります。日本にはこうした道場が、東京に数えるほどしかなく、韓国中国に勝てない原因かもしれません。でも日本の囲碁の歴史や精神性は私は素晴らしいと思います。 プロ棋士になれる可能性はゼロに近いが、後で悔いのないようがんばるしかないでしょう。 | |
| 09-0043 | |
| ◆さらば天神 ◆カムイ ◆09年12月17日 18:56 | |
| 今年の6月、囲碁倶楽部はハッカーに襲われていた。 私と蜃気楼さんが、 その攻撃の矛先を受けた。 成績、順位、にいたずらされて、対局できない。 事務局の好意で、別なネームで打ってみては、という提案に乗った。 6月上旬に札幌でよさこいソーランという行事がある。 チームで舞踏を 競うのだが、参加チームは、全国、いや、海外からもあり、16000人 からの参加者がある。 その頂点に立ったのが、平岸天神チームであった。 札幌市平岸町にある天神山の神社は、オリンピックで優勝した南部忠平氏 の父君が建てたものである。 私は、この天神をネームに戴くことにした。 ハッカーに覚られぬよう、9段でなく8段で登録した。 棋風を変えて、 得手でない打ち方をするので、 カムイより楽な手合いのはずだが、なか なか、勝って上がって行くことができなかった。 9段に上がるまでに、 3月もかかったのである。 この経験は、私の碁にプラスになったかも 知れない。 混戦、思い切った大石の取りかけ、その機をつかむ。 碁を 若返らせたような気もする。 碁の構造改革、新しいマニフェスト。 ハッカーの被害も、ふり返る機会となったような思い。 何事もプラス 思考で考える。 ノー天気な楽天家。 カムイは長生きしますね。 ハッカー問題も下火になった今、天神はいなくなります。 天神山の神様 に成績を報告して、カムイにもどります。 カムイのアタックプラン、エイムハイ、闘志の復活です。 | |
| 09-0042 | |
| ◆音楽の先生 ◆とほる ◆09年12月16日 11:59 | |
| 高校2年の時に、選択科目は音楽をとりました。 3年生から単位を落とさない良い先生だと聞いたからです。 この先生の授業はいつも音楽鑑賞でした。 先生は約3分ごとにSP盤をひっくり返してくれました。 時々はベートーベン、モーツアルトのことをちょこっと話してくれましたがあとは静かなものでした。 生徒達は英単語を覚えたり、数学の問題を解いたり、眠ったりしていました。 何事も起きずに卒業しましたが、音楽を選択した友達のほとんどが音楽好きになったようです。 だいぶ年をとってから、先生の基本方針はいたずらな高校生達を音楽好きにして、 一生音楽を楽しめるようにすることであったと気がつきました。 急に「囲碁」の話になります。 若い頃ずいぶん努力をしたつもりでしたが少しも強くなりません。 本は何冊も買いましたがもう並べる気力も薄れています。 でも、勝っても負けても碁は楽しいのです。 顔や声も知らない碁敵が出来ました。 強くならなくても楽しむことができて、人生豊です。 | |
| 09-0041 | |
| ◆異次元の隠れん坊 ◆カムイ ◆09年12月09日 12:40 | |
| この頃、物をなくすことが何度もあった。 置いたと思うところにない、 ポケットにいれたと思ったが入ってない。 いずれも勘違いと思うけど。 そのときは、いくら探しても見つからない。 思わぬときに出てくるので ある。 探したとき、そこも見たのになかったけど。 (錯覚か、盲点か) 冷静に考えても、納得できない場合もある。 SF好きな”時の旅人”は、 考える。 物が一時、異次元に移って、この世から消える。 ときを経て もどってくる。 と。 現実の思い違いは棚上げして、夢の世界へ行く のも楽しいから。 | |
| 09-0040 | |
| ◆先生 ◆カムイ ◆09年11月11日 19:24 | |
| 私の教え子の若い女性が、囲碁講師になった。 N先生と呼んだら、 戸惑ったようだ。 T子ちゃんと呼んでいた子供の頃の教え子だから。 でも、講座の生徒さんからは、先生と呼ばれている。 私に先生と 言われて面映かったのか。 私は高校教師をしていた頃の慣れである。 学校では、生徒は教師を先生と呼ぶ。 教師間でも、同僚を先生と呼ぶ ことに違和感はない。 教員は、上下のない職域が広いのである。 私も、初めて教師になったときは、生徒に壇上から挨拶するとき、 校長から、”新しく赴任されたK先生です。” と紹介されて、奇異 に感じた。 それまで先生と言われたことがなく、目上の人からも先生 と言われたからである。 先生と言う敬称は、特別なものでない。 何と呼んでよいかわからない ときも使うのである。 N先生も今は同僚講師。 すぐに慣れるであろう。 | |
| 09-0039 | |
| ◆花と野菜の自然生え ◆ヒロミ ◆09年11月04日 19:28 | |
| カムイさんのえんどうの意気地、同じことが朝顔に、今年の夏に落ちた種から芽が出て、5センチ位の背丈で1輪のみ大きな花を咲かせています。11月4日でも日当たりがよい場所だからでしょう。他には、昨年コスモスとひまわりを雑草地に植えたら今年は落ちた種の自然生えで、ひまわりはまだ咲いています。コスモスは、今が盛りです。菜の花も茎ごと草地に捨てたら、雑草の中に混じってたくさん葉っぱが出ています。囲碁やゴルフに酒飲みと忙しい人生で初めて観る花や野菜の生命力は新鮮です。雑草地に育った菜の花をお浸しで食べるのが楽しみです。 | |
| 09-0038 | |
| ◆えんどうの意気地 ◆カムイ ◆09年10月30日 21:08 | |
| 庭にこぼれたえんどう豆が、9月中旬になってから、温かい日差しに誘われて 芽を出した。 ”これ、えんどうよ。 馬鹿ね、今頃芽をだして。 育つあて もないのに。” 妻の声。 むしろうとする手を抑え、”待って。 せっかく 出した芽を。 どこまで生きれるか見守ってみたい。” それから私は、毎朝 肥料をまぜた土を一握りずつ根元にまいて水をやった。 初めは、育つ気配を 見せなかったが、愛情を込めて世話する心を、えんどうも覚ったのか、やがて 丈を伸ばし、150cm。 10月になってから花を咲かせた。 しばらく見守る 中、ついにやった。 さやを実らせたのである。 人ならば、80歳を過ぎて から、一生懸命生きて、この世にもう一仕事為した思いがした。 よし、私もこれから・・・。 | |
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| ◆『おくのほそ道 追跡行』ああ松島や松島や(第一部最終回) ◆谷口 一 ◆09年10月20日 15:24 | |
| 塩竃神社の本殿へは表坂からだと、急勾配の202段の石段を登りつめる。二、三度途中で休憩をとっても息が切れる。上がれば塩釜の港が見える。港は松島へとつながっている。 神社の創建の年代は詳らかではないが、国府多賀城の鬼門となる北東方向5kmの位置にあることからも関係は深く、おそらく奈良時代あたりの創建と思われる。また製塩との関連もその名からありそうである。その後武家社会になってからも、東北鎮護、海上守護の陸奥国一宮として長く朝野の信仰を集めてきた。特に伊達家の尊宗は厚く、歴代の藩主は大神主として務めていた。 芭蕉は1689年5月9日(陽暦6月25日)の朝八時に参拝している。梅雨の合間の、五月晴れの好日であったようだ。急な石段を一段一段と上がっていったのだろう。初夏の陽気に少し汗をかいたかもしれない。しかし、石段を登りきり、楼門を入り遥か眼下からの太平洋の海風を受けた時、清涼なる心地よさを存分に感じたと思う。日本三景“松島”も眼前に広がっているのだ。 日本三景は芭蕉の奥の細道の旅より50年ほど前の1643年(寛永20年)に、儒学者林羅山の三男、林春斎がその著『日本国事跡考』の中で「日本三処奇観」として“天橋立”“宮島”“松島”を挙げたことにはじまる。すでにこの時代日本三景は人口に膾炙されていたと考えられる。 芭蕉は『おくのほそ道』の冒頭で「松嶋の月先づ心にかかりて」と書いて旅立っている。その松島にとうとう来たのだ。塩釜の港から舟に乗り松島の島々を眺めている。現在も芭蕉コースめぐりの遊覧船が運航している。塩釜から松島まで50分ほどの船旅になる。松島湾の島は八百八島と称されているが、実際には260余の島々が点在している。そのどれもが各々独自の景観を見せ、芭蕉の言う「扶桑第一の好風」を作り上げている。 「嶋々の数を盡して、欹つものは天を指し、ふすものは波に匍匐ふ。あるは二重にかさなり三重に疊みて、左にわかれ右につらなる。負へるあり抱けるあり、児孫愛すがごとし〜」 遊覧船に乗り芭蕉の文章を心に入れ、右を左をながめてあの島のことか、あそこの巌のことかと想像を膨らませて潮風に吹かれる。ときおりカモメが啼く。 潮の香りのする江戸深川から、野と山と田畑の道をずっと歩き通してきて、久々に海を満喫した芭蕉の気持ちは如何ばかりか。その海がまた日本三景の松島とくれば。 “松島やああ松島や松島や”が、芭蕉の作といわれることがあるが、これは誤伝である。実際は江戸後期の狂歌師田原坊が作った“松島やさてまつしまや松島や”がもとで、「さて」が「ああ」となって伝わったようだ。芭蕉とはまったく関係がない。 芭蕉の乗った小舟は雄島あたりに上陸し、渡月橋という名の橋で陸と結ばれたこの小島を見物している。島は東西40m南北200mほどで、古くから数多くの僧がここを修行の場とした。岩に彫られた幾多の仏は、長い年月風雨にさらされ風化しその形を朧にしている。ここで修行した僧の中で特に有名なのは“宮城野”のところでも書いた見仏上人であろう。上人は厳しい修行の末に、遠い所まで瞬時に移動できる法力を身につけていたという。仏教説話集「撰集抄」に西行法師との問答のような形で載っている。今から900年ほど前の話である。SFでいうところの「テレポテーション」や「ワープ」というものであろう。島を歩くと何か強い霊気のようなものを感じる。見仏上人が松島のこの雄島と、遥か能登半島の岩屋を瞬時に行き来したということも、ここにこうして居れば、さもありなんと思えてしまう。 芭蕉がこの島を歩いた時には、まだ隠遁生活を送っている道心者が住んでいたようだ。庵があり落穂を焚く煙がただよっていた。芭蕉は心惹かれ立ち寄っている。何を話したのか。時間は経ち、やがて月が昇り海にうつる。昼間とはまた異なるあたりの景色。宿に入り海に向かった窓を開き、旅寝する。あやしきまで妙なる心地。芭蕉、絶景の松島で句を詠まず。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 『おくのほそ道』 松尾芭蕉 松島 抑ことふりにたれど、松嶋は扶桑第一の好風にして、凡そ洞庭・西湖を恥ぢず。 東南より海を入れて、江の中三里、浙江の潮をたたふ。嶋々の数を盡して、欹つも のは天を指し、ふすものは波に匍匐ふ。あるは二重にかさなり三重に疊みて、左にわ かれ右につらなる。負へるあり抱けるあり、児孫愛すがごとし。松の緑こまやかに、 枝葉汐風に吹きたはめて、屈曲をのづからためたるがごとし。其の気色窅然として、 美人の顔を粧ふ。ちはや振る神のむかし、大山ずみのなせるわざにや。造化の天工、 いづれの人か筆をふるひ詞を尽さむ。 雄嶋が磯は地つづきて、海に出でたる嶋也。雲居禅師の別室の跡・座禅石など有り。 将松の木陰に世をいとふ人も稀々見え侍りて、落穂・松笠など打ちけふりたる草の 庵、閑に住みなし、いかなる人とはしられずながら、先ずなつかしく立寄るほどに、 月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。江上に帰りて宿を求むれば、窓をひらき二 階を作りて、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ。 松嶋や鶴に身をかれほととぎす 曾 良 予は口をとぢて眠らんとしていねられず。旧庵をわかるる時、素堂松嶋の詩あり、 原安適松がうらしまの和哥を贈らる。袋を解きてこよひの友とす。且、杉風・濁子が 発句あり。 | |
| 09-0036 | |
| ◆スピーチ ◆カムイ ◆09年10月01日 13:43 | |
| 私の名は”さい”。 と言っても”光の碁”のサブキャラクターでは ありません。 遠い過去から時空を旅してきた碁のスピリットです。 中国4000年の歴史で、初めにできた国を夏(カ)と言います。 夏の国の人々は農業を行うようになった。 自然から木の実を採集 したり、狩猟によって食料を得た生活からは、人類の大変な進化です。 農業に必要なこと、春夏秋冬を知るために、暦をつくることが大事 でした。 天文学者が、天体の運行周期を観測して暦をつくった。 夏の暦を夏暦といい、日本の旧暦のもとにもなっています。 農業に 必要なこと、灌漑治水の工事も行った。 4000年も昔の人が、 これだけのことをやったのだからすごい。 これらのことを成し遂げた 天文学者、数学者が、碁という競技を考えたのでしょう。 農業を 始めた人は、土地を所有するという考えをもち、よい土地を多く持ち たいと思う。 実生活で土地の取り合いが起これば、秩序を乱し、 社会が壊れる。 盤上の競技としたことで、人々は満足したのです。 碁は天文と、土地の所有に縁が深いのです。 多くの人に愛好される ようになったが、創始者である私、”さい”は技術が優れていた。 誰が一番強いのか。 人々の間では、夏の”さい”だ、”カサイ”だ、 ”カサイ”だと言われていた。 その頃は、まだ、名人という言葉は なく、”カサイ”が代わりの言葉でした。 (うそばっかり言って。) え、君達の先生の名前と同じですって。 うん、現代のかさいという 人もかなりの打ち手ですが、最強ではありませんね。 ”さい”が その人に乗り移れば、最高峰まで上るでしょう。 でも、藤原の佐為 (”さい”)が乗り移った秀策は、若い時に死にました。 君達の 先生を死なせたくないから、見守るだけです。 代わりに、教え子 から最高峰に上る人がでるでしょう。 真夏の夜の夢、碁のスピリット”さい”は、碁を愛好する人の心に 住みます。 子供教室夏の合宿より。 | |
| 09-0034 | |
| ◆囲碁の才能 ◆とほる ◆09年09月24日 12:57 | |
| 1.碁が強い人は思考力が優れている・・盤面を見て碁を考える力は優れていても、他のことについてはどうかなと言う気がする。 2.碁が強い人は数学ができる・・学生時代、数学ができる友達はいっぱいいたが、碁が強いのはほんの数人 、これも俗説らしい。 3.碁が強い人は記憶力が優れている・・これも1と同じく俗説。 4.碁の強い人は頭の中に碁盤を作れる・・これは真実に近いかもしれない。ソロバンの達人は、暗算をしているわけではなく、頭の中のソロバンをはじいていると聞く。凡人は3手先が朦朧としてしまうが、碁の強い方は頭の中の碁盤に並べるから間違わない。プロが何時間も考えているのはこの頭の中の碁盤に棋譜を作ったり崩しているかららしい。 では、凡人でも訓練で頭の中に碁盤が作れるか、それは不可能と思う。 頭の中に碁盤が作れるのは天から与えられた才能であり、凡人が近づける距離にはない。 でも勝ったり負けたりする囲碁は楽しい。凡人は楽しめるという特権がある。だから「囲碁倶楽部」は発展するだろう。 (囲碁の才能についてのご意見をお聞きしたい。) | |
| 09-0033 | |
| ◆世界アマ選手権戦 ◆カムイ ◆09年09月22日 18:53 | |
| 洋平君が世界アマ選手権戦の日本代表になった。 北海道選手の全国優勝は 初めてである。 私の積年の望み、タイトルは北へもたらされた。 私自身 で果たさずとも、教え子によってなされたことが嬉しい。 だが、これは 終わりではない。 来年5月に北京で行われる世界戦が残っている。 最高峰まで頑張ってくれることを祈る。 | |
| 09-0032 | |
| ◆ど根性朝顔 ◆カムイ ◆09年09月16日 09:06 | |
| 春先に、乱生した朝顔を間引きしたとき、間引きされた芽も可哀相に思い、 植える場所がないので、裏の砂利を敷いたところへ、砂利をかきわけ、黒 土を少し入れて植えてやった。 その後、根元は砂利に埋もれてしまった が、めげずに枝を上にのばし、一生懸命花を咲かせた。 今、我が子孫を 残そうとしている。 与えられた環境の中で必死に生きる。 ハンデーを負い、苦しい環境の中で戦う白にも、実を結ぶときはくる。 | |
| 09-0031 | |
| ◆朝顔 ◆カムイ ◆09年09月13日 14:07 | |
| 庭に落ちこぼれた朝顔の種が、暖かい日差しに誘われて、今頃になって、 ひょこひょこと芽をだした。 双葉をひらいてにこにこと笑顔みたい。 育つ時もない中秋に。 可哀相に思い、プランターに土をもって移し、 室内においた。 一冬は 寝て暮らせよと 我が子らに 親朝顔は 教えざりしか | |
| 09-0030 | |
| ◆次席の無念さ ◆カムイ ◆09年09月03日 07:23 | |
| 北へタイトルを。 私の積年の望みであった。 全国アマ本因坊戦、洋平君は決勝で敗れ、タイトルは成らなかった。 思えば、洋平君は、過去にも苦い思いを味わってきたのである。 小学生のとき、子供名人戦は決勝で敗れた。 院生のときは、次点で 入段を果たせなかった。 そして今回も。 優勝を目指すものに、 準優勝では、健闘を称えることはできない。 無念さを思うのみ。 だが、この思いは、次なる闘志への源である。 無念なる 勝負の思い 胸に秘め はるかに望む 高きいただき | |
| 09-0029 | |
| ◆『おくのほそ道 追跡行』 謎の古碑「壺の碑」、多賀城 ◆谷口 一 ◆09年09月01日 10:50 | |
| 仙台で風流の人加右衛門から送られた紺の染緒のついた草鞋を履き、芭蕉、多賀城を目指す。 中世、仙台から多賀城へ行く途中に「おくのほそ道」という名の街道があった。しかしいつの間にか見失われ、人々から忘れ去られてしまう。それを江戸時代の延宝〜貞享期に仙台の俳人大淀三千風が整備している。そのわずか後の元禄期に、芭蕉はそこを歩いたことになる。現在はその道を記念する立派な石碑が東光寺門前に建っているのみで、街道はない。この古い街道「おくのほそ道」から、芭蕉は紀行文のタイトルをとったようだ。和歌の世界に「蔦の細道」があり、それを念頭に入れてのタイトル付けであろう。 東光寺門前から東におよそ5kmの距離に多賀城跡はある。芭蕉の足なら一時間ほどか。 古代東北の政治的・軍事的拠点として多賀城は、「多賀城柵」という名で奈良時代の基本史料「続日本紀」に登場する。柵とは砦・要塞の意である。多賀城は724年に創建され、国府が置かれて按察使(あぜち)という官僚のもと、陸奥だけではなく出羽の国をも統轄していた。また軍事のための鎮守府も置かれ、北の民蝦夷(エミシ)との長い戦いの基地としても歴史に残っている。780年には蝦夷の指導者伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)の乱により一度焼失しているがまもなく再建され、その後も長く東北の要衝として重要な役割を果たす。しかし、南北朝時代以後は徐々に荒廃し歴史の陰に埋もれてしまうことになる。 多賀城攻防の一方の勢力、蝦夷(エミシ)とは何であったのか。日本の土着の民だったのか。主に朝鮮半島経由で入ってきた東北アジア人から追われ、徐々に北へ逃れていった民、原日本人だったのか。かれらは奈良時代、中央政権の10万の兵に立ち向かっていた。征夷という名のもとで奥州は侵略されていった。802年の坂上田村麻呂の大遠征まで、なんと18回におよぶ征夷が繰り返されている。歴史はいつも勝者のもの。蝦夷に関する資料の乏しいのが残念だ。ただ、その後奥州平泉の黄金の世紀を築いた藤原三代も蝦夷の末裔という。蝦夷に関しては興味が尽きない。 さて、その多賀城に毅然として残っている「石碑」。高さ196cm、幅92cm、厚さ70cm。碑面上部に「西」の一字があり、その下に11行140字の文字が彫りこまれている。 前半五行は箇条書きで、京(平城京)、蝦夷国(えみしのくに・宮城県北以北の地域)、常陸国(ひたちのくに・茨城県)、下野国(しもつけのくに・栃木県)、靺鞨国(まつかつのくに・中国東北部)から多賀城までの距離が記されている。 後半六行が本文で、前段には神亀元年(724年)に大野朝臣東人(おおののあそんあずまひと)が多賀城を設置したことを、後段には天平宝字六年(762年)に藤原恵美朝臣朝 (ふじわらのえみのあそんあさかり)が多賀城を改修したことが記されている。建立は天平宝字六年十二月一日。 この碑が征夷大将軍坂上田村麻呂が弓の弭(はず)で「日本の中央のよし」と書き付けた、日本の果てにあるという古碑「壺の碑」なのか。西行が寂蓮が頼朝が歌に詠んだ碑なのか。芭蕉の時代には何の疑いもなくそう信じられていた。だから、芭蕉もこの碑の前で感激にうち震え涙を流した。 「行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労をわすれて泪も落つるばかり也」と書いている。 しかし、この多賀城碑は本物の「壺の碑」ではなかった。あの副将軍水戸光圀も注目し、仙台藩でも調査したようだが結論は出ず、明治の頃には碑文の内容から近世の贋作の声もあがり、その後昭和の四十年前半までは誰からも顧みられることなくうち捨てられていた。 だが、多賀城跡の発掘調査が進むうちに碑文の内容も事実と矛盾なく、書体も奈良時代のものであると確認されるに至った。あの坂上田村麻呂の「壺の碑」より半世紀も古い古碑「多賀城碑」として蘇ったのだ。碑は静かに覆堂の中に立っている。何を意味するのかわからぬがはっきりと「西」の字が見える。1245年前の字だ。見る者まさに泪も落つるばかり也である。 では、本物の「壺の碑」はどこに眠っているのか。土の中で光を待っているのだろうか。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 『おくのほそ道』 松尾芭蕉 壺の碑 壺の碑 市川村多賀城に有り。 つぼの石ぶみは高さ六尺餘、横三尺斗歟。苔を穿ちて文字幽也。四維国界の数里を しるす。「此の城、神亀元年、按察使鎮守府将軍大野朝臣東人之所置也。天平宝宇六年 参議東海東山節度使、同将軍恵美朝臣朝獦修造而、十二月朔日」と有り。聖武皇帝の 御時に当れり。むかしよりよみ置ける哥枕おほく語傳ふといへども、山崩れ川流れて 道あらたまり、石に埋れて土にかくれ、木は老いて若木にかはれば、時移り代変じて、 其の跡たしかならぬ事のみを、爰に至りて疑ひなき千歳の記念、今眼前に古人の心を 閲す。行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労をわすれて、泪も落つるばかり也。 | |
| 09-0028 | |
| ◆歴戦 ◆カムイ ◆09年08月23日 13:47 | |
| 遺恨なり十年、一剣をみがく 流星光底 長蛇を逸す 頼山陽の詩、上杉謙信は十年の戦いに、結論を得られなかった。 悲願50年、タイトルをもって北へ帰る。 将棋では、何人もの人がタイトルをもち帰っている。 40年以上前にも、 私の数学の教え子、佐藤、高野、は高校生の頃から、全国アマ名人をもち 帰った。 だが、碁では未だ、果たした人がいない。 アマ四強の壁は 厚かった。 北にも逸材はいたのである。 だが、若い中にプロの道に 進んで、アマタイトルは運んでくれなかった。 プロのタイトルをとって 頂上に上った人が、3人もいたのは嬉しいことなのだが。 いずれも、 私よりは後の世代の人だけど。 残ったものが頑張らなくっちゃ。 長い年月が過ぎて行った。 同じ世代 の打ち手は皆消えていった。 心の灯は消えていない。 今、私のかっての碁の教え子、洋平君に期待がかかる。 私もまだ現役で 頑張っていなくては。 八十路碁で名を残す日置源二郎の様に。 残り火の 燃え尽きるまで 囲碁戦士 | |
| 09-0027 | |
| ◆8・15 ◆カムイ ◆09年08月15日 06:33 | |
| わだつみの 彼方へ逝きし さきがけの 御霊まつりし 靖国の宮 戦闘に参加した予科練出身者の半数は、散っていった。 年若く、参戦しなかった後輩、私は、後の世に生き、慰霊を思う。 | |
| 09-0026 | |
| ◆『おくのほそ道 追跡行』 武隈の松、笠島あたり ◆谷口 一 ◆09年08月05日 16:56 | |
| 芭蕉『おくのほそ道』の本文では「笠島」の章が先にあり「武隈の松」の章がそれに続く。しかし実際の行程は逆である。芭蕉は武隈の松を先に見て笠島を探し、仙台に向かっている。 時々このように、創作的な効果をあげるための置き換えやフィクションと思われる箇所がある。『おくのほそ道』がたんなるの紀行文でないのが、こんなところからもわかる。ともあれ、飯坂からは北東に道を取り、ひたすら仙台方向に向かっていく。 福島県と宮城県の県境を過ぎると山間左手に「馬牛沼(ばぎゅうぬま)」が見えてくる。このいわくありげな沼の名の由来はいくつかあるようだが。その一つ。征夷大将軍坂上田村麻呂の馬が戦闘の折に、沼に引き込まれるように入り死んだことから、元は「馬入沼」と呼ばれていたという。それが牛も引き込んで「馬牛沼」に変化。周囲は2kmほど、今は白鳥の飛来地として有名である。 沼から僅かの所に田村神社があり、その境内に前回の医王寺で書いた源氏の将、佐藤継信・忠信兄弟の妻の像を祭る甲冑堂がある。芭蕉らは元禄二年五月三日に拝観しているが、彼らが見た堂は、明治八年の六月に放火により焼失している。現在のものは昭和十四年に再建されたものである。 白石の街中を過ぎ白石川に沿ってなおも北東に進むと、桜の名所「一目千本桜」がある。白石川の川辺に8kmの桜並木が続く。「一目千本桜」、まさにと思わせる命名だ。その横をJR東北本線が並行して走っており、桜の季節は速度を落して通過してくれる。粋な計らいだ。 白石川が福島県から流れてきている大河阿武隈川と合流して、太平洋に注ぎ込む5kmほど手前の地に日本三大稲荷の一つ竹駒神社がある。 竹駒神社は、衣・食・住をつかさどる三神が祭神である。842年小野篁(おののたかむら)が陸奥守に着任した際に創建されたという。篁はこれより四年前に遣唐使の副使に選ばれ唐を目指したが、二度の失敗の後、三度目は自らの意思で一行に加わらなかった。これが時の上皇の怒りをかい、一度は隠岐の島に流されている。百人一首に取り上げられている篁の歌は、この隠岐の島行きの時の感慨だろうか。小野篁もまた数奇な運命の人である。 わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟 芭蕉が「め覚むる心地はすれ」「めでたき松のけしき」と感嘆した武隈の松は、この竹駒神社のやや斜め裏手あたりにある。現在は七代目の松が、地際で二股に分かれ颯爽と立ち天を突いている。芭蕉が300年前に見たのは五代目の松という。焼けたり倒れたり伐採されたりとさまざまな難に会いながらも植え継がれてきた。 藤原元善や能因、西行など数多くの歌人に詠まれ、陸奥の国の歌枕として慕われ続けたこの松に、芭蕉はきっと手を当て、千年の昔に思いを馳せたであろう。 二木の松史跡公園内にはすでに八代目の若木が育っている。この若木はここから15kmほど南にいった山元町で見出されたという。歴代の松同様に地際で分かれた二木の形を持っている。こうやって大事に植え継ぎの準備が行われているのだ。千年後にも武隈の松はやはり天を突いているのだろうか。そうあって欲しいと願わずにはいられない。 さて武隈の松からは、ほぼ真北にある笠島の道祖神を目指す。 芭蕉は泥道の中、笠島にあるという藤原実方の塚やかたみの薄を、人に尋ね探すが、結局そこには行き着けなかった。西行も歌を詠んでいるこの歌枕の地を目前にして断念しているのだ。今では想像も出来ない泥道に草鞋の足をとられ、降る雨に肩を落とした芭蕉の後姿が見えるようだ。心残りでならなかったろう。下の句の「いづこさ」にその思いが読み取れる。 笠嶋はいづこさ月のぬかり道 しかし曾良の随行日記によると、落胆の芭蕉はこの日、白石から仙台までの13里(52km)を歩き通している。雨のぬかり道を。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 『おくのほそ道』 松尾芭蕉 笠島 鐙摺・白石の城を過ぎ、笠嶋の郡に入れば、藤中将実方の塚はいづくのほどならんと、人にとへば、「是より遥か右に見ゆる山際の里をみのわ・笠嶋と云ひ、道祖神の社・かたみの薄今にあり」と教ゆ。此の比の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺めやりて過ぐるに、蓑輪・笠嶋も五月雨の折にふれたりと、 笠嶋はいづこさ月のぬかり道 武隈の松 岩沼に宿る。 武隈の松にこそめ覚むる心地はすれ。根は土際より二木にわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。先づ能因法師思ひ出づ。往昔むつのかみにて下りし人、此の木を伐りて名取川の橋杭にせられたる事などあればにや、「松は此のたび跡もなし」とは詠みたり。代々あるは伐り、あるひは植継ぎなどせしと聞くに、今将千歳のかたちととのほひて、めでたき松のけしきになん侍りし。 「武隈の松みせ申せ遅桜」と挙白と云ふものの餞別したりければ、 桜より松は二木を三月越し | |
| 09-0025 | |
| ◆『おくのほそ道 追跡行』 医王寺、飯塚の里 ◆谷口 一 ◆09年07月27日 12:20 | |
| 文知摺観音からは、阿武隈川を月の輪大橋で渡る。芭蕉はやや下流にあった「月の輪の渡し」で川を越えている。そこからは北西の山際方向に医王寺を目指す。福島交通飯坂線に添って行けば道路脇に「医王寺前」という駅がある。駅といっても駅舎があるわけではなく、むしろバスの停留所に近い感じだ。脇道を入っていくと整備された車通りに出て医王寺の駐車場がある。駐車場内にはテント張りの農産物売り場があり、地の物とおばさんが並んでいた。 医王寺は天長三年(826年)開基の真言宗の寺院で、弘法大師御作の薬師如来像が祀ってある。源義経に随従した佐藤継信、忠信兄弟一族の菩提寺で、義経一行が奥州平泉に落ちる時に立ち寄ったことを伝える、弁慶の笈(おい)が寺の宝物殿に残されている。笈はリュックのように背負う当時の収納箱で、修験者や行脚僧などが用いた。仏具や生活用具一式を入れて移動時に使ったという。さすがに弁慶の物と伝えられているだけあって横幅も大きく、ガラス越しに見た感じでもかなり重量がありそうに感じる。弁慶はなぜここに生活道具である大事な笈を残していったのであろうか。平泉まではまだ距離があるというのに、すでに覚悟を決めていたということか。 佐藤継信、忠信兄弟は源平の合戦の折、共に源義経の四天王の一人として目覚しい活躍をする。しかし兄の継信は四国屋島の戦いで、平家随一の武将平教経が義経に向けて放った矢に、義経を守るために自ら盾となり落命する。弟の忠信は義経が兄頼朝に追われる身となってからも同行するが、京堀川の戦いで義経らを逃がした後、死闘の末に討ち死にしてしまう。 二人の子を喪った母乙和御前の悲しみは深く、生きる気力さえ失ってしまう。案じた二人の嫁達は自分達の悲しみをこらえ、亡き継信・忠信の武具をまとい凱旋の姿で乙和御前の前に立ち慰めたという話が残っている。 医王寺の裏手に「乙和の椿」と呼ばれている椿がある。乙和御前の悲しみが乗り移ったといわれ、今も花は開かず蕾のままで落ちてしまう。 芭蕉、500年前を思い墓前で涙を流す。 その夜、芭蕉等は惨憺たる思いをする。「温泉(いでゆ)あれば湯に入りて〜」までは良かったのだが。温泉は飯坂温泉。今はりっぱな温泉街だが、当時は宿らしきものもなかったようだ。 芭蕉が入った湯は、現在も共同浴場として営業をしている「鯖湖湯」か、今はない「滝の湯」ではないかといわれているが定かではない。今の「鯖湖湯」は木造建築の風情のある浴場である。シャワーや湯の出る蛇口はない。脱衣場と浴室の壁もない。浴槽はりっぱな御影石。シンプルで清潔だ。熱めの湯。入浴料200円也。 さて、芭蕉が惨憺たる思いをするのは風呂から上り、泊まるところを借りるのだが、そこは土間に莚を敷いてあるのみ。灯火もなく、雨漏りがして、蚤や蚊にも襲われ眠るどころではない。そのうえ持病までもおきる。その宿泊場所は「滝の湯」の湯番小屋だったという口碑があるそうだ。湯番小屋ならさもありなん。ただ何故もう少しましな所に宿泊できなかったのだろうか。かなりの戸数の村であったのは確かなのであるから。その原因は当時のきびしい規律ともいわれている。「あやしいもの、よそ者をもてなすことを禁ず」というような藩令があったようだ。芭蕉といえども当時の村人にとっては、ただのよそ者であったのかもしれない。 それにしても「持病さへおこりて消え入る斗になん」とは気の毒。さて芭蕉の持病とは。いろいろといわれている中で、気を失うほどの痛みから推測すると胆石症からくる疝通発作ではないか。激しいこらえようのない痛みが突然起こるのが特徴で、背部や胸部にも痛みがはしるという。まさに消え入るほどの症状といえる。 翌日やや回復した芭蕉は思う。旅に野たれ死んでも、これ天命だと。ぬかるんだ道に足をとられながら、また北を目指す。芭蕉たち、ここまでに何足草鞋を履きつぶしたのだろうか。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 『おくのほそ道』 飯塚の里 松尾芭蕉 月の輪のわたしを越えて、瀬の上と云ふ宿に出づ。「佐藤庄司が旧跡は左の山際一里半斗に有り、飯塚の里鯖野」と聞きて、尋ね尋ね行くに、丸山と云ふに尋ねあたる。「是庄司が旧館也。梺に大手の跡」など、人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも二人の嫁がしるし、先ず哀れ也。女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かなと、袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入りて茶を乞へば、爰に義経の太刀、弁慶の笈をとどめて什物とす。 笈も太刀も五月にかざれ帋幟 五月朔日の事也。 其の夜飯塚にとまる。温泉あれば湯に入りて宿をかるに、土坐に莚を敷きてあやしき貧家也。灯もなければ、ゐろりの火かげに寝所をまうけて臥す。夜に入りて雷鳴り、雨しきりに降りて、臥せる上よりもり、蚤・蚊にせせられて眠らず。持病さへおこりて消え入る斗になん。短夜の空もやうやう明くれば、又旅立ちぬ。猶夜の余波心すすまず、馬かりて桑折の驛に出づる。遥かなる行末をかかえて、斯る病覚束なしといへど、羇旅邊土の行脚、捨身無常の観念、道路にしなん是天の命なりと、気力聊かとり直し、路縦横に踏んで、伊達の大木戸をこす。 | |
| 09-0024 | |
| ◆劫 ◆カムイ ◆09年08月23日 19:02 | |
| 手が出たら意地をひけ、意地が出たら手をひけ。 空手の道場訓である。 武器を持たなくても打撃力が大きい空手を 喧嘩の手段にしてはならないという戒めである。 劫は意地を伴う。 碁に負けても劫に負けるな。 などという人が いるくらい意志のぶつかり合いである。 劫に勝って碁に負けること もある。 劫の時ほど冷静さを必要とする時なのであろう。 劫材の 大きさ、振りかわり後の2次災害のありなし。 早打ちしてはなら ないのである。 神算といわれた呉清源9段は、劫の解決が早かった。 劫を始める前に、解決法をきめていて、長く劫争いを続けることが なかった。 関西の細川千尋9段は、劫が非常に好きで、いつまでも 続けていたい棋風(気風)であった。 この人は、旧制高校(戦前の 超エリート)、熊本第五高等学校を中退して棋士となった異色の闘士 である。 一途な攻撃力をもっていた。 意地をひかない頑固さも、 魅力を感じさせるものがあった。 | |
| 09-0023 | |
| ◆完璧 ◆カムイ ◆09年06月16日 20:14 | |
| 中国の戦国時代に、秦の昭襄王は、天下に二つとない宝石”和氏の璧”が 趙にあることを知って欲しくなり、15城と交換する申し入れをした。 心の中では、璧を奪うだけで約束は守らない気でいた。 使者となった 趙の臣りん相如は、璧をもって秦に行ったが、昭襄王と対等にわたりあって、 璧を無事にもち帰ったことが、言葉の由来とされる。 碁を打つ人は完璧に打つことを理想とし、失敗することを嫌う。 浮き沈み は世の習い、いつも緊張して長い人生を貫き通すことはできない。 ゆるみ、 失敗もあってよいのである。 張りつめた弦は切れやすい。 ゆるみがあって よい音が得られる。 と、吉岡一門と一乗寺下がり松の決闘をまえにした 宮本武蔵に、遊び里の吉野大夫が言っている。 碁には、よい手、悪い手、普通の手がある。 よい手は人に愛される。 悪い 手は憎まれるがユーモアがある。 普通の手を長く続ける人は、平均して高い 勝率を維持できる。 三様の手を打つ人は、豊かな囲碁人生を送るのである。 | |
| 09-0022 | |
| ◆『おくのほそ道 追跡行』 〜 みやこびとの憧れ、文知摺石 〜 ◆谷口 一 ◆09年06月08日 11:20 | |
| 鬼女伝説の黒塚から、奥州街道を北へ、「しのぶもぢ摺石」の文知摺観音に向かう。途中JR福島駅前にある芭蕉と曾良の像を見る。各地に芭蕉の像があるが、ここの二人は逞しく鼻筋も太くしっかりとした顔をしている。こういう像にも土地柄がでるのだろうか。 阿武隈川を文知摺橋で渡り、東へ数キロ行けば文知摺観音。ここでも芭蕉像が迎えてくれる。紅葉の頃はさぞやと思わせる山間のたたずまい。今は木々が芽吹きを待っている。 平安時代に都人の心をエキゾチック陸奥(みちのく)に駆り立てる発端の一つとなったのが、河原左大臣の歌である。 陸奥(みちのく)のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにしわれならなくに この歌の作者河原左大臣は、紫式部『源氏物語』の主人公光源氏のモデルと言われている。嵯峨天皇の皇子。京の六条の邸宅河原院に住んでいたことから河原左大臣と呼ばれる。名は源 融(みなもとのとおる)。864年に陸奥の多賀城に按察使として赴任。(遥任という形だけで実際は赴任しなかったとも言われている)按察使は「あぜち」と読み奈良時代に置かれた地方監督官のこと。融は陸奥の地をよほど憧れ気に入っていたと見え、自宅に陸奥塩竃の浦を模した庭を作り、毎日難波から海水を運ばせ藻塩を焼いて楽しんでいたという。風雅これに極めり。当時は家も庭も大陸風が主流といわれる中、融の庭は白砂青松、和風の庭のルーツとも言われている。在原業平も紀貫之もこの融の庭を見物に来て歌を詠んでいる。 しほかまにいつか来にけむ朝なきにつりする舟はここによらなむ 在原業平 君まさで煙たえにし塩釜のうらさびしくも見え渡るかな 紀貫之 融には文知摺石(鏡石ともいう)にまつわるこんな伝説もある。 融が按察使として陸奥国に出向いていたおりに、信夫の里の文知摺石を訪ねる。その地で融は美しく気立てのやさしい里の娘虎女を見初める。やがて二人は愛し合うようになるが、いつまでも留まっているわけにはいかず、融は京に帰ることになる。別れを悲しむ虎女に融は再会を約束する。残された虎女は融恋しさのあまり、毎日文知摺石(鏡石)を麦草で磨き、融の面影が現れるのを待ち望む。そしてある日この石に融の顔を映し出すことができる。しかしこのとき既に虎女は精魂尽き果てており、融との再会を果たすことなく死んでしまう。 まだ虎女の死を知らぬ融が彼女に送った歌が最初にあげた、 陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにしわれならなくに であるという。 私の心がこんなに乱れているのは誰でもない、あなたのせいですよ、そんな意味だ。百人一首にも入っているので知る人も多い。 融は死んでも忙しかったようで、住居河原院が他の人に渡ってからも、その辺りに亡霊になってちょくちょく出たようだ。そのことが今昔物語や江談抄にも書かれている。世阿弥の能『融』の主人公でもある。10円玉のデザインでおなじみの宇治の平等院は融の別荘であった。また嵯峨野の清涼寺は、融の山荘棲霞観(せいかかん)があった場所に、死後阿弥陀堂が建てられ棲霞寺と呼ばれ、のちに現在では国宝となっている釈迦如来像が安置され清凉寺となったものである。ここにひっそりと融の墓がある。平安の時代に規格外の人であったようだ。 「もぢ摺」というのは、布を石の上に当て草の葉や茎を押しあて摺り込んで染めたこの地方の染物で、その模様がもじり乱れていたので「もぢ摺」と呼ばれたらしい。その乱れ模様と恋の煩悩の乱れ、またここしのぶの里に「忍ぶ」をかけて流行の言葉となったようだ。現存する「もぢ摺石」は想像以上の巨石だ。染物に使ったのか、虎女が麦の葉で摺ったのか今はもうわからない。ただ、芭蕉もこの石を見て遠い昔に思いを馳せた。その同じ石を見ていることの幸せ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 『おくのほそ道』 松尾芭蕉 安積山、信夫の里 (前回と重なるため、前半は略) あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋ねて、忍ぶのさとに行く。遥か山陰の小里に、石 半ば土に埋れてあり。里の童の来たりて教えかる、「昔は此の山の上に侍りしを、往来 の人の麦草をあらして此の石を試み侍るをにくみて、此の谷につき落せば、石の面下 ざまにふしたり」と云ふ。さもあるべき事にや。 早苗とる手もとや昔しのぶ摺 | |
| 09-0021 | |
| ◆棋力の四季 ◆カムイ ◆09年05月18日 22:13 | |
| 棋力にも、春夏秋冬がある。 冬、伸び行く力を養い、耐えるとき、 春、巣立ち行く鳥の如く、夏、今盛りなり、力強く、秋、実り多く、 豊かな収穫を。 自己棋力の四季を知ることも大事である。 | |
| 09-0020 | |
| ◆『おくのほそ道 追跡行』〜白河の関を越え、奥州須賀川へ〜 ◆谷口 一 ◆09年05月18日 11:14 | |
| 白河の関を越えて、芭蕉いよいよ奥州の地に入る。 曾良の旅日記では、まず関山満願寺を訪れているが『奥の細道』本文にはその記載はない。この関山が白河の関跡だという説がある。実は白河の関跡は、芭蕉の時代にもあちこちに候補地があって特定されていなかった。歌枕を行く芭蕉にはきっと面白くなかったであろう。 ともあれ関山を後に、福島県の母なる川、阿武隈川を渡る。現在、阿武隈川に架かる橋は福島県内だけで80以上あるという。ただ江戸時代までは阿武隈川に橋はひとつもなく、すべて渡し舟がその任を担っていた。芭蕉は福島県内だけで、七度渡しを利用している。 待望の奥州に入った芭蕉は、連なる四方の山々を見渡しながら須賀川へと足を進めている。その途中、「かげ沼」を通過する。「かげ沼」が特定の沼をさしているのか、その辺りの地域をさしているのかは、はっきりとはわかっていない。ただ、芭蕉も「空曇りて物影うつらづ」と書いているように、蜃気楼のようなものが見える地域であったらしい。江戸の文献にもそういった記述がある。残念ながら芭蕉通過時には見えなかったようだが。 また「かげ沼」は「鏡沼」とも呼ばれ、鎌倉時代の哀しい伝説が残っている。 和田平太胤長(たねなが)は、時の執権・北条時政の悪政を改めんと謀反を企る。しかし、策謀は漏れ、胤長は奥州へ流される。鎌倉に残された胤長の妻・天留(てる)は、夫の跡を追って奥州へ向かう。奥州にたどりついた天留を待っていたのは、夫の非業の死。悲嘆した天留は、生きる望みはないと沼に身を投げる。胸に抱いていた鏡はずっと沼のそこから光り輝いていた。よって「鏡沼」という。現在沼はわずか直径4mほど、辺りは小公園になっている。 芭蕉は須賀川に一週間滞在している。よほど居心地が良かったのであろう。もちろん友人の相楽伊左衛門こと等躬がこの地の駅長であったことによろう。芭蕉より六歳年長で、俳人でもあり筆も立ったようだ。江戸でも深い親交があった。長松院に等躬の句碑がある。 “あの辺はつく羽山哉炭けふり”やさしい人柄が見える句だ。 その等躬の屋敷近くにひっそりと世間から隔たり、隠れ住んでいる可伸という僧がいた。芭蕉は心ひかれて会っている。その立ち寄りをきっかけに、可伸、心ならずもその後は時の人となり、庭先の栗の木も一躍須賀川の名所になってしまった。 等躬の著した「伊達衣」にそんな状況にとまどったような可伸の句文がある。 「予が軒の栗は、更に行基のよすがにもあらず、唯実をとりて喰のみなりしを、いにし夏、芭蕉翁のみちのく行脚の折から一句を残せしより、人々愛る事と成侍りぬ。」 もちろん、その一句が“世の人の見付けぬ花や軒の栗”である。世から隠棲して、静かにつつましく暮らしている人物に芭蕉は強くひかれるようだ。 可伸の庵跡には今も栗の木が植わっている。「唯実をとりて喰のみなり」の可伸の栗、今は誰が拾っているのだろう。 須賀川には芭蕉ゆかりの史跡も多く、江戸の頃から多くの俳句ファンが訪れたという。今も観光名所には必ず俳句ポストがあり年間最優秀句の表彰もあるようだ。北の俳句の街といえる。 芭蕉は須賀川での七泊八日にわたる滞在で、十分に英気を養った。四月二十九日(陽暦六月十六日)郡山に向けて出発する。途中、阿武隈川本流にある乙字の滝を見物する。落差は小さいが川幅いっぱいの滝は100mもあり、ミニサイズのナイアガラだ。水かさの多い時期はかなりの迫力だろう。300年前に芭蕉、曾良はどんな思いでこの滝を眺めたのだろう。追っかけも、日が経つにつれて、二人の背のかすかな影が見えてくるような時がある。落ちて巻いて流れいく水は、同じ繰り返しのようだけど見ていてまったく見飽きない。ずっと流れている。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 『おくのほそ道』 松尾芭蕉 須賀川 とかくして越行くままに、あふくま川を渡る。左に会津根高く、右に岩城・相馬・ 三春の庄、常陸・下野の地をさかひて山つらなる。かげ沼と云ふ所を行くに、今日 は空曇りて物影うつらず。 すか川の驛に等窮というものを尋ねて、四五日とどめらる。先ず、「白河の関いか にこえつるや」と問ふ。「長途のくるしみ身心つかれ、且は風景に魂うばはれ、懐旧 に腸を断ちて、はかばかしう思ひめぐらさず。 風流の初やおくの田植うた 無下にこえんもさすがに」と語れば、脇・第三とつづけて三巻となしぬ。 此の宿の傍に、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧有り。橡ひろふ太山 もかくやと、閧ノ覚えられて、ものに書付け侍る。其の詞、 栗といふ文字は西の木と書きて西方 浄土に便りありと、行基菩薩の一生杖 にも柱にも此の木を用ひ給ふとかや。 世の人の見付けぬ花や軒の栗 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ | |
| 09-0019 | |
| ◆『おくのほそ道 追跡行』 殺生石、遊行柳、西行の歌枕を行く ◆谷口 一 ◆09年05月11日 12:19 | |
| 黒羽からは北東方向に那須湯本を目指す。黒羽を出てすぐに道の駅「那須与一の郷」が右手に見えてくる。扇形に作ってある屋根の形に、源平の戦いの勇者の面影が偲ばれる。 1185年2月19日、屋島の合戦の際、源氏方の那須与一が平家方の準備した艘上の扇の標的を、馬上海中から射抜いたという話は、平家物語の様々なエピソードの中でも多くの人が記憶するところであろう。与一が弓を引き矢を射る寸前に「南無八幡大菩薩、別してはわが国の神明、日光権現、宇都宮、那須湯泉大明神、願はくはあの扇の真中に射させてたばせ給え」(平家物語)と唱えた下野の国の神社が、ここ大田原市にあるのだ。 奥の細道の本文にも「『与一扇の的を射し時、(中略)ちかひしも此の神社にて侍る』と聞けば、感慨殊にしきりに覚えられる。」と芭蕉は書いている。与一が矢を放ったのは、芭蕉の時代から500年前のことである。その芭蕉を300年後のわれわれが追っていることになる。物事を書き残し、伝えていく文字の力の偉大さをあらためて感じる。 那須岳方向を目指して道を上っていけば、やがて那須湯本に至る。 那須湯本には、「石の毒気いまだほろびず」と芭蕉がながめた殺生石が今も残っている。那須岳の丘陵が湯本温泉街にせまる斜面の湯川にそったところにある。今も毒気はほろびずで、硫化水素ガスが自噴しているという。近づくことはできない。 殺生石にまつわる伝説には妖気が満ちていてアニメチックで楽しい。 平安の昔、帝の愛する妃に「玉藻の前」という絶世の美女がいた。だが、この美女は天竺(インド)、唐(中国)を経て飛来してきた九尾の狐の化身であった。帝は日に日に衰弱し床に伏せるようになる。不思議に思った陰陽師の阿部泰成が美女の正体を九尾の狐と見破り、調伏させたが。 この狐、那須野に逃れたが、上総介広常と三浦介義純が追いつめ退治したところ、巨大な石に化身し毒気をふりまき、ここを通る人や家畜、鳥や獣に被害を及ぼした。やがて、源翁(玄翁)和尚が一喝すると石は破壊し、三ヶ所に飛んでいった。そのひとつが殺生石であるという。芭蕉の言う「毒気いまだほろびず」はここからきている。 那須湯本からまた大きく南東に下ってくると、奥州街道の宿場町であった芦野の里がある。ここに謡曲「遊行柳」で知られる柳が、今も田の中にある。長い年月、大切に植え継がれてきたものであろう。柳の近くには小さな清流が気持ちよく流れている。裏の社の狛犬の顔がいい。 西行が「道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」(新古今集)と詠んだと伝えられる柳である。西行が東大寺の再建の勧進を奥州藤原氏に行うために陸奥に下った時のことか。西行はこの旅の途中、鎌倉で源頼朝に会ったことが『吾妻鏡』に記されている。 西行は奥州藤原氏の遠戚にあたる。鎌倉に立ち寄ったのは、頼朝の藤原氏に対する戦略を探る目的があったのではないかと思う。また、藤原秀衡を頼りに奥州に逃れた義経の動静も深く関係したであろう。西行この時六十九歳。頼朝が藤原氏遠戚の西行を切っていてもおかしくはない。しかし頼朝はそうはしないで時を待つ。奥州藤原氏当主秀衡もまた西行と同年代であった。頼朝の判断は吉と出る。秀衡は翌年没し、その子康衡は、父秀衡の遺言を守らず義経を討つ。義経は待仏堂に篭り自害。享年三十一歳。兄頼朝の策が当たったのだ。 やがて頼朝は奥州をも支配下に入れ、武家政権を創設する。 頼朝が奥州への途上の西行を切っていたとしたら、「遊行柳」は存在しなかった。そして、西行の足跡のない奥州へ芭蕉は旅立たなかったろう。松尾芭蕉『おくのほそ道』も存在してなかったことになる。 田一枚 植えて立去る 柳かな この芭蕉の句は重い。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 『おくのほそ道』 松尾芭蕉 殺生石、遊行柳 是より殺生石に行く。館代より馬にて送らる。此の口付のおのこ、「短冊得させよ」と乞う。やさしき事を望み侍るものかなと、 野を横に馬牽きむけよほとどぎす 殺生石は温泉の出づる山陰にあり。石の毒気いまだほろびず、蜂、蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほどかさなり死す。 又清水ながるるの柳は、芦野の里にありて、田の畔に残る。此の所の群守戸部某の、「此の柳みせばや」など、折々にの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此の柳のかげにこそ立ちより侍りつれ。 田一枚植えて立去る柳かな ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ | |
| 09-0018 | |
| ◆『おくのほそ道 追跡行』〜日光から那須野を黒羽へ〜 ◆谷口 一 ◆09年04月15日 10:50 | |
| 日光から北東に那須野を辿れば、黒羽に行き着く。那須野は那須山麓の広野をいい、東西29キロ、南北32キロにわたる。現在は東北自動車道も東北新幹線もここを駆け抜けており、芭蕉の言う「是より野越えにかかりて〜」というような風情はさらさらない。縦横に大小の道路が走っている。 車を黒羽方向へ走らす。進むべき方向に伸びている道を進むわけだ。芭蕉の「直道をゆかんとす」である。カーナビもなければ、地図も持たない。太陽と遠くの山々が頼りのドライブだ。 芭蕉も本街道を行かず近道をとっている。野の遥かかなたに村をみとめ、そこを目指してまっすぐに歩を進めている。途中雨になり日も暮れ、農家に一夜を借りる。翌日また歩き出すが、縦横に分かれ走る野道に途方にくれる。けもの道も混じっていたであろう。広大な那須野の原で芭蕉たちはほとほと困り果てる。現代もまた道を一本違えると同じように難儀する。 日光北街道を矢板に出て、4号線を少し北上し、大田原に道をとれば黒羽に行き着く。だが、箒川に架かる「かさね橋」を渡りたくて、やや東にハンドルをきったものの、行けども橋はなく、頼りのお日様も雲に隠れる。南東に道を取りすぎたようで、幾度か迷った末に294号に突き当たってしまう。仕方なくまた来た道を大きく戻る。ようやく目指す橋を見つけた時には小雨も降ってきた。橋の近辺には車を停めるスペースがない。強引にガードレールの間に割り込んだらガリガリと車体を擦る。急ぎ幾枚か写真を撮り、とにかく黒羽に向かう。 見渡す限りの野原で途方にくれていた芭蕉は、この「かさね橋」の近辺で草を刈っている男に会い、馬を借りている。馬は引き手もいないのに芭蕉を乗せてもくもくと歩く。草刈りを手伝っていたのか、子供らが馬の後について走ってくる。聞けば一人は小娘で、名を「かさね」という。 曾良の句がある。 かさねとは八重撫子の名成るべし 箒川に架かる「かさね橋」の橋柱には、馬に乗った芭蕉と曾良、後を追う二人の子供のレリーフがある。芭蕉は「かさね」という名がよほど心に残り、旅を終えたあと、知人にこんな文を送っている。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ みちのく行脚の折、いずれの里にかあらむ、小娘の六つばかりなるをおぼしき、 いとささやかに、えもいわず、をかしけるを 「名をいかにいふ」 と問えば、 「かさね」と答う。いと興ある名なり。都の方にては稀にもきゝ侍ざりしに、 いかに伝て何をかさねといふにあらん。「我子あらば、この名を得させん」〜 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ やがて人里に入り、芭蕉は馬の借り賃を鞍壺に結び付けて馬を帰す。馬はとぼとぼと戻っていく。 黒羽に着いた芭蕉は歓待を受け、この地に二週間ほどとどまることになる。近郷の名所旧跡をまわり、江戸で親交があった仏頂和尚に縁のある雲巌寺にも参詣している。「山はおくあるけしきにて、谷道遥かに、松・杉黒く、苔しただりて〜」とあるが、その自然は現在も変わっていない。いやむしろ三百年の歳月が木々を巨木に仕上げて、寺を囲む森をより深くしている。寺は禅寺らしく楚々として人の気配をまったく感じない。静かだ。仏頂和尚の山居跡に続く道は今は塞がれている。 夕暮れの山道を黒羽の町に戻る。 黒羽は那珂川のやな漁で有名な町だ。鮎の季節にぜひ再訪したい。 芭蕉がここに滞在した頃は、鮎のはしりの時期だ。ほとんど食べ物のことを書き残していない芭蕉だが、実は相当の食通だったとわかっている。鮎三昧の日々であったろう。蓼はまだ少し早いが。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 『おくのほそ道』 松尾芭蕉 那須野 那須の黒ばねと云ふ所に知人あれば、是より野越えにかかりて、直道をゆかんとす。遥かに一村を見かけて行くに、雨降り日暮るる。農夫の家に一夜をかりて、明くれば又野中を行く。そこで野飼の馬あり。草刈るおのこになげきよれば、野夫といへどもさすがに情しらぬには非ず。「いかがすべきや。されども此の野は縦横にわかれて、うゐうゐ敷き旅人の道ふみたがえん、あやしう侍れば、此の馬のとどまる所にて馬を返し給へ」と、かし侍りぬ。ちいさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。独りは小姫にて、名をかさねと云ふ。聞きなれぬ名のやさしかりければ、 かさねとは八重撫子の名成るべし 曾 良 頓て人里に至れば、あたひを鞍つぼに結付けて馬を返しぬ。 | |
| 09-0017 | |
| ◆孔明 ◆カムイ ◆09年04月16日 10:15 | |
| レッドクリフ、赤壁のことである。 三国志の中で最大の山場、赤壁の 戦いは、中国戦史の中でもひときわ目立つ。 私の好きな人物、孔明が 世に名を表す初舞台であった。 孔明はもとからの戦略家ではない。 世の喧騒から離れた庵に住む学者であった。 その学識を見込まれ、 三顧の礼をもって、蜀の軍師として迎えられた。 蜀はまだ小国、軍備 も十分でない。 情に厚い主君劉備玄徳は、民を守るためには、敗戦も いとわない。 苦しい戦いを孔明は智略でしのぐ。 魏の曹操は一代の英雄、百万と称する大軍を率いて南下してくる。 蜀は呉と同盟して迎え撃つ。 双方合わせても十万余の軍勢である。 呉の大都督、周ゆは孔明の策を入れた。 智者を知るものは智者である。 船戦、天機を計った火計の策は、魏の大軍を壊滅させた。 三江の大 殲滅戦。 魏百万の軍勢は、一夜にして消滅したのである。 長躯、 洛陽に逃げ帰った曹操は、世に恐るべき敵がいることを知った。 蜀は次第に国らしくなり、天下三分の時代がくる。 孔明は宰相となり、 内政もよく治めた。 あるとき、孔明が愛していた青年武将、馬しょく が戦略を誤り、敗戦を招いた。 孔明が与えた軍法は死罪であった。 ”泣いて馬しょくを斬る。” 公事に私情を入れない公正さ。 物語の中の孔明は、私の理想像を画く。 人は理想像をもち、自分もかくありたいと願う。 三国志著者と読者私が、共演で演ずる劇は私の人生観の中にある。 | |
| 09-0016 | |
| ◆スモールレッドクリフ ◆長良川 ◆09年04月09日 13:55 | |
| 初めて聞いたとき、レッドクリフとは何のことやらよくわからなかった。何回もこの言葉を目にしたり耳にしたりして、ようやくその意味がわかった。そして、映画「レッドクリフ」の第一部を見た。人により好き嫌いはあると思うが、この映画のいささか過剰なカンフーアクションはかえって歴史ドラマの壮大さをそこなっているように思えてならない。それにもかかわらず、まもなく公開される第二部もまた見ることになるだろう。 話は変わるが、日本にもレッドクリフがあることをご存じだろうか。日本のものは規模が小さいので、これをスモールレッドクリフというのだが、それはどこなのだろうか。実は、たまたま50年前の高校時代の漢文の教科書を読んでいたら、スモールレッドクリフという言葉がでてきたのである。その場所というのは、何を隠そう、東京のお茶の水のことなのである。私がでたらめを言っているのではない証拠として、教科書に載っていた江戸時代の漢学者の文章をそのまま掲載しておこう。 茶渓秋月(茶渓ノ秋月) 鹽谷世弘 渓慶長中所鑿即神田川也。水道橋以東、崖高渚曲、老木槎牙。 中天心則有山高月小、水落石出之景。予呼之曰小赤壁。 渓ハ慶長中鑿チシ所ニシテ、即チ神田川ナリ。水道橋以東ハ、 崖高ク渚曲リ、老木槎牙。月天心ニ中スレバ則チ山高ク月小ク、 水落チテ石出ヅル之景有リ。予之ヲ呼ンデ小赤壁ト曰フ。 この文章に出てくる茶渓とはお茶の水を流れる神田川のことである。今でも、中央線の車窓から眺めると、お茶の水から水道橋にかけて神田川は深い切れ込みの断崖絶壁になっており、スモールレッドクリフの面影をしのぶことができる。しかしこの断崖絶壁は自然にできたものではなく、慶長年間に人手によって切り開いたものだということが、「渓ハ慶長中鑿チシ所ニシテ」という文章からうかがうことができる。 ところでそこをなぜお茶の水というのか、その由来もついでに書いておこう。以下は、JR御茶ノ水駅近くの「お茶の水」という石碑からの引用である。 「慶長の昔、この邊り神田山の麓に高林寺という禅寺があった。ある時寺の庭より良い水が湧き出るので将軍秀忠公に差し上げたところお茶に用いられて大変良い水だとお褒めの言葉を戴いた。それから毎日この水を差し上げる様になりこの寺を お茶の水高林寺 と呼ばれ、この辺りをお茶の水というようになった。」 しかしその井戸は、享保の大洪水で神田川の川幅を広げた時に川に没したとされる。 | |
| 09-0015 | |
| ◆花まつり ◆カムイ ◆09年04月08日 12:18 | |
| ちはやふる 卯月八日は 吉日よ かみさげ虫を 成敗ぞする 作州宮本村の七宝寺は、潅仏会に参詣する人で、賑わっていた。 寺の かかり人お通は、五色の紙にまじないの歌を書いてわたしている。 家 の中にこの歌を貼っておくと、虫除けや悪病よけになると、この地方で は言い伝えている。 吉川英治氏の大作、宮本武蔵の一巻にある風景である。 子供の頃、お釈迦様の日に甘茶を飲んだことを思い出した。 古いしきたりが、行われなくなってゆくことは、さびしい思いがする。 子供の頃に読んだ小説が、いつまでも記憶に残るのは、枕詞ちはやふる が、ここで使われているのを、不思議に思ったことによる。 | |
| 09-0014 | |
| ◆百代の過客 ◆長良川 ◆09年03月31日 14:55 | |
| 五十年の前の高校時代の教科書が実家の本棚に残っていたので、紙が茶色くなった漢文の教科書を引っ張り出して拾い読みしていたら、たまたま「百代の過客」という言葉がでてきた。待てよ、この言葉はどこかで聞いた覚えがある、そうだ、たしか「奥の細道」の冒頭に出ていたのではないかと思い、長文エッセイにただいま谷口氏が連載中の「おくのほそみち・追跡行」を参照して見るも、「百代の過客」という言葉はどこにも見あたらない。どうやら、谷口氏は「奥の細道」の書き出しの部分をはしょったようだ。そこで、インターネットで検索してみると、ちゃんと出ているではないか。 「月日は百代の過客にして、 行きかふ年もまた旅人なり。」 それにしても、このような調べものをする場合、インターネットは本当に便利だ。たいていの古典は、原文テキストをコピーしてくることができるので、いちいち書き写したり入力しなおしたりしなくてすむ。 さて、芭蕉のような俳人の元祖ともいえる人が、俳諧とは正反対とも言うべき漢文の「百代の過客」という言葉を知っており、しかもそれを自分のものとして消化し、自分の文章の中に取り入れて見事な表現をしているのは驚きである。当時の教養人は、たいていの漢籍には通じていたのであろうか。 ところで、この「百代の過客」が出ている原典は、かの有名な李白が書いた「春夜宴桃李園序」という短い文章である。ふつうは、「奥の細道」から「百代の過客」という言葉を媒介として「春夜宴桃李園序」に接するのが順序であるが、今回の私の場合はその順序が逆になってしまった。それはともかくとして、「春夜宴桃李園序」も「奥の細道」の序文におとらず名文である。そこで、以下にこの和漢の名文どうしを対比して示しておくことにする。 「春夜宴桃李園序」 李白 夫天地者萬物之逆旅、光陰者百代之過客。 而浮生若夢。為歓幾何。古人秉燭夜遊、 良有以也。況陽春召我以煙景、大塊假我 以文章。會桃李之芳園、序天倫之楽事。 群季俊秀、皆爲惠連。吾人詠歌獨慚康楽。 幽賞未已、高談轉清。開瓊筵以座花、 飛羽觴而酔月。不有佳作、何伸雅懐。 如詩不成、罰依金谷酒數。 夫レ天地ハ萬物ノ逆旅ニシテ、光陰ハ百代ノ過客ナリ。 而シテ浮生ハ夢ノ若(ごと)シ。歓ヲ為ス幾何(いくばく)ゾ。 古人燭ヲ秉(と)リ夜遊ビシハ、良(まこと)ニ以(ゆえ)有ルナリ。 況(いわん)ヤ陽春我ヲ召クニ煙景ヲ以テシ、大塊我ニ假スルニ 文章ヲ以テスルヲヤ。桃李ノ芳園ニ會シテ、天倫之楽事ヲ序(の)ブ。 群季ノ俊秀ハ、皆惠連爲(た)リ。吾人ノ詠歌ハ獨リ康楽ニ慚(は)ヅ。 幽賞未ダ已(や)マズ、高談轉(うたた)清シ。瓊筵(けいえん)ヲ 開キテ以テ花ニ座シ、羽觴(うしょう)ヲ飛バシテ月ニ酔フ。 佳作有ラ不ンバ、何ゾ雅懐ヲ伸ベン。如(もし)詩成ラ不ンバ、 罰ハ金谷ノ酒數ニ依ラン。 「奥の細道」序 芭蕉 月日は百代の過客にして、 行きかふ年もまた旅人なり。 舟の上に生涯を浮かべ、 馬の口とらへて老いを迎ふる者は、 日々旅にして旅を住みかとす。古人も多く旅に死せるあり。 予も、いづれの年よりか、片雲の風に誘はれて漂泊の思ひ やまず、 海浜にさすらへ、去年の秋、江上の破屋にくもの 古巣を払ひて、 やや年も暮れ、春立てる霞の空に、白河の 関越えんと、 そぞろ神の物につきて心を狂はせ、 道祖神の 招きにあひて取るもの手につかず、ももひきの破れをつづり、 笠の緒付け替へて、三里に灸据うるより、松島の月まづ心に かかりて、住める方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、 草の戸も住み替はる代ぞ雛の家 | |
| 09-0013 | |
| ◆『おくのほそ道 追跡行』〜江戸を真北に三十五里〜 ◆谷口 一 ◆09年03月12日 11:13 | |
| 日光街道には二十一の宿場がある。 江戸日本橋を出て千住が初宿で、草加、越ヶ谷、粕壁、杉戸、幸手、栗橋、中田、古河、野木、間々田、小山、新田、小金井、石橋、雀宮、宇都宮、徳次郎、大沢、今市そして最後が日光の門前町、鉢石。総距離は日本橋から百四十三km。宇都宮までは奥羽街道と併用する。 日光は江戸からほぼ真北。夜なら北極星を頼りに歩けば無事到着する。それほど真北にある。そこに東照宮があり、徳川家康が祀られている。 家康は遺言を残している。 「遺体は久能山(静岡)におさめ、(中略)一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し、神としてまつること。そして、八州の鎮守となろう」と。 家康の言う小さな堂は、世界遺産になるほどの豪華絢爛荘重となり、日光に至る杉並木は、総延長三十七キロ、一万三千本の杉の巨木が現存する世界一の並木道として、ギネスブックに登録されている。 遺言の小さな堂が、どうしてこうも壮大なものになったか。家康のブレーンであり、二代秀忠、三代光秀にも仕えた政僧天海の力が大きく働いたと思われる。この天海、前半生は不詳で謎が多い。死んだはずの明智光秀説もある。稀な長寿で百八歳で没したという。 日光社参が制度化されると、各藩の大名達は参詣はもとより、寄進・奉納と莫大な費用を日光につぎ込むことになる。それは各藩の力をそぐことであり、徳川家安泰に大きく寄与したと思える。家康の遺言通り東照宮はまさに鎮守となったのである。 元禄二年三月二十七日に深川を出立した芭蕉は四月一日にここ日光に入っている。元禄二年三月は小の月で三十日はなかった。よって出立から四日目が日光となる。平均すれば一日三十数キロの行程である。草加では、「若し生きて帰らば」とか「痩骨の肩にかかれる物、先ずくるしむ」とか、嘆きの声が聞こえてくるが、どっこいしっかりと歩を進めているのがわかる。 木曾路から信濃国を歩いた『更科紀行』、木曽路・甲州路の『野ざらし紀行』、吉野山に遊び、須磨・明石の『笈の小文』を考えれば、旅の人、旅慣れた芭蕉の姿が見えてくる。それは一般的によく目にする、どこか隠居風の「芭蕉図」とは異なり、腰の安定した、無駄な動きのない歩き、小股で、痩身、そんな芭蕉翁の姿だ。 『奥の細道』はただ事実を書き並べているのではなく、いたるところに文筆家芭蕉としての脚色がある。だから草加までの嘆きの声も、『奥の細道』全体の序としては必要であり、やや誇張されているように感じる。実際は芭蕉はそんな柔ではなかったろう。そうでなかったら五十歳を前にしてこれほど広大な旅を計画しなかったはずだ。ただ、この旅にも、芭蕉、曾良にも謎が多いのは確かだ。謎の一つ、芭蕉は深川出立を二十七日としているのに、曾良の随行日記では二十日になっている。この七日間の差はなんなのだろう。 どうであれ、旅するうちに芭蕉は本来の歩幅に戻り、ひたすら日光街道を北進した。ただ現在のように杉並木にまだ巨木はなく、今の暦で言えば5月の風に気持ちよく伸びる若木が多かったであろう。緩やかに延々と続く坂を登りきり、二人は東照宮に参詣している。 さて、そこで芭蕉が「結構」と言ったかどうかは曾良の日記にもない。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 『おくのほそ道』 松尾芭蕉 日光山 卯月朔日、御山に詣拝す。往昔此の御山を二荒山と書きしを、空海大師開基の時、日光と改め給ふ。千歳未来をさとり給ふにや。今此の御光一天にかかやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵の栖穏やかなり。猶憚り多くて筆をさし置きぬ。 あらたうと青葉若葉の日の光 黒髪山は霞かかりて、雪いまだ白し。 剃り捨てて黒髪山に衣更 曾良 曾良は河合氏にして、惣五郎と云えり。芭蕉の下葉に軒をならべて、予が薪水の労をたすく。このたび松しま、象潟の眺め共にせん事を悦び、且は羈旅の難をいたはらんと、旅立つ暁髪を剃りて墨染にさまをかえ、惣五を改めて宗悟とす。仍つて黒髪山の句有り。「衣更」の二字、力ありてきこゆ。 廿余丁山を登つて瀧有り。岩洞の頂より飛流して百尺、千岩の碧潭に落ちたり。 岩窟に身をひそめ入りて滝の裏よりみれば、うらみの瀧と申伝え侍る也。 暫時は瀧に籠るや夏の初 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ | |
| 09-0012 | |
| ◆わかるまで読む ◆カムイ ◆09年03月10日 12:31 | |
| アインシュタインは、ユダヤ系ドイツ人であった。 小学生の頃、数学が好きで、 おじいさんから高等数学の本を借りて読んでいた。 ”坊や、そんな難しい本を 見てわかるの。”と人に聞かれたとき、”僕はわかるまで読むのだ。”と答えた という。 ドイツ国内で、ユダヤ系は恵まれなかった。 彼の学歴は、専門学校 までである。 だが、独力で培った学力は、大学卒を超えていた。 スイスの 大学で教授をしていたこともある。 ナチス政権下、ますます住みづらくなり、 アメリカへ移住した。 アメリカの学界は暖かく迎えてくれた。 光量子説、 ブラウン運動の理論、特殊相対性理論、一般相対性理論を主唱した。 これらの 理論は仮説(条件)理論であるけれど、理論体系がすばらしく、受け容れられた。 恵まれなかった健気な少年は、世界一の学者になり、ノーベル賞も受けた。 | |
| 09-0011 | |
| ◆『おくのほそ道 追跡行』 旅立ち、深川から千住へ ◆谷口 一 ◆09年03月05日 10:47 | |
| 元禄二年弥生二十七日。今の暦でいうと1689年5月16日。この日、芭蕉は総行程2400kmの旅、後に『おくのほそ道』としてまとめられる旅の第一歩を踏み出す。 早朝。有明の月が空に残っている。月齢26.3。 深川の庵から二歩三歩踏み出した芭蕉、逆三日月を見上げ、西に幽かな富士を望む。 朝食は粥と香の物だろう。昨夜は遅くまで弟子たちと別れを惜しんだ。酒も入り、曾良はかなり酔ったかもしれない。この時代の旅、生きて帰れる保証はない。 同行の曾良は諏訪の人、この旅の27年前1662年に銘酒『真澄』の宮坂酒造は上諏訪で開業している。曾良も宮坂の酒を飲んだか。曾良の墓は宮坂酒造から目と鼻の先に現存する。 カモメが鋭く啼いて、やがて芭蕉、舟の上の人になる。 現代では、深川あたりから隅田川を上っていくとつぎつぎと橋が出現する。新大橋、両国橋、蔵前橋、厩橋、駒形橋、吾妻橋、言問橋、桜橋、白髭橋、水神大橋そして千住大橋と。途中、高速道路や鉄道が通る橋もある。 しかしこの日、芭蕉が舟上から見ることができた橋は二つ。1659年に架けられた両国橋と、ずっと上流の1594年に架けられた千住大橋のみ。 昔は戦略上、川に橋を架けることは稀だった。橋の代わりに隅田川にもいたる所に渡しがあり、両岸を小舟が行き交った。汐入の渡し, 橋場の渡し, 今戸の渡し, 竹屋の渡し, 山の宿の渡し, 駒形の渡し, 御厩の渡し, 富士見の渡し, 御蔵橋の渡しなど。 これらの渡しも橋が増えるに従い姿を消していった。最後に残った隅田川の渡しは、最下流の佃の渡し。これも昭和39年東京オリンピックの年の8月に、320年の歴史を閉じている。 大量の物資も川を上り、川を下った。江戸時代の水上交通は今では想像もできないほど活況を呈していた。現代のトラック輸送が当時の水上輸送といえる。 320年前に芭蕉が深川より千住目指して乗船した小舟も、朝早くからさまざまな物資を積んだ大小の舟に行き交ったと思われる。これらの舟が芭蕉の目に入ったかはわからない。芭蕉が舟上から望んで思いを巡らせていたのは、桜の頃の上野や谷中。高い建物もない当時、隅田川の舟の上から青葉若葉の上野の山がはっきりと見えたろう。直線距離で2kmほどだ。 遠境辺土に旅立とうとする芭蕉は、また江戸の桜を見ることが出来るのかと、はなはだ心細い思いだった。春の終わりの心地よい川風をうけても、浮いた気持ちは微塵もない。 深川から隅田川を8キロほど上ると千住大橋。橋のたもとの船着場で芭蕉は陸に上がった。 千住は奥州街道、日光街道の最初の宿場。東北への入口であり、東北からの旅人にとっては、江戸の表玄関であった。現代でもここを国道4号線が走る。日本橋から青森市まで延長856km、日本一長い国道として関東と東北の大動脈の役割を担っている。 ここでいよいよ親しい知人たちとも別れ、墨染めの修行僧のいでたちで、芭蕉は曾良と二人北へと踏み出す。すたすたと。すたすたと。歩き慣れた後姿が小さくなっていく。 鳥も啼き、魚も泪した。 芭蕉は一度も振り返らなかった。曾良もまた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 『おくのほそ道』 松尾芭蕉 旅立ち 弥生も末の七日、明けぼのの空朧々として、月は在明けにて光おさまれる物から、不二 の峰幽にみえて、上野、谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどいて、舟に乗りて送る。千じゅと云う所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ。 行春や鳥啼き魚の目は泪 是を矢立の初めとして、行く道なをすすまず。人々は途中に立ちならびて、後かげのみゆる迄はと見送るなるべし。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ | |
| 09-0010 | |
| ◆国技・4 ◆カムイ ◆09年03月20日 07:49 | |
| 十一代将軍家斎は芸能が好きであった。 在位50年、妻妾の数が多く、実子が52人も いたという。 私生活面ではゆるんだところもあるが、文化面での業績がある。 相撲は、初代横綱明石以来150年間に、2人の横綱をだしただけであったが、名力士 谷風、小野川の台頭で、本所回向院の勧進相撲が人気を集めていた。 寛政2年 (1790年)に江戸城内吹上御苑で、将軍の上覧相撲が行われた。 この時初めて 綱を締めた最高力士の土俵入りが行われた。 それまでの横綱は、寺社建立の地鎮祭に、 最高力士が身を清めるため綱を締め、力強い四股を踏んで、土地を踏みしめる行事で あった。 横綱土俵入りは、後に、8代横綱不知火、10代横綱雲竜、によって型が つくられるが、初めての経験の谷風、小野川は立派に務めた。 このため、4代横綱の 谷風を初めての横綱という人もいる。 吉田司家が授与した最初の横綱でもあったから。 なお、横綱が位となった制度は、明治42年からで、その時の19代横綱常陸山を初めて の横綱という人もいる。 相撲の歴史が正式に編纂されて、過去の記録をたどりながら 横綱系図ができたのは、大正になってからである。 歴史は、遡ってつくられることがある。 考える人と時によって、新たに見えてくる こともあるから。 ”時の旅人”考 家斎の文化業績はいろいろある。 寺社の建立、移動、北海道有珠善光寺にも記録が 残っていた。 年号も文化、文政。 碁も再び隆盛期を迎える。 十一世本因坊元丈 (宮重元丈)、八世安井仙知(中野知得)は終生の好敵手。 家元の当主となるよりも 前から打ち始め、多数の対局をしたが、ほぼ打ち分けの戦績であった。 共に名人の 位にありながら、両雄の技伯仲する故、共に八段に止まる。 と評せられた。 人品 高潔、互いに名人の座を譲り合ったという。 清廉な対戦であった。 続く激戦は、 力戦碁の神様といわれた、十二世本因坊丈和、対抗する十一世井上因碩(幻庵因碩)の 角逐が市井の話題となった。 感情のぶつかり合い、着手に意地がにじんでいる。 悪碁敵と評せられた泥沼の格闘、元丈、知得の清廉な戦いとは対照的である。 相容れ ない意思の戦い、棋譜を見ただけで、棋力を計ることはできない。 昔の作品が、それ を研究する人と、共演で演ずる劇は、後の世まで行われるであろう。 一つの 棋譜も、見る人それぞれで同じではない。 長い対決の後、11歳年長の丈和は、因碩 の追撃を抑え、名人碁所となった。 家元の合議ではない。 権門に策した抜き打ちで あったが、丈和の技量が一頭地抜いていたことは確かである。 丈和は若い頃、嘱望された棋士ではなかった。 後年、大器晩成型と評せられたが、 兄弟子、俊秀奥貫智策の後塵を拝し、なみなみななぬ努力をした。 本因坊跡目となった のは33歳、その頃の好敵手、桜井知達(安井門)、服部立徹(因碩の前名)は、10歳 前後若い人達であった。 丈和ほど個性の強い人は他にいない。 長い対決の間で、 丈和が立徹に先番を敗れたのは一度だけ。 その後の白番の碁、”丈和は先に、先番を 一局敗せり。 今この碁を負くるにおいては、立ち難き事情あり。 故に懸命の碁なり。” と関山仙太夫が評している。 優勢を維持していた立徹が敗着となった手を、”今川義元 の油断に髣髴たり。”と自評している。 一度の敗れを自己の人生岐路と考えるきびしさ。 家元の対立が激しかった時代に、頂点に立った巨星である。 相撲と碁が、何時頃から国技といわれるようになったかは、定かでないが、丈和の著書に 国技観光があり、相撲の殿堂ができて、国技舘と名づけられたのは、明治42年(19 09年)である。 昔と思っても、意外と我々の時代に近いのである。 丈和の後、天保四傑、本因坊秀和、秀策の時代となる。 秀策の知名度は、碁界では 一番高い。 先番不敗、理論碁の天才である。 人が、”先日の碁はいかがでしたか。” 問うたとき、”先番でした。”と答えたという話が伝えられる。 これは後世のつくり 話。 謹厳、温厚、謙虚な秀策が、不遜ともとれる言動をとるはずがない。 11年間、 お城碁で19連勝したが、平坦な道ばかりではなかった。 文久2年(1862年)、江戸にコレラが蔓延した。 死亡率が高く、介護するものも ほとんどいなかった。 秀策は介護に当たり、自らもコレラで倒れた。 享年34歳で あった。 生きていれば、やがて来る文明開化の世をいかにみたであろうか。 常識に 富む秀策の才が惜しまれる。 明治維新は江戸の文化を葬ったのである。 | |
| 09-0009 | |
| ◆国技・3 ◆カムイ ◆09年02月27日 04:06 | |
| 三世井上因碩(名人因碩)はもとは坊門であった。 道策は弟子の中で一・二の実力を もつこの人を跡目にする気がなかった。 意に添わぬものがあったのであろう。 また、 この人を恐れていたところもみえる。 井上家の養子とし、家督を継がせたのも、不服 を恐れてのことであった。 因碩の心の中はわからない。 師の扱いに感謝していた とは思えない。 師弟の間も親密なものとは限らないのである。 道策が期待していた跡目 道的は、二十一歳で夭折した。 道策の失望は喩えんようなかりしという。 ついで跡目 に選んだ策元、八碩、本碩、皆夭折して、年少の道知を跡目とした。 死期がせまっ時、 因碩(道節)に道知の後見を託し、八段へ昇段を許した。 気持ちの歩みよりを得たかった のだが、因碩自身が名人碁所を望まないように遺言した。 筋の通らない遺言など、死後に 守られないことは、秀吉が家康に遺言した例を見てもわかること。 道策の伝記で、この ことだけが汚点である。 でも、因碩は遺命を守っていた。 世評もあるから。 島津家が伴ってきた琉球の棋士屋良里子に免状を授与するのに、碁所が欠所ではできない。 道知はまだ若年、因碩が名人碁所に任じられた。 師命にそむく悪名を受けずに、因碩は 望みを果たした。 だが、その後も長く碁所を続けたのは、師に不満をもっていた表れ であろうか。 後年、道知が名人碁所になった時、因碩のため、自分の名人碁所が十年 遅れたと恨み事を述べている。 育ててくれた因碩なのに。 人の付き合いは、表面だけ ではわからない確執があるのである。 因碩、道知は、力戦型の棋風で、道策とは質が違うものを感じる。 道知の後、碁所はまた欠所となった。 本因坊家は、道知の後、知伯、秀伯、伯元の三代は、ともに三十有余歳で病死し、棋力も 六・七段どまりであった。 この間、他の三家も優れた人材はなく、低調な時代であった。 九世本因坊察元は家督を継いだ六段の頃から、他に懸絶した技量をもち、名人碁所を 志した。 当時悪い慣習があった。 将軍上覧のお城碁は、あらかじめ下打ちして、将軍 の前で、それを打っているように並べるのである。 下打ちの時、話し合いで、勝負の 均衡がとれるようにしていた。 すなわち八百長である。 察元は、自分の昇段に異議を 唱える井上因碩、林門入に、話し合いの勝負に応ぜず、真の実力でお相手すると宣言する。 安井仙角の助力もあり、疾風の如くに、準名人(八段)まで駈け上がった。 さらに、 宿願の名人碁所を願いでた。 拒まんとする六世井上因碩と争い碁となる。 因碩は、 高齢であり、察元の敵でなかった。 五勝一敗と連破し、名人碁所となった。 察元の遺憾とするところは、同時代に好敵手がいなかったことである。 碁界もまた低調 な時代であった。 察元は、蓄財の才もあった。 明和九年、飢饉、大火、疾病に、民 百姓は苦しめられた。 明和九(めいわく)と読み方が通じると、安永と改元した。 こんな時世に、察元は、京寂光寺への参拝に、大名行列にも劣らぬ共揃えを構えて、 東海道を下ったという。 不謹慎な行動ともとれるが、碁界のありかたに満たされぬ 心を、貯えた富を派手に散財することで晴らしたのであろうか。 察元が碁界に投じた一石は、二・三代後に開花するのである。 | |
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| ◆国技・2 ◆カムイ ◆09年02月24日 12:27 | |
| 三代将軍家光は碁が好きであった。 しばしば伊達正宗と対局した。 戯れの舌戦が 伊達家に災いをもたらすことになる。 ”この石を片目にしてくれよう。” ”小石 川口から攻めましょう。” 小石川口は江戸城の弱点であった。 家光は碁に負けた 悔しさに、小石川口の修築工事の幕命が伊達家に下された。 伊達家の財政を揺るがす 出費となったのである。 家光は碁所が欠所になっていることを思い、碁所詮議を命じ た。 本因坊二世算悦、安井一世算哲、井上二世因碩、林二世門入の四家の当主が、 老中列座の前で協議したが、この時はきまらなかった。 この後、算哲の弟子算知は、 算哲の意思を継ぎ、寵好する南光坊天海や松平肥後守等に依頼して、碁所たらんと したが、ついに、正保元年(1644年)10月5日より、本因坊算悦と9年間に6局を 闘うことになった。 気の長い勝負だが、この6局は互いに先番勝ちとなり、碁所の欠所 は続く。 算悦が亡くなり、算知は、好機逸すべからずと、時の権門に嘆願して、 寛文8年(1668年)10月18日、ついに待望久しかりし碁所に補せられた。 算悦の死後、家督を継いだ本因坊三世道悦は、11年間、一度も対局したことがない 算知の碁所に承服し難い思いがあり、跡目道策を伴って幕府に出頭して、争い碁を 願い出た。 月番老中加賀爪甲斐守は、”算知の碁所の議は上様上意も同然なるに、 争い碁を願い出ずるは曲事である。 汝敗れなば、遠島に処せられるべし。”と威嚇した が道悦は屈しなかった。 ”碁院宗家に生まれ、このまま相果てなば、地下の祖先に 会わす面目も無之、たとえ勝負の上、武運つたなくして遠島に処せられても寸毫の 憾なし。” 必死の思いの嘆願に奉行も拒み得ず、詮議のすえ、一年二十番の割で 六十番打つべき旨の沙汰があった。 ただし、算知は碁所であるから、道悦が定先の 手合いときめられた。 算知は高齢であったが、初めは道悦もなかなか勝ち越せ なかったが、坊門には天才児道策の囲碁理論が育っていた。 安井家伝の接戦力闘に 対して、軽くさばく、手割論による捨て石の妙、師を凌ぐともいわれる道策の理論は、 道悦を支え、次第に算知を圧倒していった。 十五局までで、六局勝ち越し、手合い 直りの先相先、その後も四勝一敗とし、算知は番碁取さげと引退を願い出た。 道悦 も引退して、家督を道策に譲る。 本因坊四世道策は名人碁所となった。 他家から の異論は無かった。 傑出していたのである。 この人は、碁の理論が優れていた だけでなく、碁界の制度についても考える才能をもっていた。 段位制度はこの人の 創案である。 あらゆる勝負事、芸事に先立ってきめられた。 現在では、将棋、柔道、 剣道、空手、弓道、アマチュア相撲、書道などに段位制度が使われている。 優れた弟子も多くいて、元禄の囲碁隆盛期を迎えた。 だが、皆、早世してしまい、 碁所の後継者が続かなくなって、囲碁の低迷する時がくるのである。 | |
| 09-0007 | |
| ◆国技・1 ◆カムイ ◆09年02月17日 23:30 | |
| 二代将軍秀忠は、軍事では、優れた資質を見せなかったが、文化面での業績がある。 江戸以前の文化芸能は、民間で自然発生し、発展したものが多い。 散在する文化を 統括し、監督官庁も定めて奨励したのは、秀忠の政治である。 新しい制度が出来て、 相撲と碁は発展期を迎える。 どちらも古くから行われてきたが、専門職としてでは なかった。 相撲は古代から宮廷で、相撲の節会(せちえ)として、秋に行われて いた。 武士が政権をにぎり、皇室の力が衰え、源平の戦いがはじまると、承安4年 (1174年)を最後として、節会は断絶した。 相撲の中心は武士階級に移り、組討 の武技として奨励された。 戦時だけでなく、平時にも行われた。 曽我兄弟の仇討ち の原因となった、河津三郎と股野五郎の相撲は、源 頼朝の前でおこなわれたもので ある。 室町時代には、半職業的力士集団が、投げ銭目当ての辻相撲や、寺社建立の 寄付を勧める勧進相撲を行っていたが、後世に名を残すほどの力士はいなかった。 これらの相撲は、主に上方で行われていたのである。 すべての芸能が京阪で熟し、 江戸に下ってきたように、江戸で勧進相撲が行われるようになった。 木戸銭をとって 見せる興行である。 勧進は、正式に興行許可をとる名目だけとなった。 いまも、 地方興行の責任者を勧進元とよぶのは、その名残りである。 芸能一般は寺社奉行の管轄 だが、相撲興行が行われるときは、相撲奉行が特設された。 力士が相撲のプロとして 公認されたのである。 初代横綱が生まれた。 明石志賀之助、後世に名が残る力士で ある。横綱はこの時は、位でなく、最高力士で特に選ばれたものが締めることができる 栄誉であった. その格式は、京五条家が許可した。 150年後、第四代横綱からは、 吉田司家が許可するようになり、今日に至っている。 碁所が設けられた。 碁打ちの総元締めである。 官賜碁所の制度は、豊臣時代に定め られたが、昇殿まで許される日海上人が、算砂と名乗り、碁を天職とするようになった のは、このときからである。 碁の家元ができた。 本因坊家につづいて、安井家、 井上家、林家である。 家元の中から碁所が選ばれる。 最初の碁所は本因坊家である。 第一世本因坊算砂は、法印の位をもつ僧侶だが、後に、織田、豊臣、徳川に仕え、指導 碁も打った人である。 初めての名人(初代名人とは言わない)になった。 名人は、 最高棋士で特に推薦されたものが称することができる位である。 近世、第二十一世 本因坊秀哉までに10名を数えるのみ。 本因坊家7名、井上家2名、安井家1名で ある。 名人は碁所当主であったように思う。 井上家の元祖となった中村道碩は、 算砂の門弟、算砂の後の碁所となる。 本因坊家を継がず、新しい家元を起こすのは、 算砂の意思による。 道碩の門弟である井上因碩(古因碩)の名跡を第二世以来、代代 襲名することになる。 碁所は道碩の後、該当するものがなく、一時欠所となる。 横綱、名人、専門力士、専門棋士の誕生は、二代将軍の治世であった。 | |
| 09-0005 | |
| ◆東京近在便り 〜その十一〜 ◆谷口 一 ◆09年02月03日 10:56 | |
| 去年の暮れ近くに初めて沢庵を漬けた。干し大根が店頭に並ぶ時期を逃して手に入らず、今年もだめかと思っていたのだが、たまたま中軽井沢で渋滞中に、のろりと通過した八百屋の店頭に、売れ残りの干し大根が行き先もなく新聞紙の上に鎮座していたのだ。店のおばさんが言った。「先週までは倍の値段だった、買い得よ。」諦めていた干し大根に遭遇した喜びは、依然広島空港のトイレでサッカーブラジル代表のレオナルドと隣り合ってウインクを交し合った時に匹敵する。でもそんな喜びの表情は微塵も見せないで「買うよ、そっちのしなびた葉っぱの束もサービスしといて。」この葉っぱが漬けるときの蓋になる。しめしめ。 干し大根は15kg買った。立派な大根が16本。沢庵用と決まった時点で大根も独特の臭いを発するのか、少し乾燥しているからそういう臭いがするのか、東京までの3時間、車は暮れの寒さの中、十分な換気がずっと必要だった。 白菜を漬けるのは台所仕事ですむが、大根を漬けるとなるとベランダ仕事、裏庭仕事、男仕事になる。 15kgの干し大根に対し、3kgの糠と500gの塩が基本だ。あとは鷹の爪、少し甘いのが、という向きにはグラニュー糖を200g位入れてもよい。ホーロー製の直径40cm深さ60cmほどの容器を使う。以前はこの容器で熱心に味噌を作っていたが、手前味噌にもなれず、もう何年も味噌作りは中断している。 糠、塩をあらかじめよく混ぜておく。漬物専用のビニール袋(もちろん家には無いのでゴミ袋を3枚重ねる)を容器に広げて底に糠・塩を5cmほど敷く、その上に大根を重ならないように3本ほど丸めて入れる。そして糠・塩、鷹の爪を3本ほど、そして大根というように何回も重ねて置いていく。最後は糠・塩で大根を見えなくする。例のしなびた大根の葉で蓋をする。なければ木蓋、それもなければ何もいらない。ビニール袋で包み込んで、あとは重石だ。 重石。これが漬物の心臓で、これがしっかりとしていないと漬物は漬からない。沢庵を漬けるためには、大根の2倍の重さの重石が必要になる。つまり今回は15kgの大根だから、30kgの重石を用意しなくてはならない。この30kgもやっかいなことに1個で30kgではなく、3個で30kgが理想だ。ほぼ漬かりかければ重石を減らしていくのだ。30kg、20kg、10kgというように。ぐらぐらしないで、うまく重なるような10kg前後の石を3個探すことになる。 川の三作用は浸食、運搬、堆積だから、川へ行けば間違いなく石はある。多摩川も日野あたりだと河原にゴロゴロと石が見える。しかし上流から流されてくるうちに、石はもう角が取れて丸みを帯びている。これでは重ねて置けない。ましてこのあたりではもう石に清潔感がない。だんだんと男仕事になってくる。 多摩川を上流に走る。前回は下流へ二本足でだったが、今回は帰りに石の収穫があるので車。 青梅街道を軍畑、御岳と登っていく。川井の駅を過ぎてすぐ右折する。多摩川本流から離れて支流の大丹波川沿いをさかのぼること1時間。奥茶屋を越えると人家は一軒もなくなる。山の気配が強烈になる。川幅もせいぜい2メートル。大石が重なり合う。清冽な水の冷たさよ。そんなにしぶきをあげるな。 山の神よ、角張った10kgほどの石を3個いただきたい、と願う。使い道は言わない。なぜなら言えばきっと漬かった沢庵の2、3本よこせと言われるから。いささか強欲なのだ。嘘だと思うなら<山の神>を辞書で引いてみればわかる。たいがいの辞書ではAの意味としてちゃんと明記してある。 ここまでくると石も健康だ。角張ってどうどうとしている。人にたとえるなら明治人だろう。山の神に願った甲斐あって、すぐにそれぞれ10kgほどの高村光雲似の石と内村鑑三似の石と新渡戸稲造似の石が見つかった。もちろん3名ともヒゲを伸ばす前の顔だ。石にはコケもサルオガセも付いていない。 手が切れるほどの沢水で石を洗う。荒れたワサビ田が斜面に見える。ここでも農業が凍り付いている。 今、ベランダの日の当たらない隅で、わが沢庵漬けも40日が経過する。重石も今は20kgだ。節分の日には1本取り出してみようか。沢庵臭に鬼も寄り付かないかもしれない。そうくりゃあ沢庵漬けも本望、上出来といえる。 年中の糠漬け、夏の梅干、秋からの白菜漬け、冬の初沢庵と、この一年「漬物道」まずまずの精進。 一句「漬物は塩と素材と手間と暇」うっ、まだ現役の身「暇」は問題。誰か「暇」を埋めてくだされ! | |
| 09-0004 | |
| ◆脳梗塞 ◆こいさん ◆09年01月31日 16:04 | |
| 06年11月28日の投稿「脳梗塞のリハビリと囲碁」を読んだ後。偶然クレイン10級さんが対局されているのを見ました。自己紹介欄には「闘病3年でようやく普通の生活に戻りました」とあり、すごく嬉しく思いました。一時は囲碁を打つのも思い通りにいかず苛立って退会しそうだったのに。頑張ったんだなーと思います。 | |
| 09-0003 | |
| ◆私は貝になりたい ◆カムイ ◆09年01月11日 13:00 | |
| 往年の名画が再現される。 上官の命令で行った行為が、捕虜虐殺の罪で死刑を 宣告された一兵士の物語である。 絶望の底に沈み、生まれ変わるなら、深海に 住む貝になりたいと言葉を残す。 戦後間もない頃の悲劇である。 一局の碁が終わり、これが敗着と罪を問われる石がいる。 だが、その石に行動 を命じた上官(必然的な進行で、そこへ打つことが誘われる方針をきめた石)に 責任がある場合が多い。 犯罪(失敗)は根源をたどらないと、同じことが繰り 返される。 | |
| 09-0002 | |
| ◆東京近在便り〜その十〜 ◆谷口 一 ◆09年01月07日 11:49 | |
| JR中央線は立川を出るとすぐに長い鉄橋を渡り、多摩川を越える。その鉄橋のやや下流の土手に「多摩川右岸 海まで41km」と書かれた高さ50cmほどの石柱が立っている。 “海まで41km” このコピーにグッとくる。“海まで”という言葉にロマンがあるのはもちろんだが、“41km”という距離にもビンとくるのだ。これが20kmや10kmじゃあ「へえ」で終わってしまうかもしれないが、偶然にも日野に仮住まいの恩恵、アパートからだと限りなく42.195kmに近い。今秋にはチャレンジし、走破したい距離だ。しかしまだ、その距離に対する距離感がない。20kmはわかる、25kmもなんとかぎりぎりわかる。でも42.195km。 かって冒険家植村直己が、南極横断距離3000kmを体感するために、ほぼ同距離である稚内から鹿児島までを51日間かけて歩いたように、そのスケールの差は月とスッポン以上にあるけれども、「よ〜し、歩いてみよう」となる。 1月2日午前6時30分。 猫だけを起こしてしまって家を抜け出す。小さいザックにタオル、テッシュ、メモ帳、非常用防寒シート、軍手、デジカメ、みかん3個。 小さくても軽くてもザックを背負うとそれだけで幸せな気分になる。靴紐を締め直すと幸せが倍増する。 日野坂を下って中央線沿いに多摩川に出る。土手の空気できりっと身が引き締まる。冬枯れの河原にやっと日が差し始める。振り向かなくても背中に真っ白な富士があるのがわかる。立川、日野を結ぶ立日橋を渡って左岸を歩く。右岸、左岸は下流を見て右側が右岸、左側が左岸。ずっと左岸を歩くことになる。『悲しみよこんにちは』の作者が好きだからではない。ゴールを左岸河口の羽田空港到着ロビーにあるビール屋「ライオン」に決めているからである。 時速5kmで歩いて8時間強。午後3時には羽田で飛行機を眺め、ビール。 今日のルールは2つ、飲食はみかん3個だけ、トイレ以外立ち止まらない。 ひたすら歩くだけ。 しかし、考えればたいした距離でもない。ちょっと昔の人なら誰でもすたすた歩いた距離である。ナイキでもアディダスでもプーマでもなく稲藁の草鞋履きで。早足の人なら庄屋さんに頼まれて、書付と草鞋の替えを二、三足持って、日野村から江戸まで一日で往復したことだろう。若き日の土方歳三だって、日野から何度も江戸まで歩いたことがあったはずだ。近隣の近藤勇だってもくもくと歩いただろう。橋のない時代、彼らはどこで渡しに乗って多摩川を渡ったのだろうか。地図を見ていると、たぶん万願寺の渡しではないかと思う。渡れば府中、あとは甲州街道を江戸へ。いや、舟で多摩川を下り二子の渡しから江戸へ向かう。早道だ。そんなことこんなことを次から次へと脈絡もなく考えていると、いつのまにか田園都市線の多摩川鉄橋辺りまで来ている。ちょうど中間点くらいか。歩き始めて3時間半ほど経っている。時速5kmよりもペースは速い。みかん1個、口にほうりこむ。 土手道は歩く人、走る人、自転車の人。光の多い正月だ。ずっと右からの日を浴びている。上着はザックに詰め込んでシャツ一枚の腕まくり。新幹線の鉄橋を過ぎる。中央線の鉄橋からすでに24本の橋を越えたことになる。最河口の高速大師橋まであと10本。みかんを2個いっぺんに食べてしまう。若干ペースが速い分、汗をかく量が多い。第二京浜の多摩川大橋でガクンとペースが落ちる。六郷の土手辺りで両かかとに豆が出来ているのがわかる。ランニング用ではない厚手のソックスが悪かった。もう、川の流れはゆったりだ。カモメもいる。頻繁に離着陸する飛行機も見える。大師橋でルールを破って「午後の紅茶」をいっきに飲む。ここから羽田への道が長い。ビュンビュンと車が行く車道脇の道。河口が見える。海だ。 四時を過ぎている。足を引きずる。ルールの一つは守れた。 到着ロビーのベンチで長いこと休んだ。ビールは飲まなかった。 | |
| 09-0001 | |
| ◆打ち過ぎ ◆カムイ ◆09年01月04日 10:27 | |
| ”ゆっくり走ろう北海道” 過去に交通事故死が全国一位であった年があった。 道警 が掲げた標語である。 死亡事故は、地元だけでなく、他府県からきたドライバーに よっても起こされていた。 広広として視界が広い。 都会で抑圧された運転をして いたドライバーに開放感を与える。 A級ライセンスならずとも150はだしてみたい。 大型2輪のライダーでさえ、150近くで走っていたのを見たことがある。(という ことは、私も高速で走っていたことになるが。) 事故死は速度に比例する。 低速 ならば物損ですむ事故も、100を越せば死につながる。 でも、この考えも間違って いる。 いかなる速度でも、事故を起こしてはいけないのだ。 ドライバーも、事故を 起こすと思って高速で走っているのではない。 高速はだしても事故は起こらない。 自己技術への過信が事故のもとになる。 碁ではそれを打ち過ぎという。 激しい戦闘を制して石をとる快感は、高速走行の快感 と通じるものがある。 だが、一局の碁を死へ招く可能性もふくんでいる。 戦いは 控えめに、自己戦闘力を謙虚に考えることが大事である。 | |
| 08-0054 | |
| ◆時 ◆カムイ ◆08年12月27日 20:44 | |
| 年の瀬は 時の歩みの 一里塚 明日の旅路の 望みはるかに 時は休みなく歩む。 遠い過去から果てしない未来へ向けて。 今、人は、瞬時、 道連れとなる。 ニュートン力学は、c.g.s 単位系を慣用した。 長さ、センチメートル(cm)、 質量、グラム(g)、時間、秒(s)を基本単位とし、その組み合わせで、あらゆる 元の単位を考える。 長さ、質量、は、実視できるが、時間は見えない。 それ でも、人は時間と付き合ってきた。 日時計、砂時計、振り子の周期、そして今は、 電子時計。 人の知能も果てしなく進む。 よいお年をお迎え下さい。 新しい心で、来る年を飛躍の年に。 新玉の 年立ち返る 明日より 新たな息吹 囲碁にそそがむ | |
| 08-0052 | |
| ◆言葉 ◆カムイ ◆09年04月07日 00:11 | |
| 私は、囲碁教室の講師を勤める。 碁の手に、自分で考えた名前をつけることがある。 ”鶯の谷渡り” 詰碁の渡りの図だが、感じがでている。 私が手に名前をつける ようになる動機があった。 以前、先輩講師の教室を見学したことがある。 ”皆さん 碁の手には、名前があるのですよ。” どこかで聞いた言葉と思った。 思い出した。 演劇の中の台詞である。 見えず、聞こえず、言葉を知らない、三重苦の少女、ヘレン ケラーに、すばらしい先生が付いた。 その名は、アニーサリバン。 この出会いは、 ヘレンに奇跡をもたらすことになる。 生涯に、7か国語に精通した。 アニーに とってもこの出会いは、奇跡の人ヘレンケラーを育てるライフワークの始まりであった。 何から手をつけてよいのかわからない。 指を折って指話を試みる。 身振り動作で 何事かを知らせようとする。 初めは拒否するヘレンも、あきらめを知らないアニーの 努力に、次第になじんでくる。 アニーは聞こえないヘレンに何度も話しかけた。 ”へれん、物には名前があるのよ。” ヘレンが、人の意思伝達法を知るには、長い時を要した。 ついに、おぼえた、最初 の言葉、”water(水)”。 井戸端に走って、何度もすくい上げるヘレンに、アニー の努力は報われた。 だが、この時のヘレンの喜びには比べられない。 生涯、言葉の 研究に余念がなかったという。 意思を伝える言葉が大事なことは論を待たない。 エッセイ欄は、言葉の交換の場である。 碁友の方々の言葉を聞きたい。 | |
| 08-0051 | |
| ◆東京近在便り 〜その九〜 ◆谷口 一 ◆08年12月22日 11:14 | |
| 暮れのせわしなさが漂い始めた頃、多摩川を越えた日野に、腰掛けるように短期移住してきたわけだが、この町なかなかいわくありげで一週間はあっという間、坂の多い小道を登ったり下ったり、多摩川べりを白菜漬けのための漬物石さがしに夕暮れまで、目を上げれば、丹沢、富士に茜雲の色も濃く、奥多摩から秩父の方はすでに暗く、目を川原に戻せば、石の見分けもつかぬほどに闇はおりて、枯れ尾花を揺らす風に冷気がまじり、遅れ烏が二、三羽騒ぎ、どこで鳴らすか鐘の音、陰にこもって物凄くゴォ〜ン〜、落語『野晒し』の態、急ぎ足に家路をたどれば駅近くの縄のれん、お近づきの印と手招きしてるような破れ提灯、焼き鳥焼く煙もモクモクと歓迎の狼煙と一人合点、ザックに入れた漬物石の二、三個も肩に食い込み休み時、のれんくぐれば天国極楽と、いやいや待てよ、帰れば待ってる白菜ゴロリ、鷹の爪に柚子の実二つ、利尻昆布の10cm、まずは作っておこう白菜漬けを、石を探して坂道下りて、石を背負って坂道上るのが、これ意思の強さと覚悟して、甲州街道歩く男ありて、ふと見上げれば風にはためく旗指物の、「誠」の文字も鮮やかに、そう、ここは新撰組の故郷と世にも聞こえし日野の里、天然理心流の道場に若き頃の隊士等が腕を競って丁々発止、通った面々書き出せば、近藤勇に沖田総司、山南敬助の幹部連、そしてお待ちかね、日野の出身、土方歳三、井上源三郎と続けば、ここが新撰組の故郷と呼ぶのも至極当然屁の河童、寿司屋で河童は胡瓜巻き、しかしよくぞまァ、多摩の在から京都までテクテク歩いて125里、二七の十四日かけて、物見遊山は楽しかろうに、伏見警護のチャンチャンバラバラ、嵐寛主演の鞍馬天狗にさんざんやられ、坂本竜馬に嫌われて、内紛粛清の嵐も乗り越えて、土方歳三、最後は函館にまで落ち延びて、榎本武揚の蝦夷共和国陸軍奉行となるも、明治二年戦い戦い、ついに新政府軍の銃弾に倒れて帰らぬ人に、享年35歳は遅いか早いか、日野の在から夢抱き、日々鍛えた剣術でお国のためとまっしぐら、望み通りに武士にもなれたが、故郷に錦を飾ることなく、結局賊軍となり、命果てて、ああ勝てば官軍、負ければ虫けらのように、日本もつい最近まで内戦があったのだな、いやいやこの後も西郷どんの西南の役が勃発するのか田原坂、鬼の副長土方の残した発句を二つ三つ「山門を 見こして見ゆる 春の月」「行く年の 月日の流れ 蚊帳の外」「横に行 足跡はなし 朝の雪」と、号は豊玉、血の臭いのする新撰組も一人一人はただの人、俳句もひねり恋もしてずいぶんもてたと記録を残し、あっぱれ歳三は日野生まれ、帰ろうと上った日野坂もどうもなんだか飲みたくて、やっぱり途中引き返し、くぐったのれんは立ち飲み屋、日野自動車の連中か満員御礼ピーチクパーチク、カウンターのわずかの隙間に身を入れて、焼き鳥塩と生ビール、一杯飲めば異国の町もわが町に、聞き耳立てれば思い出話、いいじゃないの幸せならば、なかなかですわ煮込みの味も、さあ熱燗に切り替えて、白菜漬けを頼もうと思って思い出す、背中のリュックが重いだす、洒落にならない切り上げて、背中で帰る男意気、誰も見てない二、三歩六歩、白菜待たして四、五時間、坂をたどれば上弦の月、ちょっと間延びで明日は天気か、はたまた時雨か、京は時雨の名所で新撰組、勤皇の志士を清水坂に追い詰めて、濡れた羽織は重かろう、すべる足袋では刀もぶれて、逃れた志士は薩摩か長州、長州者は強かった、今でも新撰組とは敵と敵、いくらSMAPの慎吾が大河ドラマで近藤勇を演じても、山口ではきっと低視聴率、ほんとかな、でもそうなると日野と山口は犬猿か、左幕と勤皇、自民と共産、読売と朝日、米とパン、まてよ、犬も猿も干支にあるのになぜ猫はないのか南方熊楠先生よ、そんなこんなで、日野の駅から二つ曲がれば家に着き、白菜漬けに取り掛かり、たっぷり塩を振りいれて、あれ!たしか尾崎放哉にこんな自由律の句があったな「漬物桶に塩ふれと母は産んだか」おお〜まさに自分じゃないか〜、自由律といえばもう一人、山頭火も一句「うしろすがたのしぐれていくか」ああ〜これもなんだか身にせまるぞ〜、自由律が俳句かどうかは別として、世逃げ人の二人の句、江国滋さんには叱られそうだが、2008年12月ちょっといいじゃないと思いながら、柚子の皮をむき、塩もまたたっぷりと振りいれ、十分に洗った重石のせて、わが母ならこう詠むだろうと思う。 漬物桶に 塩ふれと 母は産んだぞ | |
| 08-0050 | |
| ◆クジとサイコロの問題解答 ◆長良川 ◆08年12月19日 12:34 | |
| カムイ様や多摩川様から正しい解答をいただきました。ありがとうございました。 いただいた解答と同じことなのですが、以下に解答を掲載しておきます。 <設問1の解答:数学的帰納法による証明> @上から1番目の横線の下では、最初の各縦線とクジを引いた人の名前の対応を、横線に接する左右の縦線の名前を入れ替えた対応となっており、名前と縦線とは1対1で対応している。 A上からn番目の横線の下の縦線と名前が1対1で対応していると仮定すると、その名前のなかでn+1番目の横線に接する縦線に対応する名前を入れ替えたものがn+1番目の横線の下の縦線と名前の対応となっており、上からn+1番目の横線の下でも縦線と名前が1対1で対応していることになる。 Bしたがって横線の数や位置に関わりなく、最後の横線の下でも、名前と縦線は1対1の対応関係にある。 <設問2の解答> n番目にクジを引く人の当たる確率(期待値)はすべて同じであることを証明する。 (多摩川様の解答そのもの) 最初の人の当たる確率=m/n(nはくじの総本数mは当たりくじの本数) 二番目の人の当たる確率=最初の人が当たって二番目の人が当たる確率+最初の人がはずれて二番目の人が当たる確率=(m/n)(m-1)/(n-1)+(n-m)/n×m/(n-1)=m/n したがってn番目の人の当たる確率=m/n(実はこの部分の証明をどうやってするかが難問) <設問3の解答> これは反復試行の確率の問題である。 n回の試行で確率pの事象Aがr回起こる確率=nCr・pのr乗・(1−p)の(n-r)乗 この公式に、n=6, r=3, p=1/2 を代入すると、 求める確率=6C3・(1/2)の3乗・(1/2)の3乗=20・(1/8)・(1/8)=20/64=5/16 | |
| 08-0049 | |
| ◆碁と占い ◆カムイ ◆08年12月16日 10:46 | |
| 碁と占いは、無縁ではない。 古代、占星術から碁が考えられたという説もある。 占いは、星占いのほか、亀甲の占い、筮竹を用いる八卦など。 方法は異なっても、 占う人の能力による。 預言者、占い師、神託を告げる巫女、共通した才能をもつ。 自己催眠、現状を把握し、推理して先を見通す洞察力、それを無意識の中に行う。 繰り返す中、人の才能はさらに進化する。 優れた占い師の言葉は高い信頼度がある。 私も、占いに興味がある。 夢みる性格、データー分析と推理、私のデーターは、 数理統計学による。 高校で数学を教えていた頃、確立統計の章に、確かと確か らしさ、という見出しがあった。 確からしさ、あいまいな表現が、純粋数学を好む 私には、意にそわない気もしたが、実生活では、応用数学、この統計的確立論が役に たつ比率が高い。 現在、こと柄によっては、コンピューターを使って、何年も先の ことが、98パーセントの確からしさで、”予言”されている。 統計学は、平成の 占い師なのである。 ”時の旅人”の未来への旅。 碁も洞察力が大事である。 先のことが見えると、手を読む方針も立ってくる。 だが、私は不振である。 目が悪いのと、時間に弱い。 切れ負けのランキングが あれば、かなり上位にいると思うが、そのデーター収集の道はない。 30分申し込みの人がいるが、私の弱みをつく意図とは思わない。 私は碁友を 信じる。 私の弱さは、思考と時間経過のバランスの悪さであり、長短ではない。 30分碁も受けることにしている。 | |
| 08-0045 | |
| ◆クジとサイコロ ◆長良川 ◆08年12月10日 12:06 | |
クジやサイコロは人の技量その他の要因に影響されることなく偶然のみによって順位などを決める方法であって、囲碁とはまったく正反対のものである。この囲碁とはおよそ縁の遠いクジやサイコロについて考えてみるのは、気分転換としても面白いのではなかろうか(実は、他の人の書き込みをカムイ様が期待されていたので、この文を書いた次第である)。 1.あみだくじ あみだくじとは、ある数の人にその人数分の番号を同一確率の偶然性にもとづいて割り当てる方法の一つである。 じゃんけんでなどで勝った順に番号を割り当ててゆく方法もあるが、あみだくじで決める方法は、人数が大勢いても簡単に結果が得られることや、参加者は誰でも横線を自由に付け加えて結果に影響を与えることができることや、くじを見ただけでは結果がわからず、どのような順位になるか楽しみであることから、じゃんけんなどよりも好まれる。 あみだくじは参加人数分の縦線を引き、隣り合う任意の二本の縦線に横線を渡して作成する。横線は、どの位置に引いてもよいし、何個でも好きなだけつけることができる。 このようにして作られたあみだくじは、上から縦線に沿ってなぞってゆき、横線に交われば横線に沿って進み、横線が縦線に交われば縦線に沿って降りる。縦線の下端に行き着くまでこれを繰り返す。すべての縦線は、上端から出発してそれぞれどれかの縦線の下端に行き着く。このようにして、すべての縦線の上端(たとえばある数のあみだくじ参加者)を縦線の下端(たとえば賞品や品物をとる順位)に割り当てることができる。 このあみだくじについては前々から不思議に思っていることがある。それは、なぜ、縦線の上端(参加者)から出発したくじの経路は必ずそれぞれ異なる縦線の下端(順位)に行き着き、それがダブって複数の参加者が同じ順位に割り当てられたり、人が割り当てられない空の順位ができたりしないのかといことである。そこで問題。 <設問> あみだくじ参加者は、最下位が参加者数に等しい順位内に過不足なく必ず1対1で割り当てられることを証明せよ。(重複順位や空順位は生じないことを証明せよ) 2.くじびきは公平か 順番や分配や賞金を決めるのにくじが使われることがしばしばある。 しかし、くじをひく順番によって当たりはずれが違ってこないのだろうか。もし、違ってくるのだとしたら、くじを引く人はその順番にこだわるはずであるが、世間ではあまりこだわっているようには見受けられない。しかし、たとえば10個の中に当たりくじが3個だけあるくじを10人が一人ずつ順番に引く場合を考えてみよう。最初の人が当たりくじを引いてしまったら、残りの当たりくじは2個しかなく、これを残り9人で引くことになる。とすれば、残りの人が当たりくじを引く確率は下がってしまう。このように考えると、くじを引く順番によって当たりはずれが影響を受けないとはいえないようにも思えてくる。 そこで問題。n個のくじのなかに当たりくじがm個ある場合に、くじを引く順番によってくじが当たる確率は変わるのか変わらないのか。変わるとすればどのように変わるのか。変わらないとすれば、なぜ変わらないのか。これを数学的に、すなわち誰もが納得する厳密さでもって証明せよ。 3.サイコロ サイコロは1から6までの6個の数字の中から1個の数字を一瞬のうちに決めることができるので、順番などを決める場合に愛用されてきた。そこで、問題。 「1個のサイコロを6回続けて振って、そのうち3回だけ奇数が出る確率はいくらか。」 <ヒント> サイコロの6つの数字のうち、奇数は3個、偶数も3個ある。だから、サイコロを1回だけ振って奇数がでる確率は1/2である。2回目以降も同じことがいえる。 <解答> 1回やって奇数が出る確率が1/2なのだから、6回やればそのうちの半分だけ、すなわち3回だけ奇数が出ることになろう。だから答えは1/2である。 <検討> 上の解答は、結論からいうと誤りであるということだけを指摘しておこう。本当の答えは、各自、自分の頭で考えてください。どうしても答えがわからないときは、事務局までご一報を! | |
| 08-0044 | |
| ◆真珠湾 ◆カムイ ◆08年12月08日 02:30 | |
| ”12月8日未明、帝国海軍は、真珠湾を攻撃し、敵に多大なる損害を与えたり。” 大本営発表である。 国民は、一様にどっと湧いた。 現代史上大きな分岐点となった この日から4年、初戦の勝利にもかかわらず、日本は苦難な道を歩む。 開戦1年で、 戦況は変わり、国運は日に日に傾く。 だが、飛行機乗りにあこがれる少年に戦いの 推移はわからない。 悲壮感がただよう祖国存亡の秋、母のなげきも知らずに、海軍 に志願した。 国内に、もう私の乗る飛行機はなかったのである。 敗戦、復員したが、虚ろであった。 数学、歴史、語学、勉強は好きであったので、生活は乱れなかったが、目標を失って いた。 進学して間もない頃、碁と出合った。 この競技が、私の人生観を育てて くれる。 広い視野を養うことで、世の中がよく見えてくる。 戦後、人々の思想も 変わりつつあった。 軍事力を国力と考えた人々は退き、戦争の空しさは、戦勝国にも 浸透していった。 現代文明が開花する夜明けであった。 半世紀、過去の歴史には、 見られない進化をする。 物質文明の進歩は、この時代を生きてきた私も目を見張る ものであった。 歴史は、出来事の単なる記録ではない。 その時代の人々が、一生懸命に生きてつくる ものである。 私も、現代史をつくる一粒の種なのか。 人は人の中に生きる。 交際は大事である。 私は今、碁の仲間を大切に思う。 | |
| 08-0043 | |
| ◆兵法・2 ◆カムイ ◆08年12月03日 13:41 | |
| ”敵を知り、己を知る。 而して勝ちを得る。” 私は毎日、碁友(現在180人位)の順位持ち点を書き出している。 手書きすることで、 碁友の顔(棋風)が目に浮かび、動静がわかる。 対戦成績は、手帳代わりのポケコンに 入力してあり、数秒で知ることができる。 対戦棋譜は、最新の勝局と敗局を一局ずつ、 モバイルに写してあり、対局しながらでも、見ることができる。 これほど手を尽くしても、私の実績は上がらないが、対戦者への敬意と思って行っている。 | |
| 08-0042 | |
| ◆兵法 ◆カムイ ◆08年11月27日 11:26 | |
| 孫子の兵法は碁にも応用できる言葉が多い。 善く敵に勝つものは争わず。 善く陣するものは戦わず。 善く戦うものは破れず。 善く破れるものは乱れず。 常勝の王者は、自ら争うことは求めない。 布石を上手に打てば、戦わずとも、有利な 形勢を維持すればよい。 中盤で善戦すれば、破れることはない。 策戦が破れた時も 損を最小にとどめるように努めれば、決定打にはならない。 終わりの句が私は好きだが、実戦でも、碁でも、これを実践できる人は少ない。 中国の春秋時代、晋の国に、士会という天才兵法家がいた。 春秋時代に大会戦といえる ものは多くはなかったが、前597年、黄河南岸の”ひつ”という地で、晋軍と楚軍が それぞれの盟下の国の軍をしたがえて激突した。 それを、”ひつの戦い”という。 晋軍は惨敗した。 ”−−晋の軍敗れて、河に走り、渡るを争う。 船中の人指甚だ 衆(オオ)し。” と史記に記される。 また、春秋左氏伝にも、”ーー中軍、下軍、 舟を争う。 舟中の指掬す可し。” と記されている。 舟中に指が多いとは、恐怖 にかられて、敗走する晋の兵が、先を争って舟に乗り、後からきて舟べりにすがる味方 の兵の指を、切って落とし、急ぎ舟をだしたのである。 それほどの敗戦、だが、 上軍だけ破れなかった。 上軍の将、士会は、晋の大臣でもあったが、用兵のたくみさは 春秋時代を通して、一、二を争う人である。 士会は、戦前に敗戦を予見していた。 自軍のまとまりが悪かったのである。 だが軍議 では、兵をひくことは入れられなかった。 兵を損じまいと、戦機を見ていたが、中軍、 下軍が惨敗し、敗走を始め、手の打ちようもなくなったので、伏兵をもうけ、楚軍の 追撃かわして、河を渡り、撤退した。 見事な進退であった。 孫子の言葉は、このときの士会の戦いぶりを、念頭においたような気がする。 | |
| 08-0041 | |
| ◆まほろば ◆カムイ ◆08年11月18日 18:11 | |
| 心が動から静に移るとき、やすらぎを求める。 まきむくの勇者、ふるさとを遠く離れて、心の中を寂しさが過ぎた。 大和は 国のまほろば 畳なづく 青垣 山ごもれる 大和しうるはし 伝承の世、倭建命の望郷歌と語られる。 西を征したときは、建き武勇は称えられたが、 父天皇に疎まれ、東征は、軍衆を賜らずに、都を発った。 伊勢の大御神宮(オオミ カミのヤシロ)に立ち寄り、おばの倭比売命に別れを告げ、わずかな手勢をつれて東へ 向かう。 富士の裾野焼津の火攻め、相模走水の海難、幾多の苦難を越え、妻を亡くし 股肱の臣も失って帰る、悲劇の英雄に古代のロマンを思う。 歴戦に疲れ、盤上にまほろばを求めて。 | |
| 08-0040 | |
| ◆邪馬台国 ◆カムイ ◆09年04月09日 08:45 | |
| ”まぼろしの邪馬台国”というドキュメンタリー映画が上映されている。 宮崎康平さん の物語である。 魏志倭人伝に記された邪馬台国が、何処にあったのかが、史学界で論議 の的になっていた。 文字使用が遅かった日本の歴史は、文字史料のない時代を先史と いい、伝承の時代は、史実とは離れたものと考えられていた。 だが、神話がまったくの 無根のこととは思われない。 神ごとは、人の世の出来事を伝えているように見える。 近世になってから、遺跡の発見が多くなった。 19世紀末、殷王朝の甲骨文字が発見 された。 現在までに発見された最古の文字である。 驚くべきことは、2200年も、 地下に眠っていた始皇帝の兵馬よう坑が発見されたのは、1974年、最近のことである。 偶然の発見もあるが、文明の進歩が、人の手を地下にに伸ばした。 地下工事中に発見 された遺跡も少なくない。 遺跡が歴史の資料になる。 昭和26年頃、宮崎さんは、眼底網膜炎を悪化させて失明した。 視力を失ってから、 邪馬台国の探求を思い立った。 早稲田大学文学部で史学を専攻したが、専門の歴史家 ではない。 父のあとをつぎ、島原鉄道の社長として、意欲的な経営者であった。 故郷島原の近くに、邪馬台国を想定していたのである。 各地の遺跡を訪れ、古代を 思った。 知識と推理、盲目の宮崎さんの史観である。 神話にも歴史的意味があると 考えていた。 古事記、日本書紀が編纂された頃、漢字は表音文字としても使われて いた。 これを表意文字としてよむと、人名(神名)も、地名も異なるものになる。 妻の目を借りて、記紀を500回も精読した。 杖をつき、妻に手をひかれ、倭人伝に 記された経路と思われる道を歩き、昔の国を比定した。 研究の成果を世に問うために、”まぼろしの邪馬台国”を出版した。 昭和42年早春 であった。 ベストセラーとなったこの著書によって、多くの人が古代へ誘われた。 私もその一人である。 思考を古代へ旅させる。 神話が好きで、推理好きな、”時の 旅人”は、自己催眠によってこれを行った。 目を閉じて、意識を沈ませていく。 現代人と古代人は無縁ではない。 歴代の遺伝子相続によって、今存在する。 人の 潜在記憶は、肉体生命をこの世に存在させる以前に遡ることができるのか。 私は古代 の風景を見た。 神託を告げる巫女が、自意識にない言動をとるように。 まつろわぬ神と戦う高天原が、邪馬台国なのであろうか。 卑弥呼の墓、百余歩の塚は、 いつか、姿を見せる時がくる。 20世紀後期になってから、遺跡出土品は雄弁になった。 科学の進歩により、年代が 推定できて、多くのことを明かしてくれる。 歴史を語るものが文字だけではなくなり、 急速に時代を逆行して行くのである。 | |
| 08-0039 | |
| ◆東京近在便り〜その八〜「落語、配達承ります」 ◆谷口 ◆08年11月06日 13:00 | |
| 落語を初めて聴いたのはラジオからだった。1960年前後。金馬も文楽も志ん生も現役バリバリの頃、タンスの上に鎮座する真空管ラジオからは、誰の噺が流れていたのだろう。自分は親の膝の中に居て、母も一番上の姉もクスクスと笑っていた記憶がある。金馬が電車事故で片足がないことは知っていた。 同じ頃から、テレビには落語を演じない落語家が何人も登場してくる。柳家金語楼が『ジェスチャー』、小金馬が『お笑い三人組』、志ん朝が『若い季節』、小金治が『アフタヌーンショー』など。テレビ時代になり、寄席も激減して、器用な落語家はタレントと二束わらじを履くことになる。談志も漫談のようなことをやっていた。それでもまだ東京にはいくつかの寄席が残り、行けば落語を聴けたのだろうが、地方の人間には落語との縁が急速に薄れてしまう。ラジオではまだ落語をやっていたのかもしれないが、生活様式はテレビ一辺倒になっていた。ラジオはタンスの上で棄てられるまでずっとビロードの布を被っていた。 70年代、東京に出てきた頃は、まだ映画も映画館も元気だった。池袋に文芸座があり、銀座に並木座、渋谷は全線座、飯田橋に佳作座、馬場の早稲田松竹、あちこちに名画座、個性をもった映画館がまだまだいっぱい残っていて奮闘していた。 新宿には蠍座があった。伊勢丹の明治通りの向こう側、路地を入ったところ左側のビル、地下に降りていく階段、50名ほどでいっぱいの小劇場・ミニシアター。ここの支配人が伝説の演劇・映画プロデューサーの葛井欣士郎。この葛井氏が蜷川幸雄や寺山修二や美輪明宏を世に送り出した。この蠍座で市川昆監督の『股旅』を観た。尾藤イサオ、小倉一郎、萩原健一の三人の渡世人見習いの話。見終わって階段を上がってきたら夕暮れだった。季節は覚えていない。ただ、真夏ではなかったような気がする。空気が乾いていた。ジーパンに下駄。普段なら路地を伊勢丹側に帰るのだが、映画でショーケンが土手の上を「オーイ、オーイ」と歩いていく映画のラストの余韻がそうさせたのか、路地を奥へと歩いていった。もう飲み屋の提灯は明々と灯り、焼き鳥屋の煙はもうもうと、狭い通りに行き渡っていた。二つ三つ角を曲がって、どこかでビールでもと思った時、目に入った風景を今でもはっきりと覚えている。古風な造り、寄席文字の看板が並ぶ新宿末廣亭の前に来ていたのだ。落語からすっかり遠ざかっていた頭に新鮮な寄席文字だった。新宿西口には京王プラザホテル、三井ビル、住友ビルと高層ビルが建ち始めていた頃。好対照の末廣亭。その佇まいは雑誌か何かで見て知ってはいたが、目の前に見たときには「ああ、ここにあったのか」という感慨。平日の夜席、前座の高座がもう始まっていた。十何年かぶりで落語に会えた。トリは数年前に亡くなった文治になる前の伸治だったように思うが。それから何年かは末廣亭によく通った。 80年代に入ってからはバタバタとした生活もあり、またぷっつりと落語とのつながりが切れてしまう。 縁の復活は2000年に入ってからで、PCや携帯で落語を提供する仕事のお手伝いをさせてもらうことになり20年ぶりの邂逅となる。仕事であるから落語関係の本や速記本も熱心に読むようになる。噺家さんとの付き合いもぼつぼつと増えてくる。以前より落語の世界が面白くなってくる、見えないものも見えてくる。落語家と言っても落語だけで喰っていくのは大変な世界。それに個人事業主ときている。協会はあっても会社じゃない。そこから仕事が降ってくるのはごくわずか。若手の真打、二つ目なんかは昔も今も、臥薪嘗胆、青息吐息。寄席の激減で高座に上がりたくても高座なし状態。なんとかしなくては。 新聞の社会面、経済面、政治面、文化面、国際面、どこを見ても影の濃い得体の知れない現代に、まさに起死回生の9回裏二死満塁一打逆転サヨナラの場面。代打「落語」、落語的思考、落語の時代なのに、落語を聴ける場所がない。江戸の末や明治には、自宅の二階を寄席にした粋人がいたというが、この世知辛い現代に無理な望み。となると、日暮れて道遠しだが、自分で小さな看板を立てよう。弊社定款に+1。 「落語、配達承ります」(噺家派遣業) 祝いの宴でお目出度噺、学校向けにささやかな人情噺、病院では笑いで治療、会社ではプレゼン能力倍増のイロハ伝授、とにもかくにも笑う門には福来る!大神楽や手品、紙きりなど色物も一緒に配達可。 「落語、配達承ります」ぜひお引き立てのほど。本日はちょっと営業。 お後がよろしいようで。 | |
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| ◆神無月 ◆カムイ ◆08年10月29日 10:55 | |
| 神々が出雲に集まると言う。 この語り伝えは、中国の春秋時代に、周王朝のもとに、 諸侯が年に一度参勤した制度に似ている。 神ごとは、人の世の出来事が消えずに、 何時までも伝えられているように見える。 乗り物もない時代、神々が袋を背負い、 自分の足で出雲に向かう様を、頭に思い浮かべるのは楽しい。 私は、神社を訪れ、神と話をすることがある。 神社は、神が地上に降りた時の仮寓 だから、神無月ならずとも留守の時が多い。 でも、話はできる。 神だから。 人が神に願い事をするのは、筋違いである。 人は神と約束をし、努力目標を決める。 私は、まだ神との約束を果たしていない。 それが、明日生きる活力となるのである。 | |
| 08-0037 | |
| ◆古代への招き ◆カムイ ◆08年10月14日 12:16 | |
| お伊勢まいりをした。 歴史のふるさとである。 神道は宗教でないというが、3世紀末(私の推定)から続いた神宮は、多くの信者 をもち、世界でも有数の宗教文化と考えられる。 広大な神域、古式を保つしきたり、 外国からも畏敬の目で見られている。 神宮の祖先として語られる神話の世界も、 身近なものと感じられた。 私は神が好きなのである。 高天原の生活様式は、弥生 文化、農業、機織を生活の基盤にしている。 私、”時の旅人”は、弥生より前、縄文の世界へも、しばしば旅をしている。 函館の大船遺跡、青森の三内丸山遺跡などを含む、”北海道・北東北の縄文遺跡群” が、文化庁の世界文化遺産暫定リストに加えられた。 南茅部で発見された中空土偶 は、国宝に指定された。 三内丸山の巨木を使った集落、ここに、5500年も昔に 文化があったことを語っている。 遺跡からの出土品から、その時代へ思考を旅させ るのである。 今まで、四大古代文明は、エジプト文明、メソポタミア文明、インダス 文明、中国文明とされてきた。 中国文明は、碁の起源に関係がある。 日本の米作農業は、中国より1500年遅れて始められた。 神々の世界は、これより 後の思想となるのだが、神は時空を超越するから。 三内丸山の出土品は、中国文明より1000年も前のものである。 大和民族(八州 列島先住民族と言った方がよいのか)が、漢民族より劣っていたわけではない。 気象条件の不適、あるいは、人口を養う自然食料の豊富さ、からか、農業の発生は、 列島でも北は南よりさらに遅れる。 ここに農業が発生していたら、 碁の発祥地は 中国に先んじて、列島北であったかも知れない。 農業、土地を所有する思想から 発して、碁が考えられたと思うからである。 | |
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| ◆碁の起源 ◆カムイ ◆09年03月24日 13:44 | |
| 中国4000年の歴史で、夏王朝は最初の国家と言われている。 碁の起源は夏王朝より 前に遡る。 夏王朝以前の、伝説の帝王、三皇五帝は、支配者というよりは、民を導く 徳の高い人のように思われる。 人々に農業を教えた。 人が自分で自分たちの食料 を作り出す。 野性からの進化である。 農業に必要なこと、春夏秋冬を知るために、 暦をつくることが大事であった。 初めの頃、耕作を教えた神農、五気、木・火・土・ 金・水 を季節に当てはめた黄帝、から、はるかに時代が下がって、五帝の四代、帝尭 の時に、初めて暦らしい暦がつくられた。 作成者は、天文学者、義仲、和仲の二人 である。 ”−−義和に命じ、敬しみて、こう天に順い、日月星辰を数え法り、敬しみ て、民に時を授けしむ。 −−歳三百六十六日、閏月をもって四時を正す。”と史記に 書かれている。 帝尭から位を譲られた帝舜は、天体観測機をもち、自ら暦数を管理 した。 帝舜の後継者、”う ”が夏王朝の始祖となる。 夏王朝の暦を夏暦といい、 日本の旧暦のもとになっている。 農業に必要なこと、灌漑治水の工事も行った。 これらを成し遂げた、天文学者、数学者が、碁という競技を考えたのであろう。 農業を始めた人々は、土地を所有する意識が生じ、欲も芽生えた。 実生活で、土地を 取り合えば、秩序を乱し、社会が壊れる。 盤の上での競技としたことが、人々を 満足させた。 碁は、土地の所有と、天文に縁が深いのである。 4000年も昔に、 天体運行の周期を、今日と変わりないほどに、観測することができた頭脳が、考え 出した文化遺産、最古のゲームである。 | |
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| ◆東京近在便り〜その七〜 ◆谷口 ◆08年09月29日 14:34 | |
| 51分13秒。 目標には73秒、距離にして250m届かなかった。前を走る人は点々と見えるのだが、追い上げていく体力が残っていなかった。また暑かった。給水所の度に頭に水をかぶり、シャツも靴もグジョグジョに濡らす。走り出すとシャツが肌にまとわりつき、水をかぶったことを後悔する。しかしまた給水所が見えてきて冷水の入った紙コップを手に取ると頭に首に水をかける。木陰のない八ヶ岳山麓のアスファルト道。沿道の畑のおばさんの声が耳に残っている。「上りそこまでよぉ」この声に助けられた。スタートから900mを一気に下る。そこから折り返しまではほとんどが上り坂。「〜そこまでよぉ」はまさに天の声だった。 市民マラソン参加は二回目だけれど、本当に多くの地元ボランティアの方々の協力で大会が成り立っているのがよくわかる。おかげさまで走らせていただいていますと素直に感謝できる。臨時駐車場には他県の車も多いけれど、どれほど地元にメリットがあるのだろう。たかだがしれたものと思うのだが。一生懸命接待してくれる。世話になる。ただ感謝。 さて次は10月。今から長野県でエントリー出来る大会は、5日の「浅間山登山マラソン」19日の「虚空蔵山米担ぎマラソン」「佐久市マラソン」「松本梓川マラソン」の4大会。登山マラソンと米担ぎマラソンは膝痛のことを考えれば無理だろう。米担ぎは魅力だが来年にとっておこう。佐久は道も知りすぎていて面白みに欠ける。よって梓川べりを走ることにする。ちょうどひと月後。また練習だ、走り出そう。 東京近在国分寺界隈には走っていて楽しい所が散在する。 矢田挿雲著『江戸から東京へ』の書き出しは、東京近在者をにんまりとさせてくれる。“江戸も本郷の兼安まで”なんて時代の遥か千年前、武蔵の国府は府中にあり挿雲曰く「この点江戸はいくら威張っても府中に頭が上がらない」。その府中の北に741年聖武天皇の詔により建立されたのが武蔵国分寺。同時期に鎮護国家のため全国の68箇所の国府近辺に国分寺と国分尼寺が建立されている。武蔵国分寺は金堂、塔、講堂、中門、鐘楼、経蔵、僧坊をもった広大なものだった。塔は七重でその威容に古代人は目を瞠ったことであろう。しかしその諸々は千年の流れの中で土にかえってしまった。ただ礎石が残るのみ。そのやや北に国分寺崖線があり、湧水が小川をつくり流れている。この辺りが全国名水百選に選ばれている「お鷹の道・真姿の池湧水群」JRの国分寺駅から南へ十数分の所にある。新宿から小一時間、おすすめスポットだ。初めての人は必ずその清涼さにびっくりする。こんな所にこんな場所があったのかと。 自宅から約5km、時々のランニングコースだ。1300年前の礎石に腰掛けて、ゆっくりとストレッチもする。目を閉じるとビュンビュンと歴史が飛んでいく。鎌倉から室町に時代が移る頃の1333年5月、鎌倉幕府軍と新田義貞の分倍河原での決戦で、大敗した新田軍が敗走の際、国分寺に火を放ち諸殿堂はことごとく炎につつまれ崩れ落ちてしまう。 見回すとポツンポツンと礎石が規則正しく並んで残っている。この大石一つ一つに巨大な柱が立っていたのだ。その上に梁があり屋根があり瓦があり、床板は磨きぬかれ、多くの僧侶達が立ち働いていた。何百年もの間。読経の声が聞こえてきそうだ。これもまた盛者必衰。 武蔵国分寺跡から西に府中街道、JR武蔵野線を横切ると国分寺尼寺跡。ここにも礎石がある。こじんまりと可愛いものだ。ここには尼さん達がいた。法華経を読誦し護国を祈りながらも、武蔵野の月を野の草花を愛でたのではなかろうか。国分寺僧寺に比べあまりにささやかな規模の国分寺尼寺の礎石を眺めていると、そんな風に感じる。その尼寺跡の中心部を伝鎌倉街道が貫いている。つまり、鎌倉時代にはすでに国分寺尼寺は廃寺となりその形すらもなかったものとみえる。尼さん達はどこへ行ったものか。尼寺跡に隣接して黒鐘公園がある。今までまったく気にも留めなかったが、この黒鐘という名。何か曰くがありそうだ。いつの時代かに焼けただれた鐘が掘り出されたのだろう。それは国分寺尼寺のものと考えられる。京だけではなく、武蔵の国も豪族達の割拠で戦火が絶えなかったろう。 この辺り夜のランニングにはかなり勇気がいる。公園には池があり柳もゆれている。尼さん達の霊に応援されたらたまらない。今夜のランニングは国立大学通りにしよう。 | |
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| ◆予科練 ◆長良川 ◆08年09月23日 08:55 | |
| 僕は戦争中に生まれたので予科練を見たことはない。ただし、元予科練なら見たり話したりしたことはある。 それは戦後間もない昭和二十四、五年、僕が小学校の一、二年生の頃のことである。当時、僕の家の前に小さな学校があった。といってもその学校というのが小学校でもなく新制中学でもなく、戦後の学制改革のため空きになった学校のようであった。小学校の建て増しのため、四年生だけが一年間その校舎に移ってきたり、また一時期、そこで夜間学校が開かれていた時もあったが、それ以外はたいてい空き教室になっていた。それでも学校には給仕、いまでいう管理人が一人雇われていた。僕が覚えているその学校の最初の給仕は、山田君といってまだごく若い子で、僕たちのお兄さんのような感じの少年だった。それでも、山田君は僕たちよりかなり年上だったので、一緒に遊んだことは一度もなかった。ただ、彼は将棋が強いということは知っていたが、「僕は将棋が好きで、新聞の将棋欄で研究しているんだ。」と他の人に言っているのを聞いたことがある。ある日、山田君が僕の家の前の校門のところで、もう一人の僕より大きい子供と話をしているのを聞いていた。僕はまだ小さすぎて、何を話しているのかよく理解でなかったが、山田君に「僕の服のボタンを数えてみろよ。七つあるだろ」といわれたその子が山田君の服のボタンに指をあてながら一つ、二つと数えていって、全部で七つあることを確かめたのを覚えている。数え終わって山田君が「ほら、言ったとおりだろ」というとその子は何も言わずに納得のそぶりをみせた。僕はそれが具体的に何を意味するのかはわからなかったが、少なくともそれは尊敬すべきことなんだというその場の雰囲気を感じ取ることはできた。その時の山田君の服の色はたしか薄い灰色だったと思う。しばらくして山田君はどこかへいってしまったようで、僕は七つボタンの件以来、彼の姿を見かけたことはなかった。彼は今頃どうしているんだろう。 その後、僕はもっとずっと大きくなり、家にあった古いレコードの中に、「荒鷲の歌」という「ニッチク」のSP盤を見つけて、それをレコードプレーヤにかけてよく聞いていたことを思い出す。「ニッチク」というのは「日本蓄音機・・・」の略で、戦時下に合併させられてできたレコード会社のようだ。このレコードはB面が「若鷲の歌」という勇ましい軍歌で、藤山一郎が唄っていたことはよく覚えているが、A面の「荒鷲の歌」は誰が唄っていたのかよく覚えていない。霧島昇か灰田勝彦だったかもしれない。それはともかく、この古関裕爾作曲の歌は短調の曲であるためか、歌詞の内容は勇ましいにもかかわらずどこか哀調を帯びて日本人の心情にぴったりくるものがあり、少し長めのカッコいい前奏とともに僕はすっかりその歌を覚えてしまった。そしてその頃にはこの歌やそのほかの、それまでに読んだり教わったりしたいろいろの知識から、山田君の七つボタンの意味がよくわかるようになっていた。 それからまた、長い年月が経ち、僕はある会社のエンジニアとして働いていたが、ある時、川崎製鉄水島製鉄所の製鋼工場に設置した転炉廃ガス処理装置の集塵性能を測定する仕事をしていた。その際、測定器具の運搬や測定作業そのものをやってもらうための人夫を雇っていたのだが、煙突の途中に吸引管をつっこんでサンプルを集める間は何もすることがなく、高いところから周りの景色を見ながら、僕よりもかなり年配の人夫と雑談をしていた。その際、彼は自分が元予科練だったことを打ち明けた。彼の話によれば、予科練を卒業したのか途中で課程を打ち切って動員されたのかよくわからないが、終戦時に彼は奈良航空隊にいたとのことである。といっても、飛行機に乗ったことは一度もなく、天理教の宿舎に寝泊まりしながら陣地構築など、飛行機乗りには関係のない仕事ばかりをさせられて終戦になったという。そして終戦時には、終戦を受け入れず、航空隊だけで決起する指令が回ってきて部隊は混乱し、動揺と緊張が走ったことなどを話してくれた。彼の話によれば、中学で予科練の募集があったときは、皆我も我もと応募してとても応募せずにはいられないような雰囲気だったということである。飛行機に一度も乗らなかった予科練の彼も、一種の戦争犠牲者だったといえよう。 | |
| 08-0033 | |
| ◆書込みシステムを変更しました! ◆事務局 ◆08年09月19日 10:12 | |
| 書込みシステムを次のように変更しました。 ●ハンドル名で書込む場合:自動的にハンドル名が表示されます。変更不可。 ●別の名前で書込む場合 :書込みを事務局で代行します。本文と名前を事務局 までメールで送ってください。 | |
| 08-0032 | |
| ◆予科練 ◆とほる ◆08年09月18日 20:31 | |
| 私の兄は昭和3年生まれ。カムイさんと同じように予科練に行った。旧制中学3年からだった。父は満州、母は止めようがなかった。 つっこんでいく飛行機もなく無事に帰ってきたが、その後ぐれた。はぐれたと言った方が良いかもしれない。まだ10代なのにカストリ焼酎を飲んで大暴れした。同じような仲間とブロウカーみたいな事をやり、喧嘩ばかりしていたらしい。予科練帰りには怖い者がないと言っていた。焼酎の飲み過ぎが祟り、二十歳ちょっとで死んだ。 母はどうせなら、つっこんでお国のために死ねば良かったのにと、兄を思い出す度に涙を流していた。 カムイさんは戦後にきちんと適応できた。私の兄とどこが違ったのだろうか。 生きていれば、兄もカムイさんと同じように今頃碁を打っていただろうに。 | |
| 08-0031 | |
| ◆東京近在便り 〜その六〜 ◆谷口 ◆08年09月10日 13:27 | |
| 風の音にぞおどろかれぬる という頃。 東京近在に膝の痛き男ありけり。積年の過労が溜まったわけではなく、ただこの数ヶ月の無理がたたったよう。肌色の膝サポーターを着け、そろりそろりと歩く後姿こそ哀れなり。昔とった杵柄も朽ち果てているのを省みず、○○の冷や水をザアザアとかぶりまたガブガブと飲み、みんなに無理だけはするなと言われても聞く耳持たずの馬の耳、走るに走ったこの三月、朝晩ガムシャラ500km、挙句の果ての膝サポーター、肌色ワイド版こそ惨めなり。 立ち上がれば冷や汗が出、そろり歩けば顔しかめ、突貫仕立てのマラソンランナー、自業自得の成れの果て、盛者必衰会者定離、ついでに踵も痛みだしお尻で降りる階段に、秋の気配が忍びよる。 東ニストレッチガ良イトイフ人アラバ イッテ痛イホド体ヲネジマゲラレ 西ニヨクキク鍼灸院ヲショウカイサレレバ イッテ恐ロシサニ先端恐怖症デストゴマカシ 北ニオンセン療法ノピカイチシセツアレド イッパク三万エンハチト高スギルデト言イ 南ニ私ハコレデ治シマシタトイフ人アラバ アッテ聞クトイツノマニカ怪シゲナ宗教ダッタリ 結局、少しずつ走り歩き走り歩きで痛みと仲良くしていくしかないと悟りとぼとぼ動き始める。 しかし光陰は容赦しない、迫り追越し追い抜き先を疾走していく。そして9月14日(日)、生涯二回目のマラソン大会はもうそこまで迫っている。ゼッケン番号は1235、諸々の案内通知も届いた。 ただ市民マラソンランナーに切羽詰った悲壮感はない。誰も期待していないから背負うものもなく、晴れがましさもなく、順位も関係なく、ましてや選手生命がどうのこうのもなく、完走を願ってひと頑張りふた頑張りするだけだ。だから自分のためだけに走りぬいて、痛くても這ってでもゴールに帰ってくる。 今回は長野県茅野市の『縄文マラソン』。なぜ縄文かというと小学生か中学生の時の社会の教科書の口絵の写真を思い出して欲しい。お腹とお尻の大きな縄文時代の女性の土偶があったはず。あれは国宝で縄文のビーナスと呼ばれているのだが、その土偶が発見されたのが茅野市にある棚畑遺跡、その近辺を走るので『縄文マラソン』。今回も前回の松川町マラソンと同様に10kmレースにエントリーした。 膝と踵の上方の痛みも、付き合っていれば緩和できる方法が徐々にわかってくる。どちらの痛みへの対応も走る前と走った後のストレッチが基本だが、ちょっとした生活習慣を変えるだけで効果がある。たとえばイスに座ったときの足の組み方、誰もが一定のはずだがこれを逆にしてみる。靴底の減り具合をみて歩き方を矯正してみる。歯をきっちり治す。等々。こういうことで体のバランスが正常に近くなり、走ることによる各所の負担が均衡のとれたものになり、痛みの刺激を和らげてくれる。 歳がいってくると、何に対しても宥めすかすことだとわかったようなことを言うようになる。これははっきりと老化現象といえるが、ただ肉体の痛みには宥めすかし法は有効だと思う。痛みと好い付き合いが出来れば、関節炎と肩組んで「お前百までわしゃ九十九まで」と棺桶目指して二人三脚の旅も可能というもの。休むより走ることが大事だとも思っている。体は使わなければ蝶番がきしみ固まってくるのだ。 Googleの距離測定ツールを使って5km、10km、20kmの練習コースを2パターンずつ決めている。20km東コースだと国分寺の自宅から武蔵境の国際基督教大学の裏門まで走って帰ってくる。西コースだと五日市街道から新奥多摩街道宮沢東交差点に出て国立回りで帰ってくる。20kmを走るのは月に3回くらいだが、これが今の限界だ。家に着いたら口もきけない。来年の2月15日は青梅マラソン。多摩川沿いの30kmレース。宥めすかして痛みともっと深い付き合いをしないと走りきれない。今回のレースはその試金石。50分を切ることが目標。日中は曇り空でせめて25度以下がありがたい。夕からは雲がとれ十五夜の月、どんな思いで見上げていることか。あと五日。今夜は痛みと一杯やろう。 | |
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| ◆九段 ◆カムイ ◆08年08月17日 08:36 | |
| 先の世の 悲しき思い 残れども 心まつりし 靖国の宮 海軍甲種飛行予科練習生。 私は最後の予科練だった。 遠い過去から、時空を旅してきた、スピリットキャラクター”さい”のように、 私も時空を旅してきた、”時の旅人”まだ青春である。 | |
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| ◆カムイ様七夕を読んで ◆ヒロミ ◆08年08月09日 12:04 | |
| 七夕を読んで、故郷の田舎にいた子ども時代、正月がすぎてまもなくの頃の「もぐら打ち」という行事を思い出しました。わら束に、竹などの芯を入れて(音を良くするため)大き目のバット状に固く縛ります。それを持って夕方から各家々の庭先で「もぐら打ちはどっこいしょ、もぐらは出ーていけ」などとはやしながら地面をバンバン打ちますと、その家の人が出てきて鉛筆やお菓子を平等にくれます。そして、次はどこ行く、あそこはケチだ、あそこがいい、などとガキ大将がいいながら5〜6軒回ると暗くなり、わら束も壊れて、収穫に満足して帰ったのを懐かしく思い出しました。 故郷のどんど焼きも忘れられない郷愁です。孫に経験させてやりたい思いです。 | |
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| ◆七夕 ◆カムイ ◆08年08月08日 09:50 | |
| 北国の七夕は一月おくれである。 短冊に願いを書いて笹につるす。 ”笹に短冊七夕祭り、ローソク一本ちょうだいな。”子供達は近所の家を訪れて、 ローソクや菓子をもらってまわる慣わしがある。 北国の子供達の言い回しは、 もっときつい。 ”ローソクだせ、だせよ。ださねばかっちゃくぞ。”品の無い 言葉にきこえるが。 外国にも似たような習慣がある。 月日は異なるがハローウイン。 かぼちゃをくりぬいて面をつくり、子供達は、他人の家を訪問し、”トリック、オア、 トリート”と叫んで、菓子をもらってまわる。 いたずらされたいか、もてなすか。 意味は、北国の子供達の方に近い。 対局中、私は、ふと、打った一手に、同じような願いをこめている思いをもった。 ”得をさせてくれるか、攻められたいか。”だが、対戦相手からは、どちらも拒否 されるのである。 | |
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| ◆東京近在便り 〜その五〜 ◆谷口 ◆08年08月04日 15:06 | |
| 暑かった。長かった。 前日に梅雨が明け、スタート1時間前の9時を過ぎた頃からは風もなく、頭から太陽にじりじりと焼かれる感じで、わずかな木陰を探して体の消耗をできるだけ抑えていた。それでも汗は流れる。初めての町、初めてのロードレース、何か自分だけが浮き上がっているようで不思議な感じだ。バナナを食べる。 8時過ぎに中央道の松川ICで降り、長野県下伊那郡松川町の会場に着いた頃はうす雲もかかり、暑さはそれ程でもないと思っていたのだが。 松川町は北から南に諏訪湖を発した天竜川が流れ、川の東西に広い段丘が形成され、町のほとんどは傾斜地になっている。その傾斜地を利用して春のイチゴからモモ、ナシ、リンゴ、ブドウ、柿など果物の栽培が盛んな所だ。よって今回の大会の正式名称も「第二回南信州まつかわロードレースinくだものの里まつかわ」となっている。種目は小学生の3km、中高生・一般の5km、高校・一般の10km。メンバー表を繰ると参加者は長野、愛知、岐阜がほとんどで、東で遠いのが栃木県、西は兵庫県。総参加者は6百数十名のこぢんまりとした大会だ。運営はもちろん町の人のボランティア。自分としては初めてのことだし、ちょうどこんな規模の大会を探し選んだ。 スタート待ちの時間、暢気にバナナを食べながらあたりの参加者に目をやると、何か違いが、違和感を覚える。なんなんだろうとぐるりの人達をよくよく観察すると、おでこも顎も肩も胸のあたりも腹も腰も膝も足首も靴先も、それらがすべて鋭角なのだ。がっちりしている人でもしっかりと鋭角でスッとしている。体のつくりがまったく違う。こちらのスポーツ履歴はというとサッカーと登山、どちらもガニ股系の最右翼、かたやランニングはスッスラット系。基本体型が大きく異なるのだ。豚がチーターの国に闖入した感じ。わが身を見てしみじみ思う。腿が太くて丸くて白い。それがランパンからぬっと二本出ている。Lサイズのランパンにもまったく余裕がない。にわか仕立て、付け焼刃の悲しさ。バナナ半分を残した。 スタート15分前。10km組集合。男女・年齢関係ない。二百数十名。コース説明があるが初めての土地、西も東もわからない。下って上って下って上っての連続のようだ。5分前スタートラインに移動。太陽は真上。この時間近くの多治見や飯田では35度に迫る気温。湿度50%弱。帽子を被る。これも初めて。 スタートの号砲。一気に500mの下り坂。飛び出しは2列目にいたから最初の瞬間は20位ほどか。前の人の背中がどんどん先に伸びていく。左右の脇から何人もの人が軽快にすり抜けていく。その背中がすぐに小さくなっていく。下りでも息が苦しい。ふくらはぎ、腿が重い。練習のときも出だしはいつも苦しい、徐々に楽になるからと思って長い下りを我慢する。帽子の中がすでに暑い。脱ぎ捨てたくなる。膝の上の筋肉に疲労が溜まっていくのがわかる。左折して上りに入っていく。細い自動車道だ。要所要所でボランティアの人達が誘導してくれる。得意だと思っている上りでもペースがあがらない。苦しい。すでに喉がカラカラだ。次々に追い抜かれていく。1kmも行かないうちに汗が吹き出る。水が欲しい。川を渡ったときには飛び込みたくなった。上りが続き、スタート地点近くまで一旦戻り、そこから中央道に平行して南に走っていく。日陰は一箇所もない。風もない。アスファルト道に陽炎が立つ。ずっと先の先まで人の背中が小さく続いている。4kmあたりの給水所が見えてくる、目指す。近づく。頑張る。両手に紙コップをもらう。テレビのマラソン中継の選手のように走りながら飲む。むせる。苦しい。とぼとぼ走り、小さく飲む。頭にかける。腿にかける。沿道に空の紙コップを捨てるのは、後始末の係りの人に申し訳ないが捨てる。暑い。止まってはだめだ。止まったらおしまいだ。5kmあたりで自動車道から外れて、りんご畑を下っていく。リンゴの木はせいぜい2m。木陰がつくれない。首の後ろが暑い。帽子を反対に被りなおす。とにかく足を前に出す。腰ががくんと落ちているのがわかる。あえぎあえぎあえいでいる。止まれない。中央道の側道のような農道を今度は上っていく。給水所がある。6kmあたりか。少しずつ少しずつ口に含む。生涯2度目の給水は成功。側道から右折して斜面を西に登っていく。ここは上るではなく、登るだ。長い、長い登りだ。ここにきて初めて一人二人と歩いている人を抜かしていく。歩かない。止まらない。「峠まであと200m」の声が沿道から聞こえる。よちよちと走る。頭から水を被りたい。谷川に飛び込みたい。もう半分は過ぎたんだ。もう帰り道なんだ。登りきれば、今度は下る。足がわずかにもつれている。用心して下る。リンゴの木にリンゴがなっている。まだ小さいリンゴがいっぱいなっている。目をあげればこの位置からだと仙丈ケ岳が正面に見えるのではないか。でも目が上げられない。体全体が足元に落ちている。遠くが見えない。自動車道に戻ってきて折り返していく。果樹園からホースを引いているおじさんが「かけるか?」と目で合図してくれる。とぼとぼと近づいていって帽子をとる。頭、顔、肩、背中に清涼が走る。たれた水が靴をぬらす。ずぼずぼと靴が鳴るが元気をもらう。沿道の物陰や木陰から声援を送ってくれる町の人が、あっちに二人、こっちに三人と見える。長い長い平坦でない直線道を走っていく。すべてが揺らいでいるようだ。自分の速度がわからない。暑い。3kmコースの折り返し点を通過する。頭で考える。ということは、あと1.5kmだ。まず500mを走りきるんだ。ランシャツもランパンも靴下も靴も汗と水でぐしょぐしょだ。どんな顔をして走っているんだろう。きっと悲壮な感じだろうな。そう思ったら笑いがでた。よし、もう500mはがんばれる。暑い。さっきかけてもらった水が熱湯になって体にまつわりついている。一足一足、足を前に出す。最後の給水所が見えてくる。空色のTシャツを着た少年がバケツとひしゃくを持っている。帽子をとる。どっとかけてくれる。元気をもらう。最後だ。最後だ。最後の500m。足を前に前に運ぶ。長いなぁ。こんなに10kmが長いのか。長い。暑い。足がうまく運べない。最後の左折。上り200m。前に人はいない。後ろにも人の気配はない。あと100の声がかかる。膝を前に出し、手を意識して強く振る。気持ちだけのラストスパート。ゴールのテープが見える。 距離があと500m長かったら完走できていないだろう。翌日も水分以外、体が受け付けなかった。 完走証には、記録:57分9秒、総合順位:101位とある。 | |
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| ◆MLBの旅(07.6.10〜6.22)-その7 ◆江戸 ◆08年07月29日 14:56 | |
| 3 トロピカーナ・フィールド 6月14日、朝からやや曇り気味でしたが、今日はドーム球場ですから天気は観戦には関係ありません。今日のゲームはタンパベイ・デビルレイズが本拠地トロピカーナ・フィールドにサンディエゴ・パドレスを迎え撃つ3連戦の第3戦。おとといからの勝敗は、タンパベイから見て @ 11−4、A 0−9ですから今日はいわば決勝戦。 Kと私とは3年前にこのカードを観戦しています。場所はサンディエゴで、そのときは上り調子のタンパベイが勝ちましたが、パドレスの大塚が負け試合ながらクローザー役を立派にこなしたのを記憶しています。今回は日本人選手は、両チームを通してタンパベイの岩村明憲ただ一人です。 試合開始前は球場内探索が私たちの定石ですが、ここの目玉はチーム名の「デビルレイ(”Devilray”)」の水槽です。「デビルレイ」はランダムハウス英和大辞典によると「オニイトマキエイ」と訳され、体幅7メーターを越えるものもあるが、性質は温和、と説明されています。なぜDevilなのか。”Ray” は「えい」(漢字で鱏)で、欧米では鱏は「悪魔の魚」とされる・・・、これは「ジーニアス英和辞典の説明です。ともあれ、バックスクリーンのすぐ右に直径2m程度の水槽に菱形で平べったい小型の鱏が何匹も泳いでおり、整理券(無料)を配って順繰りに見せてくれます。何とも気の利いたサービスです。 チームの2007イヤーブックを売っておりましたので求めました。中身はチーム発足以来の監督、コーチ、全選手を網羅した写真付きの名鑑ですが、チームの歴史が浅いからこそできることです。たとえば、2006年に西部ライオンズから入団した森慎二投手、この選手のことは忘れていましたが、キャンプ中の怪我で公式戦に一度も登板せずにチームを去りました。その森選手ですら6行ほどのコメント付きで写真が掲載されています。いわんや野茂投手の扱いはウエイド・ボッグス、ホセ・カンセコ 並みの大きさです。野茂は2005年に4ヶ月在籍しただけで、5勝8敗、防御率7.24とチームに大きな貢献をしたわけではありませんが、それでもこの扱い。特異の経歴や、失敗も多いが真正面から挑みかかる姿勢がアメリカ人の共感を得ているのでしょう。そういえばこのときを最後に、野茂はMLBのマウンドに現れていません。この名鑑を眺めていると、今や他のチームの中核として活躍している選手や、功成ったベテラン選手がある時期このタンパベイ・デビルレイズに籍を置き、活躍したさまがよくわかり、トレードの激しいMLBならではの興味がわいてきます。 4 サンディエゴ・パドレス7−1タンパベイ・デビルレイズ ウイークデイにデイゲームということは、今日は何かの祭日なのですがわかりません。開門と同時に入りましたので、試合開始まで十分時間があります。Kと私とが魚を見ようとバックスクリーンの方へ探検に出かけているとき、M氏は両軍のベンチ付近へ偵察に出かけます。 M氏談「試合前の練習量が少ないですね。前日ナイターで今日デーゲームのためかも知れないが、日本に比べての練習の軽さに驚きます。岩村のサインを貰うつもりでベンチ近くのスタンドで待っていましたが、グラウンドに現れたのが試合開始5分前位だったので結局貰えず。代わりにグローバー投手のサインを貰いました。この選手はリリーフに登板しましたが、後日、06年読売巨人で20試合に出て、5勝7敗の成績であったことが分かりました。」 私は日本の野球には疎くなり、このJohn Gary Glover 投手の巨人での活躍ぶりは承知しておりません。統計資料によると、MLBでの通算成績は27勝23敗、防御率5.00。MLB4年目のホワイトソックス在席時には先発5番手に擬せられるまで成長したが、その後は伸び悩み気味といったところがうかがえます。今は日米間の選手の交流が多く、レベルを比較する材料に事欠きませんが、一流選手だけでなく、こうした中堅どころの選手をキーにして比較するのも一興かと思い、調べてみた次第です。 試合は1回表にパドレスが1点を先制したまま膠着状態、双方の先発投手は役割を終えて降板。デビルレイズは8回表、無死二塁の場面でM氏がサインを貰ってきた前巨人のG投手を2番手として送ります。この前巨人氏、一昨日は2点リードの8回に登板し、3人を片付け、今期3つ目のホールドを得たばかりなのですが、今日はどうしたことかいきなり滅多打ちに会い、4安打3失点ですごすごと降板。勝負はここで決しました。 このゲームに限ってはG投手は戦犯でしたが、同投手の名誉のために言えば、今シーズン終了時点での成績は防御率4.89、6勝5敗、投球回数はチーム6番目ですから合格点です。チームは投手陣が弱体ですから、来期は先発を含めて期待できるでしょう。 (G投手の記述に力が入りましたが、同投手に関する情報はM氏から後にもたらされたもの、観戦中はこの事実は知りませんでしたから、そんなに気合を入れて見ていたわけではありません。) MLBの選手の異動の激しさは毎度見るところですが、3年前から本日まで継続して両チームで活躍している野手はたった3名(デ軍クロフォード、パ軍ジャイルス、グリーン)。つまり3年も経つとチームの様相が様変わりしてしまうのです。そういえば今日デビルレイズの敗戦処理に出てきたウィスタシックは1週間前にオークランドを馘首されて入団したばかり。そして3年前に見たこのカードではパドレス側の敗戦処理投手でした。試合を見ていても、「あの選手は前にはあそこのチームにいたのでは?」と思うケースは枚挙に暇はありません。 我々の期待の岩村選手は現地では「アキノリ」と親しまれている模様。打率も3割を超えて好調ですが、今日は4−1で特段のことはなし。守備では難しい場面で三塁にゴロがよく飛びましたが、無難に捌いてこちらも特段のことはありません。 結局この3連戦は遠来のパドレスが勝ち越したわけですが、ナ・リーグ西地区の首位をいくパドレスを相手に、ア・リーグ東地区最下位のデビルレイズには荷が重かったと言わざるを得ません。 ゲームが終わって出てきたのが16時ごろ、車ラッシュの中で空車が見つかりました(夜だったら車が居たかどうか、見つかったかどうか何ともいえないところです)。もう観光するところもありませんので、再び“The Pier”へ向かい、昨夕のワンフロアー下で軽食を取ってホテルへ戻りました。 翌日の出発は朝6時です。「念のため、タクシーの予約をしておこう。」ぐらいのつもりだったのですが、これが良かった。翌朝出てみるとフロントもロビーも閉鎖されています。ホテルのフロントは24時間開いているのが私たちの常識ですが、アメリカの田舎ではそうは行きません。裏木戸みたいなところを通って表へ出ますと、予約のタクシーがオンタイムでやってきました。「予約は朝でいいだろう。」などと言っていたら混乱するところでした。 早朝のフロリダに別れを告げ、次の訪問地ヒューストンへと向かいました。 | |
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| ◆MLBの旅(07.6.10〜6.22)-その6 ◆江戸 ◆08年07月17日 10:42 | |
| W フロリダ 1 セントピータースバーグ フロリダにはフロリダ・マーリンズ、タンパベイ・デビルレイズの新興二チームがあり、できることなら能率よく二箇所を廻りたいと考えましたが、距離的にも交通の便でも同じ州だからといって便利なことは何一つありません。マーリンズの方はレンタカーを使わなければボールパークへ到達することは全くムリ。しかもマイアミ近辺の一部地域はレンタカーに対しても治安上の問題があることなどがわかりましたのでこちらはあきらめ、フロリダではデビルレイズを観戦することとしました。インターネットによるチケットも、ネット裏の最高の場所が四人分まとめて1回のアクセスで取得できました。 タンパベイという地名から、野球場はタンパ国際空港から遠からぬところだろうと決めてかかっていたのですが、調べてみると空港から車で1時間弱、タンパ湾を渡った西側のセントピータースバーグという田舎町にあります。湾を渡る道路は両側の海面が高く、ミニ・キーウエストといった趣です。途中の風景は絶景ですが、ホテルはダウンタウンを通り越した殺風景でほこりの舞い立つような内陸部にポツンとあって、周囲には建物らしきものはありません。ホテルの確保に難渋したことは前に述べたとおりですが、当初もくろんでいた野球場から徒歩圏内のホテルが実は廃業していたのがけちのつきはじめで、インターネットにも「あっぷるほてる」にも袖にされながらも、野球場まで車で30分ほどの宿が何とか見つかったのですから、もって瞑すべしといったところでしょう。 旅装を解いてすぐタクシーでセントピータースバーグのダウンタウンに向かいました。まず商工会議所に併設されている観光案内所に立ち寄り、Looper というトロリーで一時間ほど市内を見て回ります。ダウンタウンと言ってもここは完全なリゾート地。商店街らしきものはありません。道路は広くてよく整備され、緑が整然と並び、東側を見れば雄大なタンパベイの天然ビーチにヨットが浮かびます。下調べのときに名前の出ていた豪華ホテルや美術館がいくつか、そのくらいがだだっ広い町の中心部のすべてです。 地理的には町の中心とはいえませんが、案内所の辺りから東側にタンパ湾に突き出すような形で道路が伸びており、1kmほど行った先端にその名も“The Pier” という複合施設があります。その最上階(4F)にあるCHA CHA COCONUTS というカリビアンレストランを案内所で教えてもらったので、そこで早めのディナー。オープンエアのなかでタンパ湾が一望に見渡せ、名も知らぬ鳥が啄むのを眺めながらゆったりと過ごしましたが、時計をみるとまだ6時前。「今日は野球のナイターがあるはずだね。チケットはないけどダメモトで行ってみない?」とKの提案にみな賛同し、早速出かけることにしました。 2 「おまけ」の野球観戦をあきらめる 外に出てすぐタクシーを拾って・・・、というのが普通のパターンでしょうが、フロリダのいなかではこうはいかないことを改めて悟りました。町の中心まで歩く間もタクシーなど全く見かけません。先の観光案内所がまだ開いておりましたので呼んでもらい、指定の場所で待つことになりましたが、なかなか時間通りにはやってきません。待つ間もタクシーの姿はどこにも見かけません。ようやく迎えのタクシーに乗ったときには7時半を過ぎておりました。 車中での会話。 私「ずいぶん待たされたねー。こんな交通事情では帰りの足が心配だね。このままホテルへ帰ったらどうだろう。」 K「いや、大丈夫、何とかなるよ。」 S「慎重にいこうよ。客待ちのタクシーがいたって、真っ暗な夜で見つけにくいし、ムリはよそう。」 衆議一決、というわけではありませんでしたが、妥協の産物で野球はあきらめ、ホテルへ戻りました。 「あの葡萄は酸っぱい。」と言った狐の話みたいなものですが、この夜の試合は地元のタンパベイが1回表に5点を取られ、9対0で負けていますので、私たちが入場できたとしても8時ごろでしょうから、その時点では大勢は決しており、ゼロ行進の凡戦を見る羽目になっていたでしょう。 野球観戦はナイターとし、昼は目いっぱい観光するのが効率的、ここタンパでも当初はこのゲームを観る計画でした。ところが「地球の歩き方」に「野球場は徒歩圏内」とあったホリデイ・イン系のホテルが何らかの事情で系列を離脱していたためアクセスすらできず、野球場近辺にはホテルはないことがわかりました。ここからホテル探しの難渋が始まったのですが、偶々翌日にデーゲームが組まれておりましたので、帰路の足の確保のことを考え、計画を変更した次第だったのです。 何ゆえにこんなところに何万人も収容する施設があるのか、アメリカが自家用車社会であることを象徴する事例でしょう。ここへは遠くマイアミあたりからも日帰りの観客も多いと聞きます。そしてここは全米一駐車場が充実しているボールパークだ、ということです。 私たちが最後に訪れるテキサスレインジャーズの球場は、全米一アクセスが不便なのだそうです。 | |