| 08-0024 | |
| ◆東京近在便り 〜その五〜 ◆谷口 ◆08年08月04日 15:06 | |
| 暑かった。長かった。 前日に梅雨が明け、スタート1時間前の9時を過ぎた頃からは風もなく、頭から太陽にじりじりと焼かれる感じで、わずかな木陰を探して体の消耗をできるだけ抑えていた。それでも汗は流れる。初めての町、初めてのロードレース、何か自分だけが浮き上がっているようで不思議な感じだ。バナナを食べる。 8時過ぎに中央道の松川ICで降り、長野県下伊那郡松川町の会場に着いた頃はうす雲もかかり、暑さはそれ程でもないと思っていたのだが。 松川町は北から南に諏訪湖を発した天竜川が流れ、川の東西に広い段丘が形成され、町のほとんどは傾斜地になっている。その傾斜地を利用して春のイチゴからモモ、ナシ、リンゴ、ブドウ、柿など果物の栽培が盛んな所だ。よって今回の大会の正式名称も「第二回南信州まつかわロードレースinくだものの里まつかわ」となっている。種目は小学生の3km、中高生・一般の5km、高校・一般の10km。メンバー表を繰ると参加者は長野、愛知、岐阜がほとんどで、東で遠いのが栃木県、西は兵庫県。総参加者は6百数十名のこぢんまりとした大会だ。運営はもちろん町の人のボランティア。自分としては初めてのことだし、ちょうどこんな規模の大会を探し選んだ。 スタート待ちの時間、暢気にバナナを食べながらあたりの参加者に目をやると、何か違いが、違和感を覚える。なんなんだろうとぐるりの人達をよくよく観察すると、おでこも顎も肩も胸のあたりも腹も腰も膝も足首も靴先も、それらがすべて鋭角なのだ。がっちりしている人でもしっかりと鋭角でスッとしている。体のつくりがまったく違う。こちらのスポーツ履歴はというとサッカーと登山、どちらもガニ股系の最右翼、かたやランニングはスッスラット系。基本体型が大きく異なるのだ。豚がチーターの国に闖入した感じ。わが身を見てしみじみ思う。腿が太くて丸くて白い。それがランパンからぬっと二本出ている。Lサイズのランパンにもまったく余裕がない。にわか仕立て、付け焼刃の悲しさ。バナナ半分を残した。 スタート15分前。10km組集合。男女・年齢関係ない。二百数十名。コース説明があるが初めての土地、西も東もわからない。下って上って下って上っての連続のようだ。5分前スタートラインに移動。太陽は真上。この時間近くの多治見や飯田では35度に迫る気温。湿度50%弱。帽子を被る。これも初めて。 スタートの号砲。一気に500mの下り坂。飛び出しは2列目にいたから最初の瞬間は20位ほどか。前の人の背中がどんどん先に伸びていく。左右の脇から何人もの人が軽快にすり抜けていく。その背中がすぐに小さくなっていく。下りでも息が苦しい。ふくらはぎ、腿が重い。練習のときも出だしはいつも苦しい、徐々に楽になるからと思って長い下りを我慢する。帽子の中がすでに暑い。脱ぎ捨てたくなる。膝の上の筋肉に疲労が溜まっていくのがわかる。左折して上りに入っていく。細い自動車道だ。要所要所でボランティアの人達が誘導してくれる。得意だと思っている上りでもペースがあがらない。苦しい。すでに喉がカラカラだ。次々に追い抜かれていく。1kmも行かないうちに汗が吹き出る。水が欲しい。川を渡ったときには飛び込みたくなった。上りが続き、スタート地点近くまで一旦戻り、そこから中央道に平行して南に走っていく。日陰は一箇所もない。風もない。アスファルト道に陽炎が立つ。ずっと先の先まで人の背中が小さく続いている。4kmあたりの給水所が見えてくる、目指す。近づく。頑張る。両手に紙コップをもらう。テレビのマラソン中継の選手のように走りながら飲む。むせる。苦しい。とぼとぼ走り、小さく飲む。頭にかける。腿にかける。沿道に空の紙コップを捨てるのは、後始末の係りの人に申し訳ないが捨てる。暑い。止まってはだめだ。止まったらおしまいだ。5kmあたりで自動車道から外れて、りんご畑を下っていく。リンゴの木はせいぜい2m。木陰がつくれない。首の後ろが暑い。帽子を反対に被りなおす。とにかく足を前に出す。腰ががくんと落ちているのがわかる。あえぎあえぎあえいでいる。止まれない。中央道の側道のような農道を今度は上っていく。給水所がある。6kmあたりか。少しずつ少しずつ口に含む。生涯2度目の給水は成功。側道から右折して斜面を西に登っていく。ここは上るではなく、登るだ。長い、長い登りだ。ここにきて初めて一人二人と歩いている人を抜かしていく。歩かない。止まらない。「峠まであと200m」の声が沿道から聞こえる。よちよちと走る。頭から水を被りたい。谷川に飛び込みたい。もう半分は過ぎたんだ。もう帰り道なんだ。登りきれば、今度は下る。足がわずかにもつれている。用心して下る。リンゴの木にリンゴがなっている。まだ小さいリンゴがいっぱいなっている。目をあげればこの位置からだと仙丈ケ岳が正面に見えるのではないか。でも目が上げられない。体全体が足元に落ちている。遠くが見えない。自動車道に戻ってきて折り返していく。果樹園からホースを引いているおじさんが「かけるか?」と目で合図してくれる。とぼとぼと近づいていって帽子をとる。頭、顔、肩、背中に清涼が走る。たれた水が靴をぬらす。ずぼずぼと靴が鳴るが元気をもらう。沿道の物陰や木陰から声援を送ってくれる町の人が、あっちに二人、こっちに三人と見える。長い長い平坦でない直線道を走っていく。すべてが揺らいでいるようだ。自分の速度がわからない。暑い。3kmコースの折り返し点を通過する。頭で考える。ということは、あと1.5kmだ。まず500mを走りきるんだ。ランシャツもランパンも靴下も靴も汗と水でぐしょぐしょだ。どんな顔をして走っているんだろう。きっと悲壮な感じだろうな。そう思ったら笑いがでた。よし、もう500mはがんばれる。暑い。さっきかけてもらった水が熱湯になって体にまつわりついている。一足一足、足を前に出す。最後の給水所が見えてくる。空色のTシャツを着た少年がバケツとひしゃくを持っている。帽子をとる。どっとかけてくれる。元気をもらう。最後だ。最後だ。最後の500m。足を前に前に運ぶ。長いなぁ。こんなに10kmが長いのか。長い。暑い。足がうまく運べない。最後の左折。上り200m。前に人はいない。後ろにも人の気配はない。あと100の声がかかる。膝を前に出し、手を意識して強く振る。気持ちだけのラストスパート。ゴールのテープが見える。 距離があと500m長かったら完走できていないだろう。翌日も水分以外、体が受け付けなかった。 完走証には、記録:57分9秒、総合順位:101位とある。 | |
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| ◆MLBの旅(07.6.10〜6.22)-その7 ◆江戸 ◆08年07月29日 14:56 | |
| 3 トロピカーナ・フィールド 6月14日、朝からやや曇り気味でしたが、今日はドーム球場ですから天気は観戦には関係ありません。今日のゲームはタンパベイ・デビルレイズが本拠地トロピカーナ・フィールドにサンディエゴ・パドレスを迎え撃つ3連戦の第3戦。おとといからの勝敗は、タンパベイから見て @ 11−4、A 0−9ですから今日はいわば決勝戦。 Kと私とは3年前にこのカードを観戦しています。場所はサンディエゴで、そのときは上り調子のタンパベイが勝ちましたが、パドレスの大塚が負け試合ながらクローザー役を立派にこなしたのを記憶しています。今回は日本人選手は、両チームを通してタンパベイの岩村明憲ただ一人です。 試合開始前は球場内探索が私たちの定石ですが、ここの目玉はチーム名の「デビルレイ(”Devilray”)」の水槽です。「デビルレイ」はランダムハウス英和大辞典によると「オニイトマキエイ」と訳され、体幅7メーターを越えるものもあるが、性質は温和、と説明されています。なぜDevilなのか。”Ray” は「えい」(漢字で鱏)で、欧米では鱏は「悪魔の魚」とされる・・・、これは「ジーニアス英和辞典の説明です。ともあれ、バックスクリーンのすぐ右に直径2m程度の水槽に菱形で平べったい小型の鱏が何匹も泳いでおり、整理券(無料)を配って順繰りに見せてくれます。何とも気の利いたサービスです。 チームの2007イヤーブックを売っておりましたので求めました。中身はチーム発足以来の監督、コーチ、全選手を網羅した写真付きの名鑑ですが、チームの歴史が浅いからこそできることです。たとえば、2006年に西部ライオンズから入団した森慎二投手、この選手のことは忘れていましたが、キャンプ中の怪我で公式戦に一度も登板せずにチームを去りました。その森選手ですら6行ほどのコメント付きで写真が掲載されています。いわんや野茂投手の扱いはウエイド・ボッグス、ホセ・カンセコ 並みの大きさです。野茂は2005年に4ヶ月在籍しただけで、5勝8敗、防御率7.24とチームに大きな貢献をしたわけではありませんが、それでもこの扱い。特異の経歴や、失敗も多いが真正面から挑みかかる姿勢がアメリカ人の共感を得ているのでしょう。そういえばこのときを最後に、野茂はMLBのマウンドに現れていません。この名鑑を眺めていると、今や他のチームの中核として活躍している選手や、功成ったベテラン選手がある時期このタンパベイ・デビルレイズに籍を置き、活躍したさまがよくわかり、トレードの激しいMLBならではの興味がわいてきます。 4 サンディエゴ・パドレス7−1タンパベイ・デビルレイズ ウイークデイにデイゲームということは、今日は何かの祭日なのですがわかりません。開門と同時に入りましたので、試合開始まで十分時間があります。Kと私とが魚を見ようとバックスクリーンの方へ探検に出かけているとき、M氏は両軍のベンチ付近へ偵察に出かけます。 M氏談「試合前の練習量が少ないですね。前日ナイターで今日デーゲームのためかも知れないが、日本に比べての練習の軽さに驚きます。岩村のサインを貰うつもりでベンチ近くのスタンドで待っていましたが、グラウンドに現れたのが試合開始5分前位だったので結局貰えず。代わりにグローバー投手のサインを貰いました。この選手はリリーフに登板しましたが、後日、06年読売巨人で20試合に出て、5勝7敗の成績であったことが分かりました。」 私は日本の野球には疎くなり、このJohn Gary Glover 投手の巨人での活躍ぶりは承知しておりません。統計資料によると、MLBでの通算成績は27勝23敗、防御率5.00。MLB4年目のホワイトソックス在席時には先発5番手に擬せられるまで成長したが、その後は伸び悩み気味といったところがうかがえます。今は日米間の選手の交流が多く、レベルを比較する材料に事欠きませんが、一流選手だけでなく、こうした中堅どころの選手をキーにして比較するのも一興かと思い、調べてみた次第です。 試合は1回表にパドレスが1点を先制したまま膠着状態、双方の先発投手は役割を終えて降板。デビルレイズは8回表、無死二塁の場面でM氏がサインを貰ってきた前巨人のG投手を2番手として送ります。この前巨人氏、一昨日は2点リードの8回に登板し、3人を片付け、今期3つ目のホールドを得たばかりなのですが、今日はどうしたことかいきなり滅多打ちに会い、4安打3失点ですごすごと降板。勝負はここで決しました。 このゲームに限ってはG投手は戦犯でしたが、同投手の名誉のために言えば、今シーズン終了時点での成績は防御率4.89、6勝5敗、投球回数はチーム6番目ですから合格点です。チームは投手陣が弱体ですから、来期は先発を含めて期待できるでしょう。 (G投手の記述に力が入りましたが、同投手に関する情報はM氏から後にもたらされたもの、観戦中はこの事実は知りませんでしたから、そんなに気合を入れて見ていたわけではありません。) MLBの選手の異動の激しさは毎度見るところですが、3年前から本日まで継続して両チームで活躍している野手はたった3名(デ軍クロフォード、パ軍ジャイルス、グリーン)。つまり3年も経つとチームの様相が様変わりしてしまうのです。そういえば今日デビルレイズの敗戦処理に出てきたウィスタシックは1週間前にオークランドを馘首されて入団したばかり。そして3年前に見たこのカードではパドレス側の敗戦処理投手でした。試合を見ていても、「あの選手は前にはあそこのチームにいたのでは?」と思うケースは枚挙に暇はありません。 我々の期待の岩村選手は現地では「アキノリ」と親しまれている模様。打率も3割を超えて好調ですが、今日は4−1で特段のことはなし。守備では難しい場面で三塁にゴロがよく飛びましたが、無難に捌いてこちらも特段のことはありません。 結局この3連戦は遠来のパドレスが勝ち越したわけですが、ナ・リーグ西地区の首位をいくパドレスを相手に、ア・リーグ東地区最下位のデビルレイズには荷が重かったと言わざるを得ません。 ゲームが終わって出てきたのが16時ごろ、車ラッシュの中で空車が見つかりました(夜だったら車が居たかどうか、見つかったかどうか何ともいえないところです)。もう観光するところもありませんので、再び“The Pier”へ向かい、昨夕のワンフロアー下で軽食を取ってホテルへ戻りました。 翌日の出発は朝6時です。「念のため、タクシーの予約をしておこう。」ぐらいのつもりだったのですが、これが良かった。翌朝出てみるとフロントもロビーも閉鎖されています。ホテルのフロントは24時間開いているのが私たちの常識ですが、アメリカの田舎ではそうは行きません。裏木戸みたいなところを通って表へ出ますと、予約のタクシーがオンタイムでやってきました。「予約は朝でいいだろう。」などと言っていたら混乱するところでした。 早朝のフロリダに別れを告げ、次の訪問地ヒューストンへと向かいました。 | |
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| ◆MLBの旅(07.6.10〜6.22)-その6 ◆江戸 ◆08年07月17日 10:42 | |
| W フロリダ 1 セントピータースバーグ フロリダにはフロリダ・マーリンズ、タンパベイ・デビルレイズの新興二チームがあり、できることなら能率よく二箇所を廻りたいと考えましたが、距離的にも交通の便でも同じ州だからといって便利なことは何一つありません。マーリンズの方はレンタカーを使わなければボールパークへ到達することは全くムリ。しかもマイアミ近辺の一部地域はレンタカーに対しても治安上の問題があることなどがわかりましたのでこちらはあきらめ、フロリダではデビルレイズを観戦することとしました。インターネットによるチケットも、ネット裏の最高の場所が四人分まとめて1回のアクセスで取得できました。 タンパベイという地名から、野球場はタンパ国際空港から遠からぬところだろうと決めてかかっていたのですが、調べてみると空港から車で1時間弱、タンパ湾を渡った西側のセントピータースバーグという田舎町にあります。湾を渡る道路は両側の海面が高く、ミニ・キーウエストといった趣です。途中の風景は絶景ですが、ホテルはダウンタウンを通り越した殺風景でほこりの舞い立つような内陸部にポツンとあって、周囲には建物らしきものはありません。ホテルの確保に難渋したことは前に述べたとおりですが、当初もくろんでいた野球場から徒歩圏内のホテルが実は廃業していたのがけちのつきはじめで、インターネットにも「あっぷるほてる」にも袖にされながらも、野球場まで車で30分ほどの宿が何とか見つかったのですから、もって瞑すべしといったところでしょう。 旅装を解いてすぐタクシーでセントピータースバーグのダウンタウンに向かいました。まず商工会議所に併設されている観光案内所に立ち寄り、Looper というトロリーで一時間ほど市内を見て回ります。ダウンタウンと言ってもここは完全なリゾート地。商店街らしきものはありません。道路は広くてよく整備され、緑が整然と並び、東側を見れば雄大なタンパベイの天然ビーチにヨットが浮かびます。下調べのときに名前の出ていた豪華ホテルや美術館がいくつか、そのくらいがだだっ広い町の中心部のすべてです。 地理的には町の中心とはいえませんが、案内所の辺りから東側にタンパ湾に突き出すような形で道路が伸びており、1kmほど行った先端にその名も“The Pier” という複合施設があります。その最上階(4F)にあるCHA CHA COCONUTS というカリビアンレストランを案内所で教えてもらったので、そこで早めのディナー。オープンエアのなかでタンパ湾が一望に見渡せ、名も知らぬ鳥が啄むのを眺めながらゆったりと過ごしましたが、時計をみるとまだ6時前。「今日は野球のナイターがあるはずだね。チケットはないけどダメモトで行ってみない?」とKの提案にみな賛同し、早速出かけることにしました。 2 「おまけ」の野球観戦をあきらめる 外に出てすぐタクシーを拾って・・・、というのが普通のパターンでしょうが、フロリダのいなかではこうはいかないことを改めて悟りました。町の中心まで歩く間もタクシーなど全く見かけません。先の観光案内所がまだ開いておりましたので呼んでもらい、指定の場所で待つことになりましたが、なかなか時間通りにはやってきません。待つ間もタクシーの姿はどこにも見かけません。ようやく迎えのタクシーに乗ったときには7時半を過ぎておりました。 車中での会話。 私「ずいぶん待たされたねー。こんな交通事情では帰りの足が心配だね。このままホテルへ帰ったらどうだろう。」 K「いや、大丈夫、何とかなるよ。」 S「慎重にいこうよ。客待ちのタクシーがいたって、真っ暗な夜で見つけにくいし、ムリはよそう。」 衆議一決、というわけではありませんでしたが、妥協の産物で野球はあきらめ、ホテルへ戻りました。 「あの葡萄は酸っぱい。」と言った狐の話みたいなものですが、この夜の試合は地元のタンパベイが1回表に5点を取られ、9対0で負けていますので、私たちが入場できたとしても8時ごろでしょうから、その時点では大勢は決しており、ゼロ行進の凡戦を見る羽目になっていたでしょう。 野球観戦はナイターとし、昼は目いっぱい観光するのが効率的、ここタンパでも当初はこのゲームを観る計画でした。ところが「地球の歩き方」に「野球場は徒歩圏内」とあったホリデイ・イン系のホテルが何らかの事情で系列を離脱していたためアクセスすらできず、野球場近辺にはホテルはないことがわかりました。ここからホテル探しの難渋が始まったのですが、偶々翌日にデーゲームが組まれておりましたので、帰路の足の確保のことを考え、計画を変更した次第だったのです。 何ゆえにこんなところに何万人も収容する施設があるのか、アメリカが自家用車社会であることを象徴する事例でしょう。ここへは遠くマイアミあたりからも日帰りの観客も多いと聞きます。そしてここは全米一駐車場が充実しているボールパークだ、ということです。 私たちが最後に訪れるテキサスレインジャーズの球場は、全米一アクセスが不便なのだそうです。 | |
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| ◆MLBの旅(07.6.10〜6.22)-その5 ◆江戸 ◆08年07月10日 11:03 | |
| V フィラデルフィア 3 “Historic Philadelphia” 観光 翌6月12日も快晴。今日は「アメリカ建国の歴史をたどる」と言っては大げさですが、疲れの出ない範囲で街中を観光しようというわけです。 “Historic Philadelphia” はフィラデルフィア観光のキーワードらしい。そのなかで本日の我々の観光の目玉は「リバティ・ベル・パビリオン」。リバティ・ベル(自由の鐘)は高さ1.2メートルはあろうかと思われ、その上部から下方に向けて大きな亀裂が入っているのが「売り」のようです。 アメリカ建国の歴史はこの鐘とともにあり、鐘には亀裂が付いて回るといった様相ですが、そもそも1753年に州議会がロンドンのメーカーに発注した鐘が最初の一発でひび割れ、 直ちに鋳造し直した鐘は音色が好ましくなく、今に残るのは三代目、といった按配です。その三代目は1776年の独立宣言を初め、歴史の節目に活躍しましたが、いつのころからか再びクラックを生じ、1846年のワシントン生誕記念日に数時間にわたって鳴らされた際、亀裂が広がり、以後、この鐘の音を聞くことはない、と説明書の語るところでした。 続いて立ち寄ったのは「カーペンターズ・ホール」。1724年に創設された大工さんの組合が建設・所有するホールです。組合は建築家としての指導性と同時に、イギリスの植民地からの独立を目指す急進派のオピニオンリーダーとしてこのホールを1774年の第1回大陸会議の会場に提供し、独立への道筋をつける役割を果たした、とあります。1770年代の建築物としての芸術的価値と、歴史遺産の担い手としての値打ちを併せ持った建物でした。 「インディペンデンスホール」の見学は時間制のツアー形式を取っており、時間のない私たちはパス。 1km ほど南に“Jim's Steaks”という有名なフィラデルフィア・チーズステーキ店があるとのことでしたので、4番通りを南下しました。独立記念公園からサウスストリートへの道は車の通行も少なく、両側は緑が茂り、都市の散歩道としては快適です。たどりついた件の店は椅子の数もまばらなファーストフード店。若いバックパッカー向けのお店とお見受けましたので敬遠し、Jim からJon に乗り換えて“Jon’s Bar & Grill” でランチ。 タクシーで市の中心街まで戻り、市内見学。次いで市庁舎タワーの166m の展望台から市内を一望する予定でしたが、これまた2時間待ちの予約制。係りのおばちゃんは神戸に行ったことがあるとか大はしゃぎでしたが、エレベータの臨時手配というわけにもいかず、少しだけお相手をして退散、市内を逍遥しながらホテルに帰り着きました。夕方、昨日と同じ時間に同じような驟雨がありましたが、この時期この季節の決まりごとのようです。 夜はすぐ近くの ”DiNardo’s” というシーフード。カニ、エビ、貝類が豪快な形で出てきます。こういうのは日本ではなかなかお目にかかれません。 フィラデルフィア、歴史の町としての落ち着きが町全体を包んでおり、ちょっと中心を外れれば緑が豊か。訪ね残した数々の歴史の館、フィラデルフィア美術館、ペンシルバニア大学、動物園などに思いを残しながらの二日間の滞在でした。 | |
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| ◆東京近在便り 〜その四〜 ◆谷口 ◆08年07月03日 10:46 | |
| 街中を走る人がいる。 雑誌『ランナー』から飛び出してきたような人もいれば、願メタボ脱出の人、音楽聴きながらのダイエット小娘、仲良し歩道占領おばさん達、闘魂スポーツ中高校生、歯を食いしばって身悶えしながらの中年男性、健康のために走るのをやめなさいと注意したくなるような冷や水老人、時代錯誤の日の丸鉢巻おばさん、ジャージのフード被ったラップ男、シルベスター気取りのロッキー男、ちょっと円谷さん似、まるごとナイキ、黒ずくめの紫外線100%カット目だけお姉さん?、2ℓペットボトル持ちながらの外人・重いだろナ、ふくらはぎサポーター足引きずりおじさん・休んだら、ただの自己陶酔女、汗だくムーミン男、赤信号足踏み男・青になっても走り出せない、街中でストロー付背負いバッグ男・チュウチュウポカリ吸うな、サングラスだけ高橋尚子、夜でもクッキリ反射板キラキラ男、よせやァ汗かきアベックペアルック、誰も見てないぞお前のことだ、何を背負っているのかやつれ頬こけ十字架男、十人十色、百人百様、種種雑多、玉石混淆、魑魅魍魎、いるわいるわ。 その仲間入りをした。 上の例でいうと、歯を食いしばり身悶え60%+やつれ頬こけ十字架30%+誰も見てないぞお前10%で、今、ぼくは成り立っている。 ただ走るなど、なんと馬鹿なとずっと思っていた。冬のクロスカントリースキーの体力づくりに始めた街中のランニング。この単調極まりないと思っていた両手両足もくもく運動が、付き合うとなかなか底が深い。面白い。のめりこむ。抜けられない。雨の日を恨む。ちょっと中毒症状。 何が面白いのか。 一言でいうと、「走れた。走れる。もっと」 半年前まではまともに100mも走れなかった。もうこんなものだと思っていたし、どうにかしようという気持ちも持てなかった。きっかけは初参加した3月のクロスカントリースキーの大会。坂が登れない。息が切れてスキーが止まってしまう。あえぎあえぎ5kmを完走したものの我ながら情けなかった。が、その中に喜びの種をみつけた。何十年ぶりかにスポーツ大会に参加できた喜び。どんなスポーツでも公式な試合に出場することは格別だ。緊張があり、晴れがましさもある。大会に参加できる喜び。これが根っからのスポーツ好きの琴線にふれたのだ。「よし、来年も出る。来年こそは!」という気持ちになった。 そして走り始めた。 まずは近隣を一周。300mほど。これが完走できない。二度は立ち止まる。走る、止まる、歩く、走る。週に三日以上、走ることを決める。 日本の景観をブチ壊しにしている電信柱も、にわかランナーには役立つことがある。目標になる。あの電信柱まで。もう一つ先の電信柱までというように。すると三日目には300mが走れるようになる。300m走れれば、近隣脱出で駅まで走ってみる。こうやって、300mから1km、3km、5kmと走れる距離が伸びてくる。出来なかったこと、あきらめていたことを、少しずつ確実に体が可能にしてくれていく喜び。 そうなると、大会で走ってみたくなる。間違っても上位入賞とかそういう野望はない。にわかランナーが目指すのは完走だ。走りきりたいのだ。大会参加者の一人として走りとおしたいのだ。スポ根が入道雲の如くむくむくと湧き上がってくる。こういう時に、待ってましたとばかりに両手を開いて待ち構えてくれているツールがある。インターネットだ。 全国のランニング大会の情報があり、エントリー・参加費の支払いまでネット上で可能だ。先日、ランニング大会情報で、長野県・7月と検索し「小布施マラソン」や「おんたけウルトラレース100km」など10ほどの大会の検索結果の中から、条件の合う「南信州アルプス松川ロードレース」10kmにエントリーした。7月20日(日)10:00スタート。初レース。きっと梅雨も明けた炎天の下、ゆがんだ顔であえいでいるだろう。しかし回らない頭の中で、きっと次の大会9月14日の「茅野縄文の里マラソン大会」に向けての練習方法をいろいろ思案していることと思う。走り出すと止まっていられない。頭は先をどんどんと走っていく。きっと、もっと、走れる。 でも、ここらで水分補給。 | |
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| ◆MLBの旅(07.6.10〜6.22)-その4 ◆江戸一 ◆08年07月01日 17:13 | |
V フィラデルフィアへ 2 フィラデルフィア・フィリーズ3X−0シカゴ・ホワイトソックス 思わぬ時間を浪費しましたが、試合開始30分ほど前に到着。出来上がって4年目の球場はシティズンズ・バンク・パークといいます。座席は三塁ベースのやや後方の前列で、4人分まとまって取れました。ここはファウルボールが捕れる率がいいので人気があります。この球場だけはインターネットを通じてチケットそのものを自宅のプリンターで印刷することができ、ウィルコールでの引き換え手続きは要りません。同じMLB.COMが関与しながらチームによってやり方が違うのは不可解ですが、やがてこの方式に統一されることになるでしょう。 ゲームは地元フィリーズが井口のいるホワイトソックスを迎え撃つインターリーグ、三連戦の初戦。フィリーズの監督はヤクルトなどで活躍したチャーリー・マニエルです。今期、極度の打撃不振のシカゴはこの日も元気なく、フィリーズの5番手のイートンに4安打無得点。緊張感をもたらす場面を一度も作れませんでした。その中で井口は辛くも1安打で私たちに報いてくれました。フィリーズ打線も不活発ながらバレル、ハワード、ロリンズが各ソロホーマーで3点。凡戦でした。 「松井秀樹程度の選手はザラにいる」と前に述べましたが、今日の2チームだけでもホームランを打った3人をはじめ、シカゴのトーミ、コネルコなど、この時点では松井と同等以上の成績を上げています。フィリーズのロワンドやアトリーも加えていいかもしれません。 余談ですが、球場で求めたスコアカードの中に “Newsy Notes” という紙ペラが入っていて、この両チームの関わりが次のように書かれていました。 「3年前に両チームがインターリーグで対戦したとき、トーミは4本、ロワンドは2本のホームランを打ち合った。当時、トーミはフィラデルフィアに、ロワンドはシカゴに所属していた。2005年末、両選手は交換トレードされたので、今年はユニフォームを変えて戦うことになる。あのシリーズでは両チームの総得点が65点、ホームランが22本という大乱戦だったが、今年はどうか。」 答はその後の三日間で出たわけですが、本日の3−0に続いてフィリーズが3−0、7―3、8―4で3連勝、号外が出るような突飛なことは起きませんでした。先ほど松井との比較で引き合いに出したコネルコ、アトリー、ロワンドがそつなくホームランを放っており、トーミもそこそこの活躍。一方、井口は第2戦も全く振るわず、第3戦はベンチに下げられてしまったようです。 “Newsy Notes” をここに取り上げたもう一つの理由はトレードです。両チームの間でトーミ、ロワンドの取引が成功しているわけですが、今年はフィリーズが昨年のホワイトソックスのエース、フレディ・ガルシアを獲得しています。このトレードが成立したとき、監督のマニエルは欣喜雀躍したとのこと。両チーム間のトレードは相性がいいのでしょう。そこでわが「井口」です。 井口はこの後間もなくフィリーズにトレードされることになるのですが、フィリーズが獲得した目的は、周知のことですが怪我をした二塁手アトリーの代役としてアトリーが回復するまで、期間限定で使おうということです。私はチェース・アトリーのことは今日まで知りませんでしたが、専門誌(Athlon Sports)によるとハワードとともに同チームの看板選手で、今年の成績も同じ二塁手として比較して、井口が勝てる項目はほとんどありません(三振数が幾分少ない程度で、他は圧倒的に負け)。井口の力が落ちたとは思えませんが、運も含めてMLBで生きていくのはたいへんなことなのでしょう。トレード成功の伝統を引き継いで活躍してほしいものです。 フィリーズはこの時点では勝率5割の水準でしたが、後半がんばってナショナルリーグ東地区を制覇しました。今年は日本人選手がアメリカンリーグに集中しているため、日本ではナ・リーグの情報が乏しく、私もフィリーズについてはよく知りませんが、先ほど名前を挙げたハワードは昨年のMVP、今年はロリンズと2年連続でリーグのMVPを独占したのですから看過できません。井口を凌ぐアトリーなど、大物選手がそろっているようですから、今後も注目したいものです。 この野球場の名物フードはチーズステーキとフレッツエル。チーズステーキは相当のボリュームですがなかなかの美味。気に入りました。Kと私はすぐに買えたのですが、ちょっとしたタイミングの違いでM氏は長蛇の列に並ぶ羽目に。M氏の感想。「ボリュームがあり、美味しいが、やや油っぽくて年寄り向きではないところもあるね。さすがに全部は無理だったよ。」それにしてもこちらのお嬢さん方はよく食べますね。これでは何とか症候群もやむをえないでしょう。 来るときは地下鉄で苦労したので帰りはタクシー。ものの10分程度でホテルに帰着しました。 | |
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| ◆MLBの旅(07.6.10〜6.22)-その3 ◆江戸一 ◆08年06月25日 13:59 | |
| V フィラデルフィアへ 1 歴史の街、フィラデルフィア MLB観戦旅行では毎回、旅程の一部にアムトラックを利用しています。今回はニューヨークからフィラデルフィアまでが列車の旅です。インターネットで購入した予約券は昨日朝、正規のチケットに交換済みです。 9:30にペンステーションを出て距離にして91マイル、1時間20分でフィラデルフィアの30番街駅に到着します。ボストンとワシントンDCとを結ぶアセラ特急の一部の区間を日本の「こだま」に乗った雰囲気です。 フィラデルフィアは、アメリカ合衆国の建国の舞台となった歴史の街。野球見物もさることながら、観光も重要目的の一つです。 駅からホテルまでタクシーで30分ほど。ホテルは「インディペンデンス国立歴史公園」の近くの“Holiday Inn Historic”。観光にはこのうえなく便利、ボールパークへも地下鉄を乗り継げば容易に行ける(はず)でした。 ホテルに荷物を預けて、早速近くにあるインディペンデントビジターセンターに出かけます。午後の観光の段取りをし、ついでにアメリカ史に関するフィルム2本を見て、中華街の一角で昼食を済ませます。 午後は「トロリー・ワークス」という、開放型の小型トロリーによる市内全般の観光です。 ガイドは恰幅のいいアフリカンアメリカンの男性。大きなペットボトルの水を飲みのみ大きな声で説明してくれます。旧市街から中華街、市庁舎を通って北西端の動物園を巡り、市中に戻る2時間弱のツアーですが、これで概ね町の概要はつかめました。 ベッツィー・ロス(合衆国の最初の国旗を縫った女性)の家、エルフレス小径(アメリカ最古の住宅街)はホテルのすぐそばで、散策する予定でしたが、トロリーからの眺めで代替。 4時過ぎ、ホテルに帰りついたとたんに雨が降り出しました。だんだんひどくなり、野球場への出発予定時刻にはまさに篠突く雨。今日もボールパークはドームではないし、ついに試合中止の憂き目に会うかとあきらめかけていたところ、幾分小降りになってきたので地下鉄の駅に向かいました。 地図によると、この駅から西方面行きで「シティーホール駅」まで乗り、ここで南方面行きに乗り換えるようになっています。ところが電車は当該駅を通過して先に行ってしまいます。急行にでも乗ったかと思ってバックしましたが、どうなっているのか事情がさっぱりつかめません。事実は、西行きの地下鉄には「シティーホール」という名の駅は存在せず、一つ前または後の駅で降りて徒歩で南行きの駅に行く、というシステムだったらしいのです。チケットのシステムも理解できず、駅員がブースから出てきて親切に説明してくれたりする場面もありましたが、基本的な事実に無知であったり思い込みがあると、人間とは次の判断が全くできないものだという、当たり前のことを改めて思い知った次第です。 | |
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| ◆東京近在便り 〜その三〜 ◆谷口 ◆08年06月16日 15:49 | |
| 前回、四国の札所をいつか歩いてまわりたいと書いたら、面白い本がありますよと教えてくれた人がいる。『四国遍路』辰濃和男著/岩波新書。さっそく手に入れて読んでみたが、これがほんとに面白い。著者は1975〜88年まで朝日新聞の天声人語を担当されていた方で、四国遍路は二度目だという。一度目は40代の記者現役時代、そして二度目がこの本に書かれていることで、退職後の70歳にかけてである。もちろん「歩き遍路」で、6回に分けて延べ71日を要したという。40日前後で回る人が多い中、のんびりのようだが、それは奥の院や番外霊場まで足をのばしたり、なるべく旧道をまわられた事にもよる。早くまわることに何の意味もないし、せっかくならこんなふうに千四百キロをじっくりと歩きたいものだ。 海道を暮れて歩ける遍路ひとり 山口誓子 四国遍路のイメージはまさにこの句に凝縮されている。つい憧れてしまうのもこんな絵だ。 辰濃さんは四国の草木虫魚、その背後にある山河、山河の背後にひろがる乾坤、四国の「太古」、そういったものに誘われたとも書いておられる。また菅笠に書かれた「同行二人(どうぎょうににん)」、お大師さんが一緒という意味だが、それがどういうことなのか、からだで知ろうと歩き始めたという。 お遍路さんの金剛杖は墓にある卒塔婆を象徴している。野垂れ死んだら杖を卒塔婆がわりに立ててくれということ。杖には梵字で空、風、火、水、地と書かれている。宇宙そのもの。お遍路修行はポツンとひとり宇宙へと旅立つということ。 こんな面白い本も近頃めずらしい。むしろ「四国遍路」など自分にはまったく縁のない世界だ、と思っている方々にぜひおすすめする。Amazonなら古本で1円(送料別)。 歩き続けていく中で、長い年月に溜まった、見栄や虚栄やうぬぼれや手前勝手や自尊心やインチキや欺瞞や思い上がりやプライドや自負心や矜持や慢心やらの層が、一枚一枚と剥げ落ちていくのだろうか。そして最後には玉葱の皮の如く何もなくなってしまうものなのか。 なにはともあれ、いつか菜の花の咲く頃の四国遍路のために、少しずつ準備は進めていこうと思う。 今年は早い梅雨入りで、そろそろ梅干を漬ける準備にかからなくてはと思って去年のメモ帳を開く。最初の塩漬けが7月8日(日)となっている。ちょっと遅すぎる。メモを繰っていくとわかった。急な身内の入院、手術などもありぎりぎりで漬け込んでいたのだ。一年前のこともろくに覚えていない。日記といえるほどのものではないが、ちょっとした事を書き残したメモが役立つ。 そうこうしていると、昨夜千葉の契約農家から青梅が届いた。量はまだまだ足りないが、がぜんやる気になってくる。梅干、らっきょう、ジャム・果実酒。梅雨時というのは楽しみがいっぱいだ。 この季節、草木をみているとわかるがいっせいにぐんぐんと成長していく。実生のイチョウの木が一晩で10cmも伸びた。まさに大成長だ。今、草木のものを食べるということは、成長の証のようなものをいただくわけだから、申し訳ないしありがたいし、うまいわけだ。うまいといっても文字ではわからないだろうから実際に何か一つ作ってみよう。材料は旬の夏みかんの皮と砂糖。マーマレード作りだ。 @ 夏みかんをタワシでごしごし洗う。適当に食べて皮を集める。(3個分ほど) A 皮の内側の白い部分をスプーンでこそぎ取る。(白い部分が多いと苦くなる) B 皮を薄くスライスして小鍋に。1個分の実もタネを取って入れようか。水少々。 C 火にかける。蓋はしない。時々木ベラで混ぜる。 D 30分ほどして砂糖を入れる。丁寧に混ぜる。(砂糖はかなり大量、甘さをみながら) E 時々混ぜて、小1時間。また小1時間。 F さまして出来上がり。熱湯で殺菌して乾燥させた瓶に入れ替えて、ラベルを貼って完成。 トーストはもちろんのこと、ヨーグルトに入れてもうまい。どうぞ、ぜひ。 遠いたくらみにワクワクし、身近な事々にソワソワする。 「その中間の日々の営みは」と聞かれて、「おっと」と答える昨今。 | |
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| ◆MLBの旅(07.6.10〜6.22)-その2 ◆江戸一 ◆08年06月05日 14:41 | |
| 3 ヤンキースタディアムへ 翌6月10日、起床するとかなりの雨。過去2回、雨に降り込められたことはなかったのに、いよいよダメか、という空模様でしたが、次第に明るくなってきました。 まず5番街37丁目にあるヤンキース・クラブハウスに駆けつけ、11時の開店を待ってそれぞれに土産を調達、そのまま42丁目のグランドセントラル駅から地下鉄でヤンキースタディアムへ。 私たちの確保した席は「メインリザーブドMVP」と称するエリアで、ネット裏一階席の中段中央部分です。相手がピッツバーグ・パイレーツという人気度がトップのチームではありませんが、それにしても。、この価格でよくまあこれだけの席が取れたものです。 しかしこれにはそれなりの苦労もありました。ヤンキースタディアムの座席名称を頭に入れた上でインターネットアクセス開始ですが、初め、4人まとめて席を取ろうとすると全く座席がありません。2人でも同様、で1人にして“best available” と指定すると、この席があったのです。直ちに1枚を確定し、続いて残り3枚。同じ作業を4回繰り返し、やっとの思いで合計4枚が確保できました。この間約3時間。というのは入力項目がクレディットカード番号や住所氏名などは当然として、宿泊するホテルの住所名称まで入力する必要があるのです。私はタイピングのスピードがそう速くはありませんので、入力し終わると「タイムアウト」。また一からやり直しです。そんな作業を繰り返しながらも、最後の1枚をゲットしたときはほっとしました。したがって、座席は同じレベルですが場所は4人バラバラです。この作業は4月17日に行いましたが、もう少し遅かったら、この場所は取れなかったでしょう。 当初はアメリカのチケット業者とも折衝しましたが、返信に時間がかかっていつになるかわからない上に、価格は最低でも140ドル(外野席との境界に近い3階席)。ちなみに私たちの価格は諸経費を加えて77.10ドル。 4 ニューヨーク・ヤンキース13X−6ピッツバーグ・パイレーツ 6月10日13時5分、定刻にプレイボール。今日はインターリーグ、このカード三連戦の第二戦。昨日は話題のクレメンスが初登板してヤンキースが9対3で勝っています。 さて今日のゲーム、我々にとってのハイライトは松井の2安打でもA-Rod の2ホーマーでもなく、パイレーツ桑田の初登板です。2対5とリードされたパイレーツが4回表に集中打でヤンキースの先発クリッパードをノックアウトし逆転しますが、その裏A-Rod のスリーランで再逆転を許し、ヤンキース8対6のリードで迎えた5回の表です。シーソーゲームの打撃戦の中盤、ここで起用される中継ぎには重大な責任が課せられます。3Aから引き上げたばかりの桑田をここで投入したのには、チーム事情もあったでしょうが、ベテランへの信頼も期待されたのでしょう。 さてこの回、桑田はカブレラ、カイロ、ニエヴェスを討ち取ります。続く6回表も一、二番のデーモン、ジータを仕留めたまでは完璧でした。しかしここで三番アブリューに四球のあとA-Rodにこの日二本目の2ランを右翼席に持っていかれ、6対10とリードを広げられてしまいました。そのあと松井にも四球を与えましたが次のカノーを抑え、今日の桑田のデビューは終わりました。 試合が緊迫していたのはここまで。7回に登板したパイレーツのベイリスが乱調、一方ヤンキースはヘン、ビスカイーノ、プロクター、マイヤーズとつないで、結局13対6でヤンキースの地力の勝利となりました。 「桑田の怪我回復後の3Aインディアナポリスでの実績は、3試合4回2/3無失点。今回のヤンキース戦の直前に、クローザーのトーレスの故障者リスト入りに伴い、その枠で登録。パイレーツ121年の歴史における最初の日系選手」とUSA TODAY のSports Weekly は紹介しています。 「過去の栄光はともかく、昨年日本で全く実績のなかった選手が大リーグで通用するはずがない。それがともかくこうした舞台に出られたのだから、本人は満足だろうし、経歴にも箔がついた。今後再び登板する機会はないかもしれない。」 帰路、地下鉄内での私たちの雑談の最大公約数です。桑田ファンには失礼な表現があるかもしれませんが、個人の考えですからそこはご容赦を。結果からすると当った部分もあるしそうでないところもありますが、ともかく「メジャーの選手としては戦力外」との結論は出ました。今後の同選手の活躍を期待するのみです。 5 メディアの評価は? 松井も今日は職責を果たしました。昨年の同僚チャコンから初回、走者二人を一掃する左中間二塁打、三回にもセンター左への単打をつなぎ、追加点の因を作りました。十分な活躍です。 しかし気になるところもあります。「トーリ監督の信任が厚い」等々、日本のマスコミはこの手の話題をしきりと流します。それに間違いはないでしょう。何しろ入団以来ヤンキースの中軸を任されてきたのですから。では現地のメディアはどうか。残念ながら私たちの滞在中、USA TODAY は松井については一行も触れていません。球場で売っている「ヤンキースマガジン」7月号が、「2000本安打の達成でHall of Fame に相当する名球界入りした」と伝えているのみ。松井は旬の話題ではないようです。この時点で打率2割8分、本塁打6本、このあと私たちは8チームを見ましたが、この程度の選手は大リーグにはザラにいる、という印象を否めませんでした。(写真は松井の勇姿 観戦席から K氏提供) 桑田・松井と日本人ならではの感想をつづりましたが、客観的に見ればこのゲームの主役はA-Rod ことアレックス・ロドリゲスです。ホームラン2本に2四球で4得点5打点ですから、言うことはありません。帰国後M氏から寄せられた感想「ヤンキースタディアムで最も印象に残ったのは、レフトスタンドとライトスタンドへ2本のホームランを放ったロドリゲス。年間ホームラン王、打点王を獲得し、MLB最高年俸を更新した男の強打振りをタイミング良く見られたこと。」まさにこのゲームの真髄はこれに尽きるといっていいでしょう。 もう一つ、USA TODAY Sports Weekly の6月13〜19日号におもしろいアンケートが載っていましたので、その一部をご紹介しましょう。 「君(がオーナー)ならヤンキースをどうてこ入れする?」と題して、「ヤンキースは序盤の泥沼から這い上がり、勝率をやっと5割近くまで戻してきたが、もう一度スランプに陥ったら、@ GM(キャッシュマン)、監督(トーリ)を馘首するか? AA-Rodはチームを去るべきか? B選手のトレードは?」 などと4人の同社の記者に尋ねています。 @、Aの答えはおおむね“NO!“ですが、Bがおもしろい。34,5歳以上のベテランを放出せよ、というのが共通の論調で、具体的に3人以上がアブリュー、デーモン、ジオンビの放出を主張し、ポサーダ、リベラすらもFA前に何とかすべし論が2名、といった按配。 松井の名を上げたのは一人だけだったのにはほっとしました。あと、投手陣の放出候補では、ムッシーナ、リベラ、ファーンズワースと並んで井川の名があったのは名誉かご愛嬌か。 以上でヤンキース観戦の長い一日は終わりますが、おまけを一つ。 3回を終わったところで弁当を買いに売店に行きました。売り子はカラードの若者。つり銭を用意しながら尋ねてきました。 「どこから来たの?」 「Japan」 「どこのチームが贔屓?」 ここはヤンキースと答えざるを得ないでしょう。すると 「そうじゃなくて、日本ではどのチーム?」 どうせ知らないだろうと思って 「ソフトバンク」 と答えたところ、 「Oh, MATUNAKA!」 これにはびっくり。王監督のことも知っていました。 後ろに列ができたので、握手をして別れました。松中が米国でどれほど知られているのかわかりませんが、マニアだかおたくだか、妙なところに詳しい人もいるものです。「城島も井口もソフトバンクの出身だよ。」ぐらいのことを話してくればよかったとあとで思いましたが、そのときは浮かびませんでした。 ついでにおまけをもう一つ。 帰りの地下鉄のチケットカウンターの混雑を避けるため、帰りのチケットは往きの駅到着時に求めておくのが常識ですが、チケットの有効時間2時間という制度が導入されたとのことで、帰りの自動改札でストップを食ってしまいました。後ろに大勢並んでいるのでやむなくバーの下を潜り抜けましたが見事に見つかってしまい、買い直し。ただ、日本の水道橋のように人で埋まるほどの混雑はなく、ここでもアメリカのマイカー社会の一端を見た思いでした。2004年まではこんなことはありませんでした。今後地下鉄ご利用の方はご留意を!(To Be Continued) | |
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| ◆MLB観戦の旅(07.6.10〜6.22)-その1 ◆江戸一 ◆08年05月31日 07:43 | |
T プロローグ 「身体健全であれば、2年後にでもモントリオール、ボストン、フィラデルフィア、ボルチモア、フロリダ、と東海岸を縦断するMLB(メジャーリーグベースボール)の旅もあるかな、と思案しています。」 これは2004年6月に挙行した「第2次MLB観戦と地方都市観光の旅」の観戦記の末尾に書いた一文です。齢70を超え、身体健全度は少々落ちましたが、予告よりも1年遅れて今年(2007年)6月、場所も少し変わりましたが、ニューヨーク、フィラデルフィア、フロリダ、ヒューストン、アーリントン(テキサス)を歴訪してきました。 今回のきっかけは、年明けM氏から「メジャーリーグ観戦計画があるなら同道したい。」と持ちかけられたこと。早速共同計画者のKと相談し、実行に移すことに一決しました。 過去2回ともこの旅行は4人のパーティでしたが、この種の個人旅行には「4人」が実行面でも経費的にも都合がよく、今回もKの誘いに応じて海外旅行に通じたS氏が参加することとなり、4人そろって6月9日、ニューヨークに向けて出発する運びとなりました。 1 ボストンはあきらめる ボストン訪問は年来の希望であり、野球はもとより観光的にもぜひ一度は行ってみたいところです。ところがボストンレッドソックスの地元人気、フェンウェイパークの収容能力、それに最近の松坂人気も一役買ったか、4月はじめの時点でMLB公式サイトのチケットは完売です。地元の代理店にも当たってみましたが、外野の自由席が20,000円レベルの高値。雨でも降ったらそれっきり。 思い出しましたが、2000年のインディアンズがそうでした。年初に日程が決まった時点で公式サイトは売り切れたそうで、やむなく現地の代理店に電話し、苦戦しながらも何とかリーズナブルな価格で三塁側の内野席を手に入れることができました。中小都市でチームが強いと、こうした現象がよく起きるようです。 ボストン郊外のクーパースタウンというところに「野球の殿堂」があるので、ここと一般観光とフェンウェイパークツアーとを組み合わせるのも一案でしたが、肝心の生の野球がなくては・・・・・・、と言うことになり、ボストン訪問は来年以降に送ることとなりました。 2 旅の部品調達はインターネット ボストンをはずしてさてどこに行くか。ニューヨークのヤンキースタディアムはベースボールのメッカですからこれを加え、ボストンに代えて歴史の街フィラデルフィアを入れ、めったに行けそうもないフロリダ、NASAで有名なヒューストン、観光資源が魅力のアーリントンと順路に沿って野球の日程と照合してみると、概ね旅程も組めそうです。あとは野球のチケット、航空券、ホテルの予約との整合を取ることです。 3年ぶりにこのツアーの計画をしてみて、インターネットの利便性が格段に充実してきたことを感じました。 まず野球のチケット。MLB.COMという公式サイトにアクセスし、各チームのサイトで予約するのですが、従来は引換券が出てきてこれを現地の窓口(Will Callと言う)で正規の入場券に交歓するスタイルだったのが、今回は一部のチームでは入場券そのものが印刷できるのです。同じMLB.COMの傘下にありながら、チームによってやり方がさまざまなのはアメリカ的なのかそうでないのか。近いうちに入場券印刷方式に統一されるでしょう。 航空運賃については、アメリカの数都市を周遊する場合さまざまな割引制度があますが、その様態は複雑。航空会社によっても時期によっても異なり、航空会社を組み合わせると思わぬメリットが出たりします。素人には手に余りますので、基本的なルートや価格をインターネットで調べておいて、旅行会社に相談しました。航空運賃は3年前に比べて2倍程度上昇しているようです。 ホテルの予約が今回は思いのほか難航しました。特に難渋したのはフロリダとアーリントン(テキサス)。今回のホテルは野球の観戦に便利な立地にあることが前提条件ですが、この種の情報がまったく得られません。航空券を発注した会社(日本を代表する旅行会社の某支店)は、「当地には契約しているホテルは少ないし、野球場に近いか否かの情報はない。」と言って「あっぷるほてる」のURLを送ってきたのにはびっくり。勝手に探せと言わんばかりです。 で、海外旅行を得意とする大手に相談したところ、情報不足は同様でしたが系列の会社を動員して調べてくれ、当方の希望に遠からぬホテルが何とか確保できました。ニューヨークやサンフランシスコのことなら何でも知っている日本の旅行会社も、ちょっと地方に入ると情報も調査能力も乏しいのが実態のようです。 行程の途中に可能ならば列車(アムトラックなど)の利用をはさむようにしていますが、列車のチケットはインターネットのほうが旅行会社の半額以下で取得できます。今回はシニア割引もしっかり申請し、頂戴しましたが、旅行会社経由ではこうはいきません。 U ニューヨーク 1 ニューヨークへ向けて出発 6月9日(土)、17時50分発のアメリカン航空にて、出発。同日の同時刻(現地時間)にニューヨークにオンタイムで到着。ペンシルヴァニア駅のすぐ近くのホテルで一服して直ちに夕食に出かけます。 7番街を30分ほどぶらぶらと北上、目指すはセントラルパークの南、59番通りに面するスポーツバー“Mickey Mantle’s”。ヤンキースのスターだったミッキー・マントルのレストランです。金曜の夜なので混雑していると思いのほか適度に席があります。店内には数十台のテレビが備えられ、野球のみならず、各地のスポーツが中継されています。そういえば今日のデーゲームで、ヤンキースは鳴り物入りで加入したロジャー・クレメンスが初先発しているはず。「どうだった?」と係のおねーちゃんに聞いてみたけど、彼女、野球には興味がないみたい。 「パック旅行と違って、自分たちの好きなところで好きな食事ができるのがいいねえ。」 とK。満腹・満足して、明日の天気を心配しながら夜の5番街をホテルへと戻りました。 2 ホテルの治安は 私たちは朝まで熟睡しましたが、S氏の部屋で鍵のトラブルが起きていました。 S氏の話。 「鍵の具合がおかしい。フロントに依頼すると修理に来た男はハンマーで取り付け部分をぶち抜いてしまう。こんなことはよくあるのだと言う。修理はしないのでフロントに部屋の交換を頼むと明日手配すると言う。今晩をどう過ごせばいいんだ、と押し問答の結果、しぶしぶ交換に応じた。新しい部屋は新築部分らしく良かったが、時間はかかるし対応は悪いわで、睡眠どころじゃなかった。今日は皆さんと一緒に行動できるか心配でしたよ。」 S.さん、たいへんでしたね。しかしハンマーで簡単にとれてしまうような鍵では安心できません。それに夜中とはいえ日本では考えられない対応の悪さ。このホテル、高級とは言えませんが、アムトラックの駅へ歩いて行けるのが魅力だったのです。 | |
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| ◆東京近在便り 〜その二〜 ◆谷口 ◆08年05月10日 07:25 | |
| 連休は二日を早仕舞いにして、午後から4泊5日で四国をまわってきた。 東名、伊勢湾岸、東名阪、新名神、名神、中国、山陽と高速道路を乗り継ぎ、倉敷ジャンクションから瀬戸中央自動車道で瀬戸大橋を渡り四国坂出に未明に到着。泊。 三日は遅い朝飯を讃岐うどんにしようと、有名な某店を探し当てたのだが、時すでに遅しで売り切れ御免。仕方なく琴平に向かう道路脇のセルフのうどん屋さんで我慢、と入ったところがこれが旨い。さすがに本場。全体のレベルが高いのだ。お代わりにざるの大盛りを食べてしまう。四国には旨いものが多い。ここ3ヶ月で10kg絞った体のリバウンドが恐ろしい。金毘羅さんの本宮までの石段がちょうど腹ごなし。足に自信のない方は大笊に竹を渡したような簡易な駕篭に乗るようだ。両側で二人が担ぎカニの横歩きの如く一段一段と登っていく仕掛けだ。たまたま目の前でご婦人が乗ったのに出くわした。駕篭屋さんの二人は大汗。息が荒い。共に60年配か。格好もバラバラ。足も覚束ない。見ている方がはらはらする。 最近はちょっとした観光地には人力車が走っている。なかなか凛凛しい若者が梶棒を握っている。あれならまだましだが、金毘羅さんの駕篭屋はいただけない。商売上の権利の問題があるのかどうか知らないが、見ていてすがすがしくなるような駕篭屋さんでないと大変見苦しい。事故の補償もあるとは思えないし、はては雲助の末裔か。 高速を走り松山に。15:30。一草庵に飛び込む。ここは春・秋にそれぞれ3日間だけの公開。最終日の閉庵前にギリギリに間に合ったわけ。種田山頭火、終の棲家。寺の納屋を改造したささやかなもの。松山の俳句好きの方々が寄り集まっておられた。山頭火ここでの句『おちついて死ねさうな草萌ゆる』。 道後をまわって大街道の地元の居酒屋で夕食。鯛めし、じゃこ天、はぎの薄作りなどなど。酒は寿喜心。 4日は内子町。江戸、明治、大正の町並みが保存されている。軒の高さに落ち着く。芝居小屋「内子座」も見もの。じっくりと歩く。 たとえば高山や小布施と比べてみると、各段に内子がいい。いやらしさがないのだ。どうも最近の町おこしのようなものは、何かセンスらしきものを歴史の中に無理やりに押し込み、仕掛け人のような人が勝手に納得してはしゃいでいるような印象を受けるが、肝心なのは身の丈に合ったそのまま。そこに感動があるし、その感動が持続していく。持続していくことによって、また百年後に新たなものを生み出す。 大洲の臥龍山荘。『おはなはん』の町、といっても50代以上の人にしか分からないか。この町、すれ違う子供たちが、「こんにちは」と声をかけてくれる。ごく自然に。都会にはないものが残っている。山荘の不老庵で抹茶をご馳走になる。眼下に肱川。舟を浮かべたくなるような淵。秋が特にいいだろうな。 申し訳なくも大先輩の出身地宇和島の町を車から眺めただけで通過する。宿毛、四万十、須崎。須崎で鰹を食い、高知に向かう。 高知の宿に入れば飲んで喰って歌ってと思っていたのだが、予約がうまく通っていなくて、「このっ!」をなんとか飲み込み、それでも高知にはうんざりして(高知県の人すみません)徳島に向かう。山里に入ればいい旅館でもと思ったのが間違いで、ひたすら土佐中街道を走る。2時間、3時間、4時間。5時間、とっくに日付は変わっている。山中。狸も出る。その名も恐ろしい四足峠、通る車すれ違う車一台もない。真っ暗闇。未明、徳島着。途中で予約しておいたホテルに転がり込む。爆睡。 高知を素通りしたことで半日行程が早まった。まァありがたいか。 朝、阿波十郎兵衛屋敷で人形浄瑠璃を観劇後、鳴門市の坂東俘虜収容所の跡地に建つドイツ館へ。第一次世界大戦のさなか中国青島で捕虜になったドイツ人を収容したこの収容所の話は、心が爽やかになる。 うず潮を眺めながら大鳴門橋を渡り神戸元町へ。駐車場の兄ちゃんに紹介してもらった薄汚い焼肉屋で口笛が出るほどの最高の焼肉を喰う。飲む。高知のおかげでここで泊まり。 最終の6日は京都錦の市場にある「打田」で漬物を仕入れて高速に。新名神の信楽で一旦降りたぬきを見る。買うもの無し。ふたたび高速に乗り、渋滞もなく夜11時東京着。総距離2200km。 今、目をとじて浮かぶもの。途中幾人も見かけたお遍路さん。いつか歩いてまわりたい。と思う。 | |
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| ◆東京近在便り 〜その一〜 ◆谷口 ◆08年03月18日 16:49 | |
| 一週間経ってひどい筋肉痛がやっと治まって、みなさまには久しぶりにお便りいたします。 木瓜の蕾がほころんできました。11日にはウグイスの初鳴きを聞きました。 餌台には、メジロ、キジバト、ムクドリ、ヒヨドリ、スズメの常連の他に、シジュウカラ、キビタキなんかも顔を出し賑やかです。嘴が一番鋭いムクドリが中型ですがキジバトを押しのけ最優位のようです。それぞれつがいで来ています。餌台には穀類と果物を置いています。時々、脂身を置くとシジュウカラが大喜びです。 朝、近くの畑はもう桃色のホトケノザの花盛りでした。畑二枚ほどが桃色のじゅうたんのようでした。ジョギング中でじっくりと足を止めなかったのが悔やまれます。黄色の木の花はサンシュユ。これもあちこちに盛り。 走りながら思い出したのは、上方落語の『愛宕山』。東京でもやりますが、やはりお囃子のにぎやかな上方の方が陽気で合っているように思います。一場面。「野辺へかかってまいります。何しろ春先でございます、空にはヒバリがピーチクパーチクとさえずっていよォか、野には陽炎が燃えていよォかといぅ、遠山に霞がたなびィてレンゲ、タンポポの花盛り。麦が青々と伸びた中を菜種の花が彩っていよォといぅ本陽気。その中をやかましゅ〜言ゥてやって来る、その道中の陽ォ気なこと……」ここでお囃子がにぎやかに入ってきます。米朝がいいですね。 NHKの朝ドラ『ちりとてちん』で草若師匠役の渡瀬恒彦もこの噺をやってました。 まあそんな風で、東京近在国分寺も春本番花の季節到来黄色と桃色の世界です。 さて、筋肉痛というもの、うんと若い頃だとキツイ運動をした翌日には出たものでしたけれど、翌々日のまた翌日に腿の裏が痛くなったりと、筋肉もずいぶんと暢気になったようです。 九日の日曜日に初出場したクロスカントリースキー大会。たっぷりの雪。山はまだまだ冬です。5km完走はしたものの、息もたえだえ足腰は硬直し、さんざんのデビューでした。1600mの高地にあるコースは、大昔、東京オリンピックのマラソンで銅メダルを取った円谷栄吉選手がトレーニングをした場所。通常の生活では感じないですが、激しく動くと空気の薄さを感じ、すぐに息切れしてしまいます。東京で2ヶ月間集中してトレーニングを積み、6kg体重を落としての挑戦でしたけれど、付け焼刃のその場しのぎではやっぱり無残な敗北。スポーツは、わかっているけど不断の努力の積み重ねですね。 でも、静寂の落葉松林の中、白一色の世界、自分の呼吸音だけを耳に自然の起伏を滑走していく爽快さは、何にもたとえようがないです。どんなに辛くてもまたスタートラインに立って、合図の電子音を数え、呼吸を整えていると思います。クロスカントリースキーは40年間片思いに思い続けてきたスポーツですから。 1968年。フランスのグルノーブルであった冬季オリンピック。ジャン・クロード・キリーがアルペンの三冠王に輝いた大会。その大会の記録映画がクロード・ルルーシュ監督の『白い恋人たち』(原題は13 Jours en France) その映画の冒頭。広大な雪原。遠くでかすかな息遣い。だんだんとはっきり大きく。林の中から小さく聖火ランナーが見えてくる。近づいてくる。その顔。汗があごに凍り付いている。はく息が白い白い。もくもくとスキーを走らす。聖火ランナー。雪原。白一色。息遣い。映像にフランシス・レイの有名なテーマ曲がインしてくる。小さく小さく、そしてじょじょに大きく。鳥肌が立つ程感動しました。中学生でした。その時に初めて見た、斜面ではなく平地を滑っていくスキー。マラソンのようなスキー。孤高のスキーランナー。 あれから40年。今やっとこのスポーツに自分も仲間入り出来ました。これも偶然の出会いのおかげなのです。 1月のある日。蓼科の小屋から30分ほどの霧ケ峰スキー場へ行きました。クロスカントリーのコースがある本州では稀なスキー場。本場は北海道です。道具もすべて北海道から取り寄せます。この競技には平坦で広大な大地が必要なのです。そこでKさんに偶然に会いました。Kさんは斜面をスケートの要領で、スキー板を逆ハの字にして軽快に滑り登っていくのです。最初は奇跡を見る思いでした。スキーは滑り降りるものですから。その場で弟子入りしました。Kさんはマスターズの全国大会で一昨年、昨年と2連覇されています。今年も昨日あった猪苗代の大会に出場されています。3連覇がかかっている大会です。どうでしたか。まさに雲の上の人。出会いに感謝。 そんな、春と冬を行ったり来たりの日々を送っております。ちょっとサロンパス臭くなって。 | |
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| ◆中野坂上便り 〜その三十一(最終回)〜 ◆谷口 ◆08年02月21日 12:34 | |
| 一年を振り返るにはやや早い気もするが、この便りもこれが最終回ということで、そならよくあるパターン今年読んで心に残った本を10冊あげて、さよならすることにしう。 先に断っておくが新刊は一冊もない。もし列記した本に興味を持たれた方は、古本屋で手に入れるしか入手方法はない。もちろんお貸しすることはかまわないが、きっと自分の書棚の一冊として自分のペースで読まれるほうが、本の面白さを十分に味わえると思うので、早稲田辺りなり、神保町界隈なり、ご近所なりの古書店での入手をおすすめする。本屋の店頭にドンと平積みされた本や、書評に取り上げられるような本にはまったく食指が動かない。なぜか時間の経過に洗われた本にしか興味が湧かない。まあ年増贔屓ということだろうか。では順不同で。 『漱石の思い出』夏目鏡子口述/松岡譲筆録 文春文庫 明治の女というのは、江戸の女とも大正・昭和の女とも違った一種独特の雰囲気を持っている。祖祖母がそうだったな。子供心に漠然と偉い人と感じていた。明治男は明治女の手の平の上で髭をはやしてふんぞり返っていたのだろう。漱石先生然り。鏡子夫人あって文豪漱石あり。読めばますます漱石本が面白くなる一冊。 『小石川の家』 青木玉 講談社 文豪に縁のある人の本が続く。青木玉は幸田露伴の孫、幸田文の娘。その三代の物語。今の日本ではとおに死語になった「厳格」という言葉を思い出させてくれる。母(文)の気丈さに心打たれる。こんな家族があったのだ。あわせて青木玉の『幸田文の箪笥の引き出し』『帰りたかった家』も絶対におすすめ。 『寺島町奇譚』 滝田ゆう ちくま文庫 ごぞんじ「ぬけられます」の漫画。舞台は花街玉の井、昭和19年から20年3月10日の東京大空襲まで。少年キヨシの目を通して描かれる大人の世界、子供の世界、日常のあれやこれ。花街の客と女。作者の記憶の風景。路地の中の小宇宙。あわせて永井荷風『濹東奇譚』。 『辺境の食卓』 太田愛人 中公文庫 心が洗われ腹ペコになり森を目指したくなる。著者は信州の最北端、一茶が「これがまあ終の棲家か雪五尺」と詠んだ柏原にある信濃村伝道所の牧師さん。森を歩き湖で泳ぎ思索し詩作する。そして類い稀な料理人。森を食べる健康な食欲。さっそくその伝道所を訪ねたが、野菜を仕分けしていたおばさんが教えてくれた「太田先生がいらしたのは30年も前です」。これが古本読みの余得というもの。 『料理のお手本』辻嘉一 中公文庫 「素人が切れない包丁で作った刺身と、切れ味のよい包丁で冴えた腕で作られた刺身とでは、味に雲泥の差を生じます」。なるほどと買い込んだ堺の刺身包丁、実はまだ梱包も解いていない。嘉一さんすみません。この本、料理のあれこればかりでなく、「辻留」のはじまりの頃の話には人間の情がみえてほろりとなる。吉兆にはなるなよと思わずにはいられない。 『ファーブル植物記』 ファーブル 平凡社 昆虫記なら誰もが知っているが、原題が「薪の話」(1867年)というユニークな植物の話。 当時子供向きに書かれたもののようだが、140年後の大人にちょうどよい。ファーブルの他の著作と同様に読んでいてわくわくしてくる。次のページが待ち遠しい本。科学の面白さをファーブルはこの本でも教えてくれる。クリスマスプレゼントに最適な本。 『酒の肴・抱樽酒話』青木正児 岩波文庫 蘇東坡の漢詩が随所に出てくる。東坡はあの東坡肉(トンボウロウ/豚の角煮)の考案者で有名だが、北宋代最高の詩人であり何度か左遷された硬骨の政治家でもあった。時に東坡の口を借りながら、酒を愛し食いしん坊の中国文学者である著者が書いた味のあるエッセー。ズブロッカをちびちびとやりながら読み進みたい一冊。 『お能の見方』白洲正子 とんぼの本(新潮社) 「とんぼの本」シリーズにはずいぶんとお世話になった。幅広い視野、ビジュアルな構成で見て楽しく読んで納得。その中の一冊。「これを読んではじめて能がわかった」と正宗白鳥が言ったとか。たしかに能という特殊で縁遠いと感じていた世界が短時間でうっすらとわかり、今度能楽堂へ行ってみようかと思わせる、そんな本だ。趣味深い著者だ。亭主は最近評判の「風の男」白洲次郎。こんな日本人がいたのだ。こんな夫婦がいたのだ。 『圓生 好色ばなし』三遊亭圓生 朝日文庫 落語は本来聴くもの見るものだが、読むのもこれはこれで十分に面白い。同感の人も多いと見えて古本屋にもこの手の本がずいぶんと並んでいる。ブツブツと言いながら読んでいるわけではないのだが、知らず噺家さんの口調になって読んでいたりする。昭和の名人達を実際にラジオ・テレビで聴いたことのある最後の世代に間に合ったことを親に感謝する。 『京都故事物語』奈良本辰也 河出書房新社 “東男に都の女郎、いきと情けを一つに寄せて、色で丸めた恋の山、傍で見るさへ憎らしい” 浄瑠璃「神霊矢口渡」の一節。東男に京女といった意味の文献に出てくる最初のものだそうだ(1770年)。作者は福内鬼外(ふくうちきがい)。この時代こんなペンネームをつける男は誰あろうあの源内先生。これは第三章の「京のおんなとことば」の最初の話に出てくる。京にまつわる話のあれこれ、枕元の本として最適。 迷ったが以上10冊。 こんな便りに長い間のお付き合いを感謝いたします。 また形を変えてお会いできればと思いますが。 さあて | |
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| ◆高邁なる会話 ◆コスミ ◆08年02月10日 22:07 | |
| 八「オウ 熊さんじゃないか。ひさしぶり。 熊「ヤア 八ッァン、変りないかい。 八「このごろ見ないうち腹が出てきたナ、だいぶ羽振りがいいとみえるナ。それとも例のメタボリなんとかいうやつか。 熊「ところがそうじゃないんだ。八ッァンだからいうが、とんだ大笑いサ。 八「どういうわけだ。 熊「先日、電車に乗ろうと駅の改札を出ようとしたと思いねェ。 八「ン。 熊「生憎急いでいたもんだから右の足は右の改札口、左の足は左の改札口を通ってしまったわけヨ。 八「 そいつァえれェこった。 熊「そいでヘソから下が分かれちゃって不便でならねェ。腰に晒しをたっぷり巻き付けてねえと歩くこともできねえんだ。 八「そりゃあ難儀なこった。おめえは昔からそそっかしいからな。 熊「イヤ面目ねえ。 八「そそっかしいといえば。うちのかかアのことだがな。 熊「あァ アノ太った・・・イヤどうかしたかい。 八「やっぱりおめェと同じように駅の改札口を出ようとしてさ。 熊「股を裂いたかい。 八「イヤそうじゃない。今あるだろう、あのカボチャとかキュウリとかいうやつが。 熊「アア スイカというカードのことか。 八「ああそれそれ、そいつを間違えて銀行のカードをだしてしまったわけさ。 熊「それじゃドアがバタン、通れなかっただろう。 八「ところがかかあのヤツ、あわててたもんで無理矢理通ろうとしてドアにはさまれてしまった。 熊「ドアは・・・ウウンかみさんは大丈夫だったかい。 八「いや挟まれたまんま動きがとれなくなっちまった。それから3日、オレもほっとくわけにゃいけねェや。 熊「そりゃそうだ。 八「毎朝毎晩、改札口へ駅弁やハンバーガーを配達したもんだ。 熊「ご苦労なこって。いまもかい。 八「ところがよくしたもんで、かかあのヤツ毎日改札を通る客にジロジロ見られるだろう。さすがに恥ずかしくて痩せる思いというやつさ。おかげで今朝すっぽりと抜け出した。 熊「痩せたかい。まあいいこともあるもんだな。 八「ところで熊、おめェこのごろメッキリパソコンの碁の腕を上げたってうわさじゃないか。 熊「イヤ八ッァンの前だけどネ。それがチットも面白くねェんだナ。 八「どうして。 熊「実はこないだから機械のぐあいがわるくなって、あのマウスってやつがうまく動かねェ。そこでオレもかんがえた。マウスってネズミのことだろう。 八「そうだな。 熊「そいでもって、ウチの小僧が飼っているモルモットとかいうネズミをちょっと借りて、シッポにつないでやってみた。 八「そりゃ無理というもんだ。 熊「ところがドッコイ馬のケツ、うまく動いた。こりゃシメコのウサギとしばらく使っているうちどうも具合がよくない。 八「死んじまったか。 熊「いやそうじゃない。ネズミのヤツ生意気にも碁をだんだん覚えてきたらしい。オレの考えを無視して勝手に動いて歯をカチカチっとクリックしやがるんだ。 八「へェ、そんなことがあるのかい。 熊「それがまた実にうまい手を打つもんで感心してしまう。 八「そいつァもうけもんだ。 熊「チットもおもしろくねェ。 八「ハハハ・・・。それじゃゲンなおしにあそこの赤提灯でイッパイやってくか。 熊「そうさね、かみさんの健康を祝してといくか。 八「オイ足の運びがチョッと頼りないな。 熊「まあいいってことよ。 | |
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| ◆<食い物二題> ◆伊藤 ◆08年02月05日 18:24 | |
●スウィーティ スウィーティとは、イスラエル産の柑橘類の一種である。外見は、八朔の外皮の色を緑色にしたような感じであるが、中の果実は八朔より淡泊で上品な味がする。最近、スーパーで売られるようになり、値段も手頃なので、時々買っては食しているが、次第に自分の好物となりつつある。 ところが困ったことにこのスウィーティを買って食べようとすると、どうしても二つのことがひっかかって単純には楽しめないのである。 ひとつはフードマイレージのことである。他に国産の美味な果物がいっぱいあるというのに、どうしてはるばるイスラエルから運ばれてきた果物を食べなければならないのだろうか、という問題である。 もう一つ気がかりなことは、これは、占領地からパレスチナ人を追い出した後に入植したイスラエル人が作ったものではないかという疑いであり、もしそうであるならばこの果物にはパレスチナ難民の呪いが乗り移っているのではないかという恐れである。 スウィーティを食うべきか食わざるべきか、それが問題なのだ。悩みは深まるばかりだ。 ●鯨肉 昔は鯨肉をよく食べたものである。給食のカレーに入っていたり、夕食のおかずとして唐揚げなどにして出たことが思い出される。戦後の食糧難の時代には、鯨肉は代用肉として身近な存在であったが、国民の食生活が豊かになるににつれていつしか遠い存在になってしまった。私は、鯨肉を牛肉その他の肉類よりおいしいと思ったことは一度もないし、他の食べ物が自由に食べられるようになって以来、鯨肉を食べたいと思ったこともない。それは、少年時代にサツマイモばかり食べさせられた私のような人間が、大人になってからサツマイモに拒否反応を示すのと同じ偏見かもしれないのだが。 しかし、鯨肉が本当に美味なら戦後あんなにお世話になりながら、世の中が豊かになったからといって見向きもされず家庭の食卓からほとんど姿を消してしまうということはなかったであろう。やはり鯨肉は鯨肉であり、それほどうまい食べ物ではないのだ。 今、南極海における日本の調査捕鯨が話題になっているが、反捕鯨団体のメンバーに乗り移られた捕鯨母船の日新丸という名前は私にとっては懐かしい名前である。少年向けの新聞雑誌などには、時々捕鯨のやり方の紹介や、捕鯨船団の出発記事などがでており、"図南丸"、"日新丸"といった捕鯨母船の名前を覚えている子供も大勢いた。 そして私が入社したての頃、昼休みに構内を散歩していたら、何と子供の頃に名前を覚えたあの日新丸が会社の岸壁に繋留されているではないか。私は早速、この修繕待ちの捕鯨母船に一人で勝手に入り込み、船内をくまなく見てまわった。そこで目についたのは、ブリッジの下の、解体作業甲板に面して設けられた立派な風呂場であった。 寒風吹きすさぶ荒れた南極海上での過酷ですさまじい鯨の解体作業を長期間続ける人たちにとって、唯一の楽しみは入浴以外にはなかったのではなかろうか。 それから40年以上の月日が流れ、時代も環境も大きく変わったが、日本は依然として南極海で捕鯨を続けている。調査捕鯨という名目で、一年に1000頭以上の鯨を捕獲し屠殺しているとのことである。かっては盛んに捕鯨をやっていた国も含めて世界の大半の国が捕鯨に反対している中、その反対を押し切ってまで捕鯨を続ける真の理由はいったい何なのか、私には今ひとつよくわからない。 捕鯨が日本国民の飢えを満たすためには必要不可欠な重要産業であるという理由は過去のものとなっている。捕鯨は日本の食文化を守るためにおこなっているという理由は、土佐湾は潮岬沖の伝統的な捕鯨ならいざしらず、南極捕鯨をやる理由とはなりがたい。残る理由としては、漁業資源の保護のために捕鯨はどうしても必要なものであると か、公海上の自由な商業活動を妨害されない権利は何物にも代え難い崇高なものであるというようなことぐらいしか考えられないであろう。 それが本当に正しいのであれば、それを正々堂々と主張して各国の理解を得るように努力すればいい。 しかし、単なる惰性、面子、天下り先の確保が本当の理由ならば、捕鯨からさっさと撤退すべきであり、その方がよほど国益にかなうと思われる。政府は海洋資源の保護という観点からのみ捕鯨問題に関与すべきであり、現状のごとく政府(特殊法人)自らが手を下して捕鯨事業をおこなう必要性はないと思われる。鯨はマグロと同様に民間業者の自由競争裡において味覚と価格と需要を競い合えばいいのではなかろうか。(伊藤) | |
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| ◆中野坂上便り 〜その三十〜 ◆谷口 ◆08年01月31日 13:47 | |
| 小鯵1パック8匹入って130円也。小鰺といっても12cm位はあるから、2パック買えばかなりの量だ。銀色鮮やか、身も締まって弾けそう。目付きもしっかりしている。たたきにして生姜で食べてもいいが、小鰺とくればここはオーソドックスに、から揚げにして南蛮漬けといこう。そうすれば一緒に、血液サラサラ効果の玉葱のスライスが山ほど食べられる。もちろん酢は身体にいい。それに骨ごと食べればカルシウム満点だ。 と、ここまで書いて何かさみしいものを感じる。いささか病弱志向。本来食べ物は健康のために食べるのではない。旨そうだから、旨いから食べる。身体と頭と心が欲するから食べる。太古からそうだった。健康云々栄養云々は何か次元が違う話。健康情報、栄養知識を持たない野性動物はいたって元気なものだ。 牧羊子さんが書いている。「テキは栄養学を目のかたきにしておりまして、ものはうまければそれでよいと頑固にいい張って、人の話に耳をかたむけないばかりか、うっかり、これは目によくきくのよ、などといってギンナンを出そうものなら、日ごろの好物にたちまち箸をつけず、そっぽをむいてしまいます。」テキとはご亭主の開高健。さすが開高大人。 鯵の南蛮漬けを食べたい、だから鯵を買い物カゴに入れる。 たまの料理。頭と尻尾を切り落とし、腹を開きワタを出す。軽く塩、わずかに胡椒をして小麦粉。カラリと揚げて、唐辛子酢にジュと入れる。玉葱スライスにピーマンも混ぜる。ほどよく味をなじます・・・ 兵庫の西宮に『播半』という料理屋があった。大正2年(1927年)創業の関西では屈指の料亭で、関西財界人や文化人の交流の場でもあった。昭和天皇も宿泊されたという。が、何よりここの名を人口に膾炙したのは、谷崎潤一郎の小説『細雪』の一節だろう。「芝居は鴈治郎、料理は播半・・・」。残念なことにその老舗料亭も一昨年廃業した。広大な跡地は山を削り谷を埋め、樹木を伐採してマンションになるという。ただ住民の反対運動もあり、わずかに建物の一部は西宮市の手で移築・保存されるらしい。この料亭の80年の歴史の最後の料理長が、西宮駅近くに『立峰』という料理屋を営んでいる。老舗の味は受け継がれているということか。西下した折にはぜひ立ち寄ってみたい。 戦前、その『播半』の板場で母方の祖父が立ち働いていた。祖父が料理し、『播半』で当時用いていた北大路魯山人の器に盛り付けたものが、谷崎の舌にのったのかもしれない。 無口な祖父だった。料理人を引退して何年も経っていたのだろう。家に来ても、ただ裏山を眺めてじっとしていた。一日居ても話すのは二言三言。冬でも桐の下駄を履いていた。遊びに行ったら、炭火を熾し胡麻を丁寧に煎っていた。食べ物の記憶は出汁巻玉子。5才の子に美味しいはずはない。ただその味ははっきりと今も舌に残っている。『播半』の味かもしれない。祖父の包丁一本の人生。孫の目からは近寄りがたく孤高だった。せめて砥石のひとつも形見に残して欲しかったと思う。 料理は献立だから、その一品がいかに完璧でも面白くはない。何品かあり、見た目のバランスも味のバランスも、また箸休めのような強弱も重要になってくる。これは家庭でも同じことだ。居酒屋でひとり飲む時も気になる。家では盛り付ける器も気になる。たとえば、胡瓜と大根の糠漬けを盛り付けるとき。白っぽい器だと、せっかくの大根の白が死ぬし、濃い色だと胡瓜の鮮やかな緑が死ぬ。包丁で切りながら器も考える。料理する面白さはそんなところにも十分にある。 鯵も少し大振りなら塩焼きが旨い。焼き上がったら酢をわずかに。鮎に蓼酢が付き物のように、焼き魚には酢が合う。手前味噌になるが、酢は故郷宮津の栗田にある飯尾醸造の物が天下一だ。紀伊国屋にも置いてある。インターネットでも買えると思う。焼き魚の味が数段上がる。 さて、鯵の南蛮漬けには何を取り合わせるか。ベーコンでしし唐を炒めたものと冷奴に茗荷、これに胡瓜と茄子の糠漬けがあれば上等か。色味もいい。 店頭の小鯵から祖父へと思いが駆ける。人偲び物思う季節。燗酒。ほんとすっかり秋。 | |
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| ◆中野坂上便り 〜その二十九〜 ◆谷口 一 ◆08年01月11日 14:44 | |
| 秋の彼岸。「歩き」好きにとって忘れてはならない二人の先人がいる。この二人まったくタイプが違う。生きた時代も百数十年の隔たりがある。両者に共通したことと言えば、それぞれ当時としてはかなりの長命であったことぐらいか。歩即健。手を合わせておかなければならない。 一人は伊能忠敬、今一人は永井荷風である。 この二人の一番の違いは歩くエリアで、かたや国土全般を踏破し、もう一方は路地を横へ奥へと辿った。測量という公的な事業と、まったく私的趣味的な散策。両極端の二人ではあるが、両者に憧れの気持ちを強く持つご同輩も多いと思う。 伊能忠敬の墓は上野の源空寺にある。浅草に向かう大通りから150mほど入った所。墓地は寺の本堂と道を隔ててある。かんぬきをした鉄柵があるが、錠はかかっていないから、かんぬきを抜いて中へ入ればよい。まっすぐに5mも行けば左に忠敬の墓がある。師の高橋至時、その子景保の墓も仲良く並んでいる。まことにこじんまりとした墓地だ。 五十で隠居してから、日本地図作成という偉業を果たしたのは、第二の人生というよりまったく別の人生を生き直した感がある。二度生きた人といえそうだ。歩測と目測でよくあれほど精緻な地図が出来たものだ。四千万歩の一歩一歩を無駄にせず積み上げた男。あっぱれ。 ただその地図があまりに完璧なものであったため、国家機密持ち出しという「シーボルト事件」が起こり、師の子高橋景保は囚われて獄死している。胡散臭いシーボルトにしてやられたということか。忠敬にとってせめてもの救いは、彼の死後の事件であったこと。 三人の墓前からさて帰ろうと立ち上がり、ふと、目は並びの手前に意外な人の墓石を発見する。 「お若ぃの、お待ちなせぇ」の江戸の町奴、播髄院長兵衛の墓である。実在の人物だったのだ。 旗本の水野十郎左衛門のだまし討ちに遭い、風呂場で槍で討たれた話は、子供の時に映画か何かで見た記憶があるが、物語の中だけの人物ではなかったのだ。町歩き、墓歩きはこういう発見がまた面白い。墓というのは時間が止まった世界だから、古今の人が仲良く並んで佇んでいるわけで、何かしら微笑ましくなることもあり、また逆にこの人とこの人がと、空恐ろしくなることもある。 | |
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| ◆中野坂上便り 〜 その二十八 〜 ◆谷口 一 ◆07年12月05日 10:46 | |
| 評判の本は、買わない読まない。 評判の期間は極めて短く、本当に評判に値するものかどうかも疑わしい。追っかけぽくって性にも合わない。書評も読まない。誰かの書いた本の感想を読むほどつまらないことはない。ただ目に留まった本の、書名と著者名と出版社名はしっかりと見ておく。まあ、そこだけ見ただけで、「こいつ面白いかも知れんぞ」と思うものもあるし、「私結構いけるわよ」なんて迫ってくる本もある。縁あればいつか読む機会があるかなとは思うが、そこはそれまで。出た直ぐは決して買わない。 本屋の奥の方の棚の間をゆっくり歩いていると、「はいこっち、私、わたしよ」と主張してくる背表紙が時々ある。「ぼくに言っているの」と手に取ると、確かに面白そうだし、今、読みたい、ぴったりの本であったりする。著者や編集者の思い入れがぎっしりと詰まっていて、背表紙からあふれ出し、本に合いそうなそれらしき、気の弱そうな人を呼び止めるのかもしれない。あの『おいてけ堀』の「おいてけェ〜」と近似の、願望の怨念が作る妖怪の一種かもしれない。だから、本のあるところで耳を澄ましておれば、それらの手助けでいい本にめぐり合えることもある。 だが、いつか読もうと思って記憶しておいた書名の数々も、日々の出版の洪水の中に埋もれ押されて巻き込まれ、瞬く間にかき消されてしまう。そしてついには記憶の大海の深く深くに沈みこんでいき、闇に沈殿し、その層を形成していく。たまたま読書家のアンコウが奇特にも記憶の海底でその本に遭遇し、己の提灯を点けて読んでくれるかもしれないが、当方には記憶した99%の書籍が縁もゆかりもなかったものになる。しかしだ。100冊中1冊位はまことに幸運にも再会を果たすことがある。ただそれも、たいがいは書名を見てから、早くて5年、ふつう10年ほど後、古本の流通都合上もあり、かなりの年月を経てからになるのであるが。 青木玉『小石川の家』も、そんな中で幸運にも再会を果たした1冊だった。 早稲田の古本屋の店頭の100円本コーナーに、ドサッと置かれた本の山の中に見つけた。というより、例の如く声をかけられた感じ。表紙絵は安野光雅の小石川善光寺坂の大椋の木、その緑と緑影の上に幸田露伴愛用の用箋が刷り込んである。その8行の用箋の中2行の上方を使って、書名小石川の家と青木玉の名。奥付は1994年8月25日。これは!と思ってから、こうやって手にとるまでに13年がたっている。しかし、この13年の経過が、この本をより面白く読ませてくれるにちがいない、とも思える。空腹が最良の調味料であるが如く、時間の経過が社会的・個人的諸事万端で、感動の度合いをより深めてくれることはままあるのだから。 早稲田の古本屋で手に入れた後、神楽坂まで歩き、駆け込むように入った喫茶店の片隅で一気に読み終えた。そして、神楽坂にいることを幸いに、目白通りを大曲まで歩き、白鳥橋を渡り、安藤坂を登り、伝通院から善光寺坂を下りていった。その坂途中、道の真ん中にあの大椋の木。幸田露伴が、娘の幸田文が、孫の青木玉が馴染んだ椋の木が、そこに立っていた。 二階の露伴の書斎に座れば、その椋の木の枝に座っているような気がしたという。ガラス戸を開ければその枝先にさわれそうだったという。その木がここにある。 関東大震災で向島からこの地に越し、暮らした露伴一家。その三代の物語が『小石川の家』には書き込まれている。 椋の木はだいぶ弱ってきているようだ。この東京でよくもまあ、道の真ん中でこの木は生きてきたものだ。空襲にもあい、幸田家が焼け落ちるのを見届けただろうに。よく立ち残ったものだ。 坂を下った。下れば春日、菊坂を上り、本郷通りを赤門へ、病院脇を抜け、無縁坂を下り不忍池、上野浅草白髭橋から向島蝸牛庵跡(露伴公園)。一気に歩いた。幸田文はここで生まれ育った。 一冊の本に、じっとしていられないほどの気持ちの昂ぶりを覚えた。本好きでよかった。 帰り道、言問橋で日が暮れた。 | |
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| ◆中野坂上便り 〜 その二十七 〜 ◆谷口 ◆07年10月19日 15:27 | |
| 『傘亭』のことも書いておこう。JR高田馬場駅から早稲田通りを小滝橋方面に十分ほど歩く。小滝橋交差点の手前100m程の右側にある。見落としそうな小粋な店だ。 中野坂上の事務所からだと、大久保通りに出て、山手通りを越え、さらに歩いて神田川に当たる。川端の遊歩道を十分もたどれば小滝橋。早稲田通りを少し上がれば着く。二十五分ほどの距離か。 『傘亭』は蕎麦屋というのか飲み屋というのか。そのへんは客の判断だろう。昼前から通しで営業しているのがありがたい。酒も肴も蕎麦も旨い。旨い肴で酒を飲み、最後は蕎麦で締めくくる。ここ一軒で酒飲みの起承転結が可能。月一度ほどのありがたい店。 ここはうどんがまた旨い。おろし生姜ですする。その喉越しは格別。夏はうどんもいい。細く腰のある半透明の、ここだけのものである。 かって長坂の『翁』が東京の南長崎にあった頃、うどんも出していた時期がある。旨い蕎麦が打てれば、当然旨いうどんも打てるということ。 『傘亭』は入りづらい店のように書いてあるものをよく見るが、さてどうだろう。こういったことも人それぞれの取りようだろうが。初めての店というのは、誰だって入りづらいし、店前で躊躇することなど毎度である。 飲食屋には大きく分けて「乾杯系」と「一人で系」があり、「乾杯系」の店だと、数人でわっと入れるから何でもないのだけれど、『傘亭』などは「一人で系」の最右翼の店だから、やっぱり躊躇する気持ちは強いかもしれない。ただ、エイッと入ってしまえばこっちのもので、座ればきょろきょろしないで、まず酒を頼む。つまり自分のペースに早く入ってしまうことである。では酒は何を頼むか。それは一番上に書き出してあるもの。店だって、良いものを最初に書いておく。『傘亭』なら「菊姫」だ。そして酒が出たタイミングで、さっと「崩れ豆腐」を頼む。青海苔がちょいとのっかっていて、豆腐のコクが青海苔の香りとぴったりと合う。かわいいレンゲで食べる。この豆腐だけで二合はいける。 ここまでくれば自分のペースで、ゆっくりとメニューを眺めたり、壁に貼り付けてある様々を点検する。そして酒のお変わりを頼みながら「鮎煮」などを頼む。 こういう「一人で系」の店には、当然一人で行くこと。どうしようもない時があっても二人まで。三人以上なら「乾杯系」の前回書いた『室町砂場』のような店を探すことだ。 『傘亭』のようにおじさんが一人で切り盛りしている店は、午後の遅い時間に一人でいって、カウンターに静かに腰掛け、どっぷりと自分の時間を楽しむ、そんな店だ。 最近、蕎麦屋に行くと聞こえよがしに蕎麦のウンチクを語る人の多いことか。また、他店のは、どうのこうのと比較好きもまた多い。ウンチクも比較も結構だが、他人に聞こえないように願いたい。せっかく贅沢な時間を過ごしているのに、ぶち壊しだ。 蕎麦がどうのこうのというよりも、贅沢な時間が過ごせる。その空間での楽しみの方が大事と思うのだが。そういった空間は、今、蕎麦屋以外にはないのではないか。BARでは気分が重いし、居酒屋では軽い。スターバックはちゃらちゃらだし。HOTELのラウンジはペラペラだ。大人が都会で憩える場所はなかなか無いのだ。 それに「遠くの名店より近くの馴染み」でなければならない。 山でも蕎麦屋でも、昔からピークハンターのような人がいて、あっちへ行った、こっちへ行ったと、ガイド書にチェックを入れて、まるで巡礼のように100なら100を全部回ろうとする。「行く」ことよりも「居る」事の方に憩いはあるし、心の楽しみや豊かさもあると思うのだが。 ともあれ、たとえば『傘亭』のような店に足をのばされてはいかがか。発見があるかも。 | |
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| ◆<安心の構造ーその1> ◆伊藤 ◆07年10月04日 14:24 | |
| 最近、ことある事に「食の安全・安心」などと、「安全」と「安心」を並べた表現がやたらと目につく。たしか四、五年前に起こった雪印乳業事件の際に関係者が「日本の消費者は安全だけではなく安心も求めていることを認識しなければならない。」というようなことを語ったのがこの表現のはしりだったのではないかと記憶している。以前は単に「食品の安全性」という表現だったものが、今年生じた牛肉擬装事件以降特にこの「食の安全・安心」という表現が多用されるようになった気がする。 この表現は福田首相の所信表明演説でも頻繁に使われ、「国民の安全・安心を重視する政治への転換」という部分で「安全」と「安心」とがすべてセットになって合計六回も使われている。 しかし、私はこの「安全と安心」という表現にはどことなく違和感を覚える。そこには、客観的な事実が問題になっているところへ情緒的なものを持ち込むという日本人の悪い癖が現れている気がしてならないのである。 「安全」とは客観的な事実を表現する言葉であり、英語では safty や security 、ドイツ語では Sicherheit といった言葉があてはまる。これに対し、「安心」という日本語に対応する言葉は英語やドイツ語には見あたらない。和英辞書や和独辞書で無理やり「安心」を引いてみると、peace of mind とか freedom from care あるいは sich beruhigen とか sich erleichtert feuhlen などといったわけのわからない訳語が出ているが、これはむしろ「安心感」という言葉に近く、「安心」の訳語からはほど遠い感じがするのである。 「安心」という日本語にピッタリの訳語が欧米の言葉にないのには訳がある。なぜなら「安心」という言葉はもともと仏教の用語だからである。安心とは、仏教では自己の心の真実のありかたの明らかな自覚によって心を不動に安住せしめることであるとされる。しかし、ただ不動であるものはすでに心の働きを失ったことであるから、安住不動といってもけっしてただ不動であるということではなく、動いているままが真実にかなっているということなのだそうである。 しかし、新聞テレビの報道や首相の所信表明演説で使われている「安心」とは仏教で言うような深遠なる心の状態を指しているのではなく、あれこれ心配したり思い悩んだりする心理的な負担から逃れたいという意味で使われているようである。そこには安全の問題は企業や政府に任せきりにして、自分は何も考えないでいたいという他者依存と思考停止の臭いがしてならない。 なぜ日本の社会は、「安全」という客観的な問題につけ加えて「安心」という個人の心の状態までもコミットするようになったのであろうか。「安心」は「安全」という事実を各個人が確認したり信頼したりすることによってはじめて得られる心の問題であるにもかかわらず、それを企業や政府が保証したりしようとしているのは、いったいどういうことなだろうか。国民の方も、このような心の問題を企業や政府に委ねてしまってそれこそ本当に「安心」できるのだろうか。もし、安全の問題を自分以外の第三者に任せきりにしておいて自分は安心しきって何も考えないとしたら、それはかえって「安全」からは程遠い最も危険な行為となるであろう。安全とは、安全を脅かす原因を取り去ってシステムの改良・改善に努めるととともに、日頃からの確認点検を怠たることなく常に注意を払いながらシステムを運用することによってはじめて得られるものなのである。 その注意を放棄してただ単に安心していたいというのであれば、「安心」は「安全」の敵となってしまう。その意味で「安全」と「安心」とは一種の対立する概念であり、それを一緒くたに「安全・安心」と言うのでは自己矛盾もはなはだしいことになる。 何かにつけてこの「安心」という言葉が幅を利かせる社会は世界的にみてもかなり特異な社会であると言わざるを得ない。 であるならば、「安心」という言葉は日本人の精神構造を読み解くキーワードであると言っても過言ではないであろう。次回から、日本人にとっての「安心」とは何を意味するのか、別の角度から検討することにしよう。(続く) | |
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| ◆囲碁道草論 ◆バニラ ◆07年09月12日 12:50 | |
| 元の会社のOB会報に寄稿した文をご覧願えますか 囲碁道草論 私は小学4年生頃囲碁を覚え以来今日まで気が向いた時打ってますが勝つと喜び負けると悔しがる初心者の域を脱していません。 どちらかと言うと私は勝負より勉強を楽しむタイプらしい。切った張ったのスリルは勝負師の命でしょうがそれよりもレッスン書に紹介されている技を観賞習得することに無上の喜びを感じます。その内容は筆舌では表せない精緻を極めたもので四方八方へ気の配り相手の変化に対応した対策を網羅した頭の回転の良さにただただ感激するばかりです。 しかもそういう技が幾つも幾つも複合して姿を変えながら敵を追いかけ最終的には勝ちきってしまう力強さに拍手をおくります。 私はインターネット碁も始めましたので全国の愛好者と打つ機会に恵まれ楽しんでいます。凄い高段者から初心者まで、相手さへ了解していただければ直ぐ打つことが出来ます。相手の顔が見えないので初めの頃は何ともいえない違和感があったものの慣れてくれば気になりません。顔が見えない代わりに掲示板やらホームページがあって自分の意見など文章で発表できるような仕組みがとられています。 私も碁の上達の傍ら囲碁道草として囲碁のホームページ「初心者囲碁3館」を発表し、月に2回定期的に新版を追加しています。 囲碁は碁盤を使用してのゲームですから囲碁と碁盤は切っても切れない関係にあり、石の形は碁盤の函数だろうとの仮設を建て碁盤側から見た囲碁道草論を展開しています。これが囲碁の解析に役立てば望外の喜びです。 其の考察をホームページに其の都度発表しています。 其の幾つかの概要を紹介させていただきます。 石間の距離の不思議 基点の石と横方向にある石との距離は連であれば1、一間であれば2、二間であれば3のように整数です。縦方向も同じです。(但し碁盤の目の幅は縦横とも1であるとする) 縦横以外の斜めの方向に石が置かれるとその石間の距離は必ず無理数になります。(ピタゴラスの定理) 囲碁の華は切った張ったの切断にありと言われます。この切断のややこしいのが斜め切断です。斜め切断は得てして無理筋気味が多いのが囲碁の特徴ですが、この斜め切断タイプは数字的にも「無理数」と言う駄洒落的語呂合わせになっています。 青竹を割ったような性格の方は縦横方向の整数を力自慢の方は斜め袈裟切りの無理数を無意識の内に選んでいるかもしれません。 碁盤の縦横線と碁盤には描かれていない斜めの線 碁盤には縦横19本計38本の直線が敷かれていますが、斜めの線は描かれていません。しかし昼間のお星様は目には見えないけれどあるんだよの童謡の如く、碁盤にも斜め線は描かれていなく目には見えないけれども本当はあるのです。 本当は万を超える数の斜め線が存在し高段者になると心眼でよく見えるらしです。ドライブでカーナビがあるかないかのちがいです。地図を頼りの初心者とは段違いです。 ダイヤモンド碁盤 碁盤は対局者に縦横に置かれていますが囲碁の本道から考えると対局者に菱形に置くダイヤモンド碁盤式(公式野球場のネット裏観戦式)が良いと思います。すると切断などの大事な線が普通は斜めで初心者は見落と易いがダイヤモンド碁盤では縦横になり大変見易くなります。人は何故か斜め線は見ずらく目でなぞっていきますが縦横線なら瞬間に行き着く果てが分かります。シチョウなどはその最たるものです。ダイヤモンド碁盤ならシチョウは直ぐにも卒業です。 効率よい地積のとり方 囲碁は最終的には地積の大小で勝負が決まるので戦いを別にすれば如何に効率良く地積を稼ぐかですが、其の効率で最も大きいのはスケールの大きさです。小さい地を沢山作るよりどでかい地を一つ作る方が良いことは自明の理でありますが、案外知られていないことにコスミで囲うと大変効率がよいことです。コスミの連携は後でカケメになったり、切られたりするのでやや嫌われ気味ですが、効率的には断然有利です。何しろ石間の距離が縦横ですと1ですがコスミは√2=1.4142 ですから面積になると其の2乗で何と2倍になります。少しくらい後で補正したとしても断然有利でしょう。地にも強く、戦いにも強いコスミ打法を研究したら勝率が良くなるかもしれません。 碁盤の位置ポテンシャル 碁盤の中央部分、辺、隅では其のポテンシャルは全く異なります。勢力は中央ほど強く、辺、隅と端に行くほどに特殊性が生じ非常に奇妙な複雑な性質により初心者を悩ませます。これが囲碁の醍醐味なんでしょうが不思議な現象です。 何かピラミッドのようでもあり、曼荼羅特に中台八葉院のようでもあります。これらを統括的に説明出来る見識を発明すれば素晴らしいと思います。 囲碁ナスカ絵 囲碁進捗の元となる碁石の連続打の基本、連コスミ一間ケイマの4種を一つの作図法則の下に一図に表す方法を発見しました。 この4種は互いに関係あるようなないような存在に思われますがこのような形で4種が一表に出現するということは互いに函数関係に有ることを物語っています。 簡単な作図法で囲碁の基本4種が表せるこの発見は囲碁史に残る大発見で百年後に其の価値が認知されるものと思います。囲碁の基本はケイマにあるらしく思えます。 この作図法のミソを申し上げますとベースに内ケイマ四角を使用したこと、辺2.3・・倍の相似形を描きそれを一路右にずらして配置したことに有ります。すると不思議にも4種がアンテナ状に現われます。何故かはクイズです。挑戦してみて下さい。 この作図法を図に示しました。 これら以外にホームページに色々発表いたして居ります。 私の囲碁ホームページをご覧願えれば幸いです。先のクイズの答えも書いてあります(面白館18.11.5号ナスカ絵謎解き)。 | |
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| ◆中野坂上便り 〜 その二十六 〜 ◆谷口 一 ◆07年08月16日 16:18 | |
| 前回の続きのような話。 世の中に目出度きものはそばうどんはじめ鶴つるあとで亀かめ 蕎麦好きの知人が上京するというので、さてどこに案内しようかと。先日、日本橋の『室町砂場』へ偵察に。若くして亡くなったごぞんじ古今亭志ん朝の行き付けの店。ここの亭主は入院中の志ん朝に蕎麦を届けたという。 志ん朝のオーダーはいつも決まっており、まずはビール、酢の物と玉子焼きで酒に切り替え、最後は熱いかけと冷たいもり。両方を食べたという。 これにならって。 坪庭に面した席に一人、ラガーを飲み、酢の物の梅肉添えの爽やかさとシャコの歯ごたえに舌鼓。酒は菊正。ちょっと甘めの玉子焼きに東京を感じ、常温で一本、また一本と。ちょっとクーラーが効きすぎか。最後は熱燗で。 ごく当たり前の蕎麦屋。テーブル、椅子、店員さん達。三時前でぱらぱらのお客。年配のご夫婦、背広のおじさんが一人、あっちにも一人、品のあるおばあさんがぽつり。奥の方にもまたぽつり。 ここには小一時間は居座っていたいなと思わせる何かがある。この何かが名店と呼ばれる所以か。気分が憩うのだ。日常の中のオアシス。椰子の木陰のハンモック。 食い物屋というのは、なにが旨いなんていう以前に、入った瞬間座った瞬間に勝負ありなのではないか。無意識の接待の気持ちみたいなものが、店の空気としてあるのではないか。立ち飲み屋でも、最近そんな風に思う。憩える感じ。ほっとする空間。小一時間の至福。 もりを食べる。かけでしめる。 そして、朱塗りの湯桶の蕎麦湯。これを啜るために酒を飲み、蕎麦を食ったのだという気がする。注ぎ足すうちにだんだんとつゆは薄まってきて幽玄の味。蕎麦湯残さず全部飲む。 四時、豊かな気分で店を出る。また来ようと思う。 幕末、江戸には120万人が暮らしていた。当時の蕎麦屋の数4000軒。現在、人口はその十倍以上、蕎麦屋の数6000軒。江戸期の4000軒はあまりに多い。いかに江戸庶民が蕎麦に親しんできたか。江戸っ子にとって、安価で能書きが言えて食通ぶりになれる。これほど愉快な食い物はない。きっと蕎麦屋番付なんかもあって、うすっぺらな食通ぶりっこ連が、あっちでピーチクこっちでピーチクとかしましい事しきりだっただろう。 信州柏原の俳人小林一茶ここで一句 そばの花江戸のやつらが何知って 江戸期すでに蕎麦屋で酒はポピュラーであったようだが、江戸の風俗を伝える貴重な文献として知られる『守貞謾稿』によれば、蕎麦十六文、上酒四十文とある。この上酒というのは「下り酒」すなわち西国から来た酒、上方の酒、灘・伏見の酒と思われる。当時関東産の酒は「地廻り」と呼ばれ、上方の酒に比較して一段も二段も下のものとされていた。現在、蕎麦と酒一合はほぼ同価格。当時の上酒の量が不明だから価格の比較は難しいが、二合徳利とすれば、蕎麦と酒は現在とそう変らない価格設定となる。職人の日当が2百文〜3百文の時代、上酒は贅沢か。宵越しの金は持たぬ江戸っ子なら、気にもせず飲んだか。能書きたれて、食通ぶって。この辺は現代人にも通じるが。 いささか自戒をこめて。独眼流伊達政宗公の五常訓から。 この世に客に来たと思えば何の苦もなし 朝夕の食事はうまからずとも誉めて食うべし 元来、客の身なれば好き嫌いは申されまい | |
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| ◆<草取りと日本文化> ◆伊藤 ◆07年07月27日 15:46 | |
| 少し時がたってしまったが、5月の連休に空き屋となっている実家に帰省し、庭の草取りをやった。テラスの前がかなり広い芝生になっているのだが、ドクダミとトクサによって周囲から浸食され、年ごとに芝生の版図が狭まってくるのを何とか食い止めたいと思ってのことである。特にドクダミは芝生以外の地面にも大量にはびこり、このままでは、我が実家は年を経ずして文字どおり"ドクダミ荘"と化してしまうのではないかという深刻な事態を迎えている。 そこで自分としてはかなりの気合いと時間をかけて草取りに精を出したのであるが、慣れないことを不自然な姿勢でかやったシロウトの悲しさ、とうとう腰を痛めてしまった。少しでも楽な姿勢でやろうとして、風呂場の腰掛けを持ち出し、それに座りながらやってみたのだが、その工夫の甲斐もなく腰痛に悩まされる羽目とあいなった。 後になって感じたことなのだが、マイペースで草取りをやっていれば腰痛もずっと緩和されただろうに、ついついムリをしてしまうのはなぜなのだろう。草取りには魔力がある。いったん草取りをはじめると、それに夢中になってちょっとやそっとではやめられなくなってしまうのだ。やり残しを残したまま適当なところで切り上げるという踏ん切りがなかなかつかないし、草を取ればとっただけその部分がきれいになって自分の成果が目に見えて拡大するという小さな喜びも味合うことができるし、手を動かして草や土に触れるという原始的な楽しみもあるのだ。 このような性質を考えると、草取りには草取り自体が自己目的化しやすいという性質があるように思われる。それ自体が自己目的と化すとどうなるか、それは、全体や大局を見る目が失われ、やめる勇気も持ちえず、合理的かつ自省的な判断を下すこともできなくなるといった大きなマイナス面をかかえることになるのである。 話は変わるが、囲碁も、草取りとよく似たところがある。いわゆる打ちすぎというヤツである。夢中になるとやめられなくなり局所を気が済むまで打ってしまうという事態がよい結果をもたらすことはありえない。 さて、草取りや草取りの対象である雑草に関する欧米人の考え方はどうであろうか。以下に二三の例を紹介しよう。 「・・・雑草(害草)とは何か。そう、その徳(長所)がまだ発見されていない植物である。 」R・W・エマーソン 「・・・雑草(害草)は、ただ愛されていない花にすぎない。」E・W・ウィルコックス 「西洋では雑草(weed)と草(grass)という区別をし、前者を「悪」、後者を「善」とするのに対して、日本人の"忌嫌"は双方に平等であるらしい。しかし、どうして草、とくに芝生というものは日本より欧州の方で好まれるのだろうか。一つの理由は、日本での「草取り」は西欧より大切で、日本の農民は草、どんな草でも天敵だと思っている。もう一つの理由は、西欧人は家に入っても靴を脱がない、日本人のいう土足、泥靴という汚いものは家に入れたくない。そこで芝生は大事な役割をはたす。」(ロビン・ギル) 以上のような欧米人と日本人の雑草に関する見解や態度に対しては異論もあるだろうが、何と言っても大きな差異を生み出した原因は、気候の差であろう。日本は、雑草が育つのに、また手作業の草取りによって雑草を駆除できる程度に雑草が育つのにもっとも適した降雨量、日照時間、気温、生育期間といった自然条件をそなえているのである。これに対し、欧米ではそのどの条件も日本にくらべて劣り、したがって雑草の生え方もずっと貧弱になる。森の下草の生え方などをくらべてみても、日本ではいわゆる藪草に邪魔をされて森の中に分け入ることが難しいのに対し、むこうではわりあい簡単に森の中を散歩できる。 雑草の除去というのが古来から日本の農民に課せられた宿命みたいなもので、それが習い性となって、いつも草を抜いていないと落ち着かないという精神構造ができあがってしまっているようだ。休暇の取り方、旅行の仕方をくらべても、欧米人が同じ場所で長期の休暇を楽しむのに対し、日本人は短い休暇をとってはかけずり回るように見て歩くことが多いが、これはどうも草取りの習慣から来ているように思えてならない。 この草取りに由来すると思われる日本人の精神構造は、目先のことのみを過渡に重視し、その背景に隠されている原因を追及したり、長期的、合理的な判断にもとずいて物事を計画的に遂行するといったことは苦手であり、関心もまた薄いという、大変困った国民性のもとになっているようである。この国民性は弥生時代以前からの習性に根ざしているゆえに、いくらグローバリゼーションの世の中とはいえちょっとやそっとのことでは改まらないであろう。 | |
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| ◆中野坂上便り 〜 その二十五 〜 ◆谷口 ◆07年07月16日 13:30 | |
| 別に蕎麦喰いという訳でもないし蕎麦に関しての薀蓄もない。蕎麦の記憶といえば、かなり前、会社勤めをしていた頃に、万事博学の先輩に吉祥寺の「砂場」に連れて行ってもらい、蕎麦屋で飲むことの楽しみの一端を教えてもらったくらいである。しかしまだ青かったのか、蕎麦屋で飲むは馴染まず、いつのまにか忘れていた。 しかし最近、杉浦日向子さんの蕎麦話をパラパラと読んで、蕎麦屋の何軒かは頭に残り、縁あればと思っていたところ、ひょんな事から記憶にあった甲斐の長坂の「翁」に寄ってみる機会が、先日あった。「翁」は清春芸術村のすぐ先の林の中にある、山荘風の蕎麦屋である。大きく取った窓に緑が迫ってくる。蕎麦に大事な水が旨い土地だなとすぐわかる。葉の落ちた季節には、きっとすぐそこに山の団十郎と言われる「甲斐駒ケ岳」がそそり立っているはずだ。よくここに店を開いたものだ。またよくここまで来る客がいるものだ。11時開店、15時閉店。営業4時間。本来ほんとうの蕎麦というのは、それぐらいの時間分というか人数分しか仕込めないのだろう。 自分の目で確かめた蕎麦の実だけを仕入れ、この場所で製粉し、こね、茹で、客に供す。 幸運だった。太く黒々とした「田舎そば」を食べることが出来た。次の客からは品切れとなったのだから、本日最後の物を食べられたのだ。蕎麦をすする。歯ごたえの妙、ほんのり蕎麦の香り、喉越し、本山葵がつゆの味をしめる。酒は栃木の「四季桜」。言うことなし。ちょっと蕎麦喰いの気持ちが分かったような気がする。蕎麦850円也。ホトトギスが鳴いている。 その清春から甲州街道に出て先へ進むと、道の駅「信州蔦木宿」がある。数年前ここの農産物売り場で、未知の植物に出会った。太いフキといった様相で、葉は取ってあり茎だけが4、5本束ねてあった。その太い茎も三分の二程は暗紅色で、ズイキの色に似ている。手書きの説明文のコピーがあり、名は『ルバーブ』とある。ジャムにすると書いてある。ブルーベリーも杏も苺も林檎も実をジャムにする。この未知の植物は茎をジャムにするという。3cmほどにブツブツと切って鍋に入れ煮る。煮続けるとどろどろに溶けてきてジャムの感じが出てくる。砂糖を入れて甘さを調整してさらに煮る。酸味を残した甘さ加減にする。30分ほどでジャムが出来上がる。冷まして完成。こんな手軽なジャム作りは他にない。 9枚切の食パンをカリカリ狐色に焼いて、バターを薄く塗り、たっぷりとルバーブジャムをのせる。かじる。ジャムの酸味がバターの塩分と合い、カリカリのパンの歯ごたえの中で、植物の甘みを引き出す。この酸味がこのジャムの命だ。 ルバーブは信州の農協のスーパーで時々見かける。あればあるだけ買い込む。東京では紀伊国屋にあるらしいがきっと高価だろう。馬鹿らしい。軽井沢ではジャムにしたものを売っているという。が、これも高価であろう。保存剤が入っているかもしれない。 茎を農協スーパーで300円も買えば、大きな瓶にいっぱいのジャムが出来る。本当は安価で気軽に作れるものなのだ。週末は目下、一年分のルバーブジャムを作るために、東に売っている店があると聞けば車を飛ばし、西に畑を見たと聞けば野山を駆けて、信州の町々山々をうろついている。 そうやってあっちこっちに出没していると余得もある。あそこに山葡萄、あっちにマタタビという具合に内緒の採集地候補が増えていく。これが山暮らしの財産になり、楽しみでもある。6月の雪の消えたスキー場の急斜面に見つけた、ウドの採取場はそんな財産の一つだ。わずか数ミリ地上にのぞいたウドの先端を見つけ(見つけ方は内緒)、ナイフを土深く差し込み、土の中でそのウドを切り取る。地上にウドの香りが広がる。このまま喰っても旨い。この香り。こればかりはこの場に居合わせた者にしかわからないし、絶対に言っても書いても伝わらない。 辺境はいつも花盛り。野山は早、山菜から木の実きのこの季節に移っていく。身も心も日々ますます辺境へとシフトしていく。その加速の速きこと風の如く。 まずは近況まで。 | |
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| ◆風を痛む ◆コスミ ◆07年05月12日 19:02 | |
| この痛み何にたとへむ千尋なる海底に沈み揺らる思ひか 地獄なる鬼卒に告げむ汝らの責苦に勝る痛みもあると 数年前わたしが尿管結石で苦しんだときひねり出した歌です。文字通り苦吟でした。 ところがこの数日前から、今度は痛風にさいなまれています。病気に痛みはつき物ですが、この二つの病いは痛みの双璧といわれています。 結石のときは内臓の疾患ですから、下腹部から腰にかけて全体に切り込むような激痛が続きました。それでも多少の間歇はありました。痛風の痛さはさらに激越です。局部的ですからまさにいても立ってもいられないという感じで、しかし居ても立っても寝ても浮かしても下ろしてもどうにも止まりません。ちょうど足を挫いたとき、ちょっと不注意に動かすと思わず「イタッ」と声を挙げるような痛みが間断なく続くのです。 何の因果でこの二つの痛病に見舞われなくてはならないのか。 予兆はありました。以前から人間ドックや定期健康診断の際、尿酸値がすこし高いですねといわれていました。また、数年前から年に2,3回右足の親指の関節が痛むことがありましたが、半日か一日くらいで消えてしまうため気にも掛けずにいたのです。 痛風は俗に「ぜいたく病」といわれているように、美食大食漢がなるものだとおもって、私などごくつましい食生活で、尿酸値もそれほど高くないので、まさか自分が襲われるなどおもってもいませんでした。 五月の連休混雑期がすぎたので、久しぶりに一泊温泉旅行にでかけようかと、スケジュールを組み、旅館やキップの手配を終えて、予定の三日まえ右足の痛みが始まりました。 親指の関節のあたりが少し腫れているようです。いつもの症状だと軽く考えて、そのうち収まるだろうと思っていたところ、だんだん厳しくなる一方で歩行も困難となってきました。 渋々近くの整形外科へでかけたところ、まず痛風の疑いがあるといわれ、検査を受けましたがその時は内心まだ本気にしていませんでした。 その日の夜でした。夜中の1時頃ますます痛みはひどくなり、ひいひい呻きながらその後一睡もできず朝を迎えるハメとなったのです。あわてて旅館やキップのキャンセルをして、病院の検査結果を聞くまでもなく、正真正銘の「痛風」と納得した次第です。 インターネットのブログを見ますとやはり出ていました。 痛風経験者の闘病日記が。 まったく私とおなじ経過をたどっています。その方はその後も何回も発作が起きて苦しんでいる様子で、私もそうなるかとそら恐ろしくなりました。 もっともその方は相当のグルメで、お酒も結構お好きなようです。さあこれからの自分の食生活に十分気をつけなければ。ビールがいけないとはくやしいね。 発症からちょうど1週間たった今日現在、夕べあたりからようやく痛みは治まり、そろりそろりと歩けるくらいになりましたが、あの恐怖の3夜はおもいだすもおぞましい。 しかしこの間「囲碁」の対戦はほとんど休みませんでした。というのも寝る時間の前までは薬の効いているせいかそれほど痛まないからです。 でもその姿勢たるやひどいものです。お相手していただいた方にはたいへん失礼ですが、椅子に掛けて両足をデスクに投げ出し腕だけ伸ばしてクリックします。当然画面は目から離れ、あまり手元が定まらずポインタがねらった位置からずれることもしばしばでした。 いつもの私のメチャクチャ碁がますますみだれてきます。対戦相手にはずいぶんご迷惑をおかけしたかもしれません。 それでも私のいいかげんの着手にしっかりと応手した方は大勝され、冷静で技量のある方と思います。反対に勝てなかった方は、きっと私のデタラメぶりにとまどったためかと存じます。どうもゴメンナサイ。 病気に関係なく今後もムチャクチャぶりを発揮したいと思っておりますので、どうぞお相手をお願いします。結構オモシロイ碁が打てますよ。 (近頃エッセイがとんと見られないのはさびしいですね) | |
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| ◆脳梗塞のリハビリと囲碁 ◆帰クレイン/事務局 ◆06年11月28日 17:51 | |
| 以下は、"帰クレイン"様と事務局とのメール交換記録です。 囲碁倶楽部事務局殿 帰クレイン事、鶴孝之は脳梗塞の克服のための囲碁対局を、あきらめました。 何度もお手数をお掛けしますが退会の手続きをお願いいたします。 努力の甲斐なく敗退いたしました。 脳梗塞の影響で、手順を考え記憶する力が想像以上に全く弱くなっておりすぐ間違えてしまいます。 相手の方に、いやな思いをかけるだけです。 ”待った”の出来ない今のル−ルでは、リハビリ効果は求められません諦めました。 残念ですが、退会を決意いたしました。 宜しくお願いいたします。 早々 鶴 孝之 拝 鶴 孝之 さま メールをいただきましたが、お返事が遅れて申しわけございません。 ご病気のあと再び囲碁対局を始められるという前向きの姿勢を拝見して、事務局一同、鶴様をひそかに応援しておりました。 脳梗塞の影響ですぐ間違えてしまわれるとのことですが、勝敗はともかくとして、毎日囲碁をやって考える習慣を継続するだけでもリハビリあるいは脳の退化を遅らせる意味はあるではないかと思います。 それに、鶴様より下位の方も数多くおられますので、同じレベルあるいは少し弱い方と対局するのであれば、相手の方にいやな思いをかけるようなことはないと思います。 退会はいつでもできますので、あわててやめてしまわれるのはもったいないような気がします。今一度考えなおされてはいかがでしょうか。 また、休会という、一定期間休む制度もございますので、それを利用されるのも一つの方法かと存じます。 勝手なお願いですが、もう一度再考して頂きたく、よろしくお願いします。 9月25日 囲碁倶楽部事務局 事務局の皆さん 返事有難うございます。もう一度頑張ってみます。またご連絡します。 鶴 孝之 拝 通信対局・新 の 担当者 様 お名前を存じ上げませんので、前便の返事の形で報告を申し上げる失礼をお許し下い。 いよいよ、級位者大会も後一週間を残すのみとなりました。大変長い間お世話になりました。大会の終了に際し是非お礼と報告を申し上げたくメールを差し上げます。 まず、第一の報告事項は級位者大会に参加申告の(脳梗塞で入院する前の)級位に戻ることか出来た事です。前便を発信しましたときは、退院の半年後でしたが、一月も経たぬうちに11級まで落ち込み、全く悲嘆にくれて退会を申し出た時でした。 今は、貴方からの激励のメールを頂き思い留まることが出来て本当に良かったと思っております。 第二の報告事項は、病後のリハビリ効果の顕れに関してです。あれから三ヶ月、対戦成績は、最初は全く上がりませんでしたが、十一月に入った頃から体調も良くなり,級位も急速に復活することが出来ました。囲碁大会をはじめリハビリの効果が現れた為だと思っています。私の大会参加記録を調べて頂ければ歴然と致しております。 今では手足の痺れも殆どなくなり歩行時の杖もいらなくなり、足元も軽く運べるようになっています。医者からは例を見ない程の回復度合いであると太鼓判を押される迄になりました。 あの時、貴方から激励して頂いたから、囲碁大会に参加し続けたおかげであると感謝しております。 囲碁は、脳梗塞のリハビリには最適の思考訓練の効果を持ち、他のリハビリの効果を増加させるのに役立つことを、身をもって証明できたと信じております。しかし、辛抱して続けることが大切です。貴方のおかげです。 同病に悩んでおられる方に是非お知らせしたい程です。 お礼と報告を兼ねてメールを差し上げる事に致しました。 貴方の今後の更なるご活躍を祈念してメールを終わります。 本当に有難うございました。 さようなら。 早々 (帰クレイン)事 鶴 孝之 拝 | |
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| ◆香林坊 ◆伊藤 ◆06年05月26日 16:23 | |
| 旧制高校の学生だった頃の話である。その日、学校をさぼって昼間から香林坊あたりをぶらつき歩いていたら、とある空き地で人だかりがしている。何だろうと思い近づいていくと、立派な軍服に身を包み、八の字髭をはやした一人の将軍が何人かの属僚や副官を従え、一段と高くなった壇上に悠然と立っているのが見えてきた。 ちょうどそこへ公用か何かで外出中の五六人の兵隊が通りがかった。それを引率していた下士官は将軍の姿を目にすると、やおら兵隊たちに向かって歩調をとれと命令し、自ら先頭に立って号令をかけながら将軍の前まで行進してゆき、兵隊たちを整列させてからおもむろに、 「将軍閣下に敬礼!カシラー右!」 と大声で叫びながら将軍に向かってうやうやしく敬礼をしたのであった。 これを受けて将軍も威厳に満ちた悠揚迫らぬ態度で何度もうなずきながら答礼した。この将軍の堂々たる態度は、ただもう見事と言うほかなく、周りを取り囲んでいる群衆は固唾をのんで見とれていた。と、その時突然、群衆の中から拍手が一斉に湧き起こった。すると敬礼したままの下士官の顔はみるみる真っ赤になっていった。ここに至ってようやく事の次第を悟ったその下士官と兵隊たちは、こそこそと逃げるようにしてその場を立ち去ったのだ。 自分もその時初めてそれが映画のロケであることに気がついたのだった。 | |
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| ◆中野坂上便り〜その二十四〜 ◆谷口 ◆06年04月26日 10:21 | |
| 特にこの時期、土に親しみたくなる。健康そうな黒々とした土を見るとうらやましく、たっぷりと欲しくなる。よその庭も気になるし、ホームセンターや園芸店の店先も気になる。天候も気になり、雨を待ち、雨を喜び、晴れを待つ。そして休日を待ちわびる。 インターネットの園芸サイトをあれこれと見たり、本屋で園芸雑誌を立ち読む。カレル・チャペックの『園芸家の12ヶ月』をいつも身近に置いて、ターシャの庭を夢想する。 まあ、しかし一歩一歩。「ローマも庭も一日にしてならず」だ。 いっぱしに肥料もいろいろ気になる。牛糞か鶏糞か。牛糞の方が育ちがよさそうに感じる。 なぜか?値段が高いから。この世界、土も種も苗も苗木もシャベルも長靴も軍手もすべて値段が高い方がいいものと思えるのだ。安い方を買ったら絶対に後悔する。たとえば何かの苗、1ヶ月経ってもろくに育たない。ヒョロッとしたまま。自分がきちんと世話をしていないのなんかすっかり忘れて、あの時もっと高いのを買っておけば今頃は花芽がたっぷりと出ていた、なんて思ってしまう。そして、ヒョロッとした苗はそのまま忘れ去られて秋の終わり頃、作業小屋の裏でドライフラワーと間違えられたりする。 堆肥。窒素。燐酸。カリ。ミミズ。生ごみ。コンポスト。土作りが一番とはわかっている。しかし、まずは開墾だ。立ち木を切るためにチェーンソーも買い込んだ。しかし、開墾に最も必要なものは、ダイナマイトだと今は思う。 荒れた地に20分も鍬を打てばへたってしまう。さまざまな根が鍬のじゃまをする。鍬にへばりついた土塊が振り上げるとまともに頭に落ちてくる。その土片が背中まで入ってくる。土に隠れた石ころを鍬がたたく。嫌な音がする。いつも足場は悪い。振り返っても先はまだまだ長い。 倒した木の切り株がある。根切り鍬、斧、のこぎり、スコップを総動員して、切り株一つ退治するのに二時間はかかる。たかだか直径10cm程の切り株さえ。根は偉大だ。四方八方に深く浅く長く短く手を伸ばして、がっちりと土を捕まえている。ひょうひょうと立っている一本の立ち木も、土の下ではしっかりと歯を食いしばっているのだ。誰しもここでダイナマイト一発あればと思うはずだ。 立つ、しゃがむ、座る、中腰、かがみこむ、背のばし、ねじる、片膝立ち、横歩き、後ろ歩き、ありとあらゆる動作を繰り返し、なんとか第一耕(こんな言い方があるのか知らない)を終える。 腕はパンパンにはり、握力はなくなり、腿の後ろが攣り、首肩が凝り、腰に鈍痛。おまけに長靴の中は石ころだらけ。軍手をぬげば、爪の中まで真っ黒。 土と親しむまではなかなかいけない。格闘だ。土と格闘だ。話すのも面倒になり、日が暮れて、使った道具類を洗い片付け、風呂場に倒れこむ。 第二耕はカラスの鳴き声で起きて、日の出前から開始。前日と同じ所を最初から耕し直すのだ。三本爪の鍬を使う。出来る限り根を取り除く、石ころを取り除く。しゃがむ、しゃがむ、しゃがむ。土をほぐす。強情な根を両手でひっぱる。切れる。尻餅を着く。夜明けの空が見える。立ち上がる気力も一瞬なくす。そのままその格好でしばし休む。すごすごと立ちあがり、根きり鍬で先ほどの切れた根の伸びているであろう場所に向かって、渾身の力で鍬を打ち下ろす。 朝飯前の仕事とはよく言うけれど、軽い仕事とかやさしい仕事ばかりとは限らない。朝飯前にやらなければならない仕事もあるのだ。 今週は絶対にここまでやっておきたい、そして来週末は。頭はどんどん前に進んでいく。作業が追いつかない。追っかけ続けなくてはならない。山の春は短い。 さて、200kgの鶏糞を車から降ろさなくてならない。 まてよ、やっぱり牛糞の方がよかったかな。 | |
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| ◆日本橋 ◆伊藤 ◆06年03月01日 18:34 | |
| 日本橋再生より無電柱化が先では 東京・日本橋の上の首都高速道路を移設して、景観をよみがえらせようとする計画が動き出している。この計画は、日本橋に青空を取り戻そうという地元の人たちの運動に小泉首相が乗った形で進められているようだが、国土交通省の懇談会は、高速道路を地下に埋設するか、高架のまま迂回させるかに絞った案を出したと報じられている。その試算によると工事費の総額は3000億円から6500億円と見積もられている。 日本橋を再生するという目標自体は誠に結構な話ではあるが、このような巨額の費用を聞いて大いに疑問がわいてきた。というのは、同じ景観の再生という視点に立つならば、もっと先にやるべきことがあると思うからである。 それは、日本の、あるいは東京の無電柱化という問題である。街中であれ郊外であれ、住宅地であれ田園地帯であれ国土の至る所を覆い尽くす電柱電線は、景観を害することこの上ない。私はかって外国人を案内する機会を多くもったが、ある時地方を案内していたドイツ人から、日本の風景にはがっかりだ、電柱電線がなんとも目障りでせっかくの景色を台無しにしているではないか、日本人はこれを何とも思わないのか、といわれたことがある。なるほどドイツでは、どんな路地裏でもどんな田園地帯でも1本の電柱さえ見つけることはむつかしい。またドイツ以外の欧米諸国へ行っても、ドイツほど徹底してはいるわけではないが電柱を目にすることはまれである。さらに、中国、韓国、台湾などの諸都市を見ても日本よりかなり無電柱化が進んでいるという印象を受ける。いずれにせよ日本は無電柱化という点では諸外国に大きな遅れをとっているのはまぎれもない事実である。 それでは、この無電柱化のための費用はいったいどの程度かかるのであろうか。私が住んでいる区の道路公園課で聞いた話では、無電柱化する費用は電柱1本あたり300万円ということだった。また、無電柱化を推進する都の担当課で確認したところ、費用は道路の片側1mあたり18万円から27万円程度という話であり、これは電柱間の間隔を平均20mとすれば、1本あたり360万円から540万円に相当するとなる。これは幹線道路である都道についての費用であり、電柱の大部分は路地裏や歩道のない細道を含む区道に立っていることを考えると、1本あたりの費用はこれよりかなり安くなって300万円前後になるものと考えられる。 一方、電柱の数はいったいどのくらいあるのだろうか。各種の統計資料を参照したり東京電力などに確認した結果によると、東京23区内には東京電力の電柱が約33万本、NTT東日本の電話柱が約23万本、合計すると約56万本あることがわかった。 いまここで、日本橋再生費用の3000億円あるいは6000億円でいったいどれだけ無電柱化できるかを計算してみると次のようになる。すなわち、電柱1本あたり300万円かかるとして、3000億円あれば10万本、6000億円あれば20万本の電柱をなくすことができるのである。これは、路地裏に立っているものを含む23区内の全電柱56万本の実に18%から36%にあたる。これだけの電柱がなくなれば、23区全域の都市景観は見違えるように改善されるであろう。さらに、この無電柱化により都市防災機能も格段に高まることが期待される。 我が国においても無電柱化計画は現在も進められてはいるが、その実績および計画はごく小規模なものにすぎず、電柱の総数に対する達成率は東京23区内でさえ3%、全国平均すれば1%以下という、数字をあげるのもはばかられるような微々たるものである。 同じ予算を使うなら日本橋の再生と無電柱化のどちらを優先させるべきであろうか。それは、一歩自宅を出れば毎日目にする電柱がなくなるという、効果を享受する人の数や頻度を比較しても、また都市防災機能の向上という観点からみても、日本橋の再生より無電柱が先であることは明らかである。 これは、戦闘機1機で保育所がいくつ建つといった議論とは性格を異にしている。それは同じ景観という次元にたった優先順位の問題だからである。 同じ日本橋という場所で愚行を2回くり返すことだけはやめていただきたい。今の日本橋は日本の景観行政を象徴する負の遺産として、少なくとも無電柱化が達成されるまでは、現在の姿のまま残しておくべきと考える次第である。 | |
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| ◆中野坂上便り〜その23〜温泉天国甲州・信州 ◆谷口 一 ◆05年12月14日 17:07 | |
| 日帰り温泉ブームに乗って、あっちこっちに出没しています。東京も西の方には「つるつる温泉」や桧原村の「数馬の湯」があります。 もっと青梅街道を行けば山梨県に入り「小菅の湯」、大菩薩峠を越えれば「大菩薩の湯」と続きます。山梨県まで足をのばせばざっと五、六十の日帰り温泉施設があります。 一番人気は豊富村役場近くの「みたまの湯」、二番が山中湖の「紅富士の湯」、三番目も山中湖の「石割りの湯」と続くようです。「ほったらかし温泉」なんていう、行ってみたくなるようなネーミングの温泉もあります。 もうひと越え長野県に足を踏み入れれば、二百を越える日帰り温泉施設があります。その数だけで湯あたりしそうになります。中には入浴剤を混入し、インチキ温泉に成り下がった白骨温泉のような所もありますが。混入問題が発覚するちょっと前に行った感想は、一言「とにかくひどい所」でした。脱衣場もほとんどないのに詰め込むだけ人を詰め込む。お金を取ればそれでよいという、金の亡者のような所でした。名前が売れるということはほとほと怖いですね。そんな所はごく例外で、たいていの施設は心身ともにほかほかにしてくれます。 露天風呂もほとんどの施設にあります。夏の露天風呂は絵になりませんが、この季節、雪が舞う中の入浴はたまりません。地獄谷温泉には猿専用の風呂があるそうですが、露天風呂は人間と猿だけに許されたまさに裸の楽園です。 究極の露天風呂、それは 以前九州の最南端、指宿の知人宅で見た光景が温泉好きには一つの理想です。掘っ立て風の小屋に年季の入ったヒノキの湯船、ちょろちょろと湧き出る湯、湯はいつも満杯で、もったいなくも常時ちょろちょろとこぼれる。それが近くの川に流れ、川水の温度はいつも高く、熱帯に住む色の付いた魚が泳ぐ。湯には二十四時間好きな時に入れる。 富山、宇奈月温泉のさらに奥、トロッコ鉄道で黒部峡谷を行くと、川原のあちこちから湯が湧く。携帯スコップでMy露天を掘ってつかるのも、また一興。 しかしそれらは持って帰るわけにはいかず、その場に行かねばならない。常時楽しめるわけではない。 常時楽しめて、大自然の中で、My露天。究極の露天風呂、それはドラム缶風呂。ひょんなことからそれを手に入れたのだ。ネットオークションでストーブ用の薪を捜していた時に、目に飛び込んできたのが、「遊び心で作りました。ドラム缶風呂」というもの。薪ストーブの上にドラム缶がのり、煙突まで付いている、まさに理想のドラム缶風呂。青森県の方の出品だった。 落札までの四日間は長かった。それが先週末に蓼科の小屋に届いているのだ。薪の準備もOK。 小屋の水道水は蓼科の湧き水から取っているから、ミネラルたっぷりの柔らかい水だ。それを薪で沸かす。 小屋のまわりはもう30cmほどの雪が積もっている。完璧なロケーション。あとは風呂の中に沈める丸いスノコの制作とドラム缶に入り易くする為に、雪を固めてスロープを作ること。日中でも、もうマイナス5度位だから、どうやってドラム缶風呂までたどり着くかも問題だ。 年末年始の楽しみは深い。猿と一緒に入るには狭すぎるから、せめて鹿や狐が怪訝な顔で覗きに来てくれたらと思う。 湯煙りはもうすぐそこだ。 | |
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| ◆山下寛君、少年少女大会で優勝! ◆事務局 ◆05年08月10日 14:38 | |
| <以下は、週間碁の記事からの抜粋です。> 第二十六回少年少女大会中学生の部は、八月二、三日の二日間、東京・日本棋院で行われ、各都道府県の代表百二名が中学生名人の座を争った。実力伯仲の争いを勝ち抜いて、山下寛くん(静岡・中郷西中二年)と石井大輝くん(広島・磯松中三年)が決勝戦でぶつかった。意表をついた布石作戦に打って出た石井くんに、落ち着いた対応を見せた山下くんが短手数で押し切って白番中押し勝ち。うれしい初優勝となった。 高レベルの戦いへ この大会も歴史を重ねてはや四半世紀。始まった当初と比べると、年少世代の碁に関する環境は激変しているようだ。 なにより、参加者の棋力がケタ違いに伸びた。第一回のころは、初段以上の参加者が小学生で三分の一程度。中学生では三分の二くらいのもの。 それが今では五段六段が当たり前となった。まず、『ヒカルの碁』のブームでこどもたちが目を向けた。そして、「碁を打ちたい」というこどもたちの声に、各地の教室・指導者が受け皿となった。さらにインターネット対局が普及して、こどもたちの棋力は全体的に底上げされた。こどもの大会は史上まれに見る激戦となっている。 初の決勝同士 有力候補が次々に倒れ、本戦トーナメントは混戦模様が深まる。「二日目に入って、ますます大変な熱気ですね」と観戦していた審判長の秋山次郎八段。「拮抗した実力」の十六人のなかから、山下くん(静岡)と石井くん(広島)が勝ち抜いた。両者とも初の決勝進出となった。 山下くんは自宅が碁会所ということもあって、自然に碁を覚えた。少年少女大会には特別な思い入れを持っていた、という。 「去年、この大会の二回戦で負けてしまって、。それがすごく悔しかったみたいなんです」と、お母さんの惠さん。そのころから目に見えて碁へ取り組む姿勢が真剣になった。この大会に照準を合わせて、春頃からは「毎日遅くまで部屋からパチパチ石の音が聞こえた」そうだ。山下くんによると、おもに韓国年鑑を並べていたそうだ。とくにお気に入りの棋士は李世セキ九段。「攻めの強さと読みの深さがすごい」という。 一方の石井くんは『ヒカルの碁』をきっかけに碁を覚えた、というからまだ三年ほど。山下くんが努力家なら、石井くんはマイペース。碁ももちろん好きだけど、それよりも碁中間と遊んでいるのが楽しい。碁の勉強は週に一度、仲間同士で誘い合ってリーグ戦を行うくらい。そのほかではインターネット対局をやはり週に一度くらいのもの。和気あいあい友達と碁を打っているうちに(「ひたすら実戦で強くなりました」と石井くん)、いつのまにか力をつけたタイプだ。「僕らは環境に恵まれているよね」と、石井くんは碁中間 の吉川一くん(広島)と二人でうなづきあっていたものだ。 冷静に対処 決勝を前に、山下くんと石井くんは「ここまできたら勝ちたい」と口をそろえていた。 握って先番となった石井くんは、「(中学生では)最後の大会ですし、決勝まで進んだら、なにか『やってやる』つもりでした」。初手5の五から意欲的な立ち上がりを見せてくれた。 だが、この奇襲作戦は、残念ながら結果には結びつかず、短手数での決着となった。敗れた石井くんは「準優勝でも満足です」という。 会心の内容で初優勝を遂げた山下くんは、笑顔を浮かべて「これまで少年少女大会ではよい成績を残せていなかったので、これで気分が晴れました」と笑顔を浮かべた。この優勝により、八月二十六日からのアマ本因坊戦の全国大会にも招待される。「楽しみですね。でも気が緩むスキがないなあ」とうれしい悲鳴だった。 | |
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| ◆粥川 ◆伊藤 ◆05年06月03日 19:47 | |
小学校一、二年の頃、隣に住んでいた沼本さんから粥川というところに遊びに行くので、ただちゃんも一緒にどうぞという誘いの声がかかかりました。 沼本さんというのは、戦後間もない頃、二軒ならんで立っていた同じ造作の借家に隣同士で住んでいたお宅で、おじさんはその町にひとつしかない、まだ旧制中学から新制高校になってまもない武儀高の英語の先生をしてみえました。その家の子供は、義郎さんという高校生と、安江さんという中学生の二人でしたが、僕とは年が違いすぎるため、一緒に 遊ぶようなことは一度もありませんでした。ただ、武儀高でひらかれた町民運動会で義郎さんが町内対抗リレーの代表として先頭を疾走する勇姿を遠くから眺めていたことを覚えています。 あるとき、沼本さんの家の風呂が故障したからといっておじさんがうちへ風呂を借りにみえた時、一回だけおじさんと一緒に風呂に入ったことがあります。そのとき、おじさんは英語を教えてやろうといって、スタンダップと言ったら立ちなさい、シットダウンと言ったら座りなさいと言いました。裸電球に照らされた薄暗い五右衛門風呂の洗い場で、おじさんが体を洗いながらスタンダップ、シットダウンと言うたびに風呂桶の僕は立ったり座ったりしました。 英語と言えば、その当時毎日夕方に放送されていた連続ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌「とんがり帽子」が、あるときから英語で歌われるようになりました。それを聞いた母親は早速隣の家へ行き、英語の歌詞をカタカナで書いてもらってきて家の壁に貼り付けました。僕は今でもその歌詞を断片的に覚えています。出だしの「緑の丘の赤い屋根」 は確か「ルック アット ザ レッド ルーフ オン ザ グリン ヒル」だったと思います。また、「めえめえ小山羊も」が「メエメエ リトル ゴウト」となっていたのを見て、動物の鳴き声は英語でも日本語と同じように言うのだなあと感心しました。 沼本さんの家には、おじさんの弟が住んでいましたが、その人は頭がおかしいため働かないで毎日家に閉じこもっているという話でした。ある朝、母親から何か用事を言いつけられて裏口から沼本さんの家へ行ってみたら、その弟さんは二畳ぐらいの離れみたいな小さな部屋で和服のまま火鉢にあたりながら新聞を読んでみえました。 ある日学校から帰ると、家には沼本のおばさんが母と二人でいました。弟さんが暴れだしたのでおばさんは僕の家に逃げてみえたということです。そこへ狂った弟さんが追いかけて来て、おばさんと母の顔をなぐってから外へ飛び出していったということを、おばさんは僕に半分泣きながら話されました。 粥川へ遊びに行く沼本さん一家から誘いをうけ、僕は母が出してくれたよそ行きの半ズボンに履き替えました。一緒に行くのは、沼本さんのおじさんとおばさんと安江さんの三人だけで、義郎さんは留守番とのことでした。僕は、安江さんというお姉さんが一緒だったので、なんだか心がうきうきしていました。 越美南線の美濃駅へいって汽車に乗りました。それは蒸気機関車の後ろにいろんな種類の貨車が何両かつながり、その後に二両か三両ほど客車がつながっている汽車で、野や川で遊ぶときに何度も見かける汽車と同じでしたが、乗るのは初めてでした。僕は窓際に座り、汽車が動き出すと夢中で外の景色を眺めました。 駅をでるとすぐに僕が魚とりをしたり土筆や蓬を摘んだりする川や土手にさしかかりましたが、それもあっというまに通り過ぎました。そして汽車は古城山と武儀高の間を進んだあとすぐにトンネルに入りました。 トンネルを抜けると、左手に大川が見えてきました。向こう岸は見覚えのある発電所です。それは中部電力立花発電所といって、遠足の時に学校から歩いて行ったところです。遠足のときは大きな鉄管が川の方へ斜めにくだっている水路の横で弁当を食べました。弁当のあと、先生に連れられて発電所の建物の中に入りました。発電所の人が電気を通すと 暗くて高いところで大きな火花が走るのを見ました。それはほんの数秒のことでしたが、皆とてもびっくりして暗闇に浮かび上がった太い火の棒を見上げていました。 立花発電所を過ぎ、幼稚園の遠足で行ったことのある洲原神社の森を過ぎると、そこから先はもう知らない土地でした。川幅はだんだん狭くなって山が迫ってきました。ある駅にとまったあと発車してしばらくすると、十人ぐらいの団体が橋をわたってゆくのが見えました。その中の二三人は、兵隊のような格好をしていました。うちの洋服ダンスにしま ってある国民服のような服を着て戦闘帽をかぶり、歩調をとって歩いていました。のぼりや旗を持ったひともいました。それはきっと兵隊に行っていた人が前の汽車で帰って来て、迎えに行っていた人たちと一緒にこれから村へ帰るところなのだと僕は思いました。 汽車はそれからいくつかの駅にとまった後、粥川という駅に着きました。僕たちはそこで降りて、川に沿ってあるきはじめました。その川は僕がいつも魚を捕まえいく、谷川と呼んでいるよりは少し大きい川でしたが、川の様子は谷川によく似ていました。 土橋をいくつかわたると川は山に沿って流れるようになりました。僕たちは山のほうからの谷水が川に合流しているあたりで少し休みました。僕は谷水の流れる岩陰ですぐに沢蟹を見つけて捕まえました。それを手に持ち、蟹を捕まえたといって見せに行ったら、安江姉さんはとてもびっくりして、どうやって捕まえたのかしきりにききました。 休憩をしたところからあたりをみまわすと、谷水を樋で引いて柄杓に落としている仕掛けが目にはいりました。水が一杯たまると柄杓はシーソーのように下へ傾いてたまった水が流れ落ち、柄杓が空になると今度は上に向かってもとの位置まで持ちあがり、そこに水が落ちてきてまた柄杓に水がたまる、という動きを繰り返していました。その柄杓の柄の もう一方の端は小屋の中に入っていて、外からはみえません。僕は安江姉さんと一緒に薄暗い小屋の中にはいってみました。小屋の中の土間には掘りごたつのような小さな木の桶がはめ込んであって、そこに白い米がはいっていました。 そして、柄杓と反対側の柄の端は杵になっていて、外で柄杓が上下に動くたびにこの杵が桶の中のお米をつくような仕掛けになっていました。 僕はこの仕掛けに感心してとても気に入りました。それから、うちでは麦ごはんしか食べないのに、ここでは麦のまざっていないお米が誰も見張っていない小屋に置いてあるなんて、本当に大丈夫だろうかと思いました。 休憩のあと、川幅が狭くなり大きな石が目立つようになってきた川に沿ってしばらく歩いていくと一軒の茶店が見えました。僕は今日行くところがどんなところかよくわかりませんでしたが、粥川のうなぎを見に行くということは知っていました。僕が谷川へいって捕まえてくるいろんな魚の中には、時々どじょうによく似た八目うなぎが混じっていまし たが、本物のうなぎはそれまで見たことがありませんでした。でも、うなぎの骨は食べたことがあります。それは、たれをつけてよく焼いたうなぎの骨を三個ぐらい割り箸にはさんだものです。どこかの店屋で売っていたそのうなぎの骨を、友達の吉田君のおばさんが買ってきて僕にくれたことがありました。僕はそのことを絵日記に書きました。割り箸に 挟まれているうなぎの骨を一本一本細かく書きました。そうしたら、先生から返された絵日記には赤い字で、おいしかったですか、と書いてありました。 川の中をのぞいても本物のうなぎは見えませんが、どうやらその茶店のあるところが今日めざしてきたところのようでした。おじさんは、茶店に入ってうなぎのえさを買ってきました。みんなで、川の岸の石の上に立って、水の上にえさを落としました。すると、どこからともなくうなぎが集まってきて、えさを食べ始めました。僕もえさをもらってうな ぎにやりました。うなぎはまるで水の底から際限なく湧いてくるような感じで、次から次へと頭を出しては水の中にもぐっていきました。うっかりすると、僕もその中へ吸い込まれそうな気がします。何匹いるのか数え切れないほどのうなぎが長い体をくねらせながら塊となって水のなかをぐるぐる回っていました。 僕の記憶はそこで途切れています。その後どうしたのか、どうやって家へ帰ったのか何一つ覚えていません。僕のその日はそこで終わりました。 | |
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| ◆中野坂上便り〜その二十二〜 ◆谷口 ◆05年03月18日 13:03 | |
| やっぱり日本酒がいい。 田舎の父はずっと地元の「竹の露」という二級酒を飲んでいた。小ぶりな電気燗つけ器があって、毎晩二合ほどそれで燗をして飲んでいた。四、五日で一升瓶を空けていたんだな。冷では飲まなかった。 冷たくして飲むということも、そういう酒もなかったように思う。というか子供だった自分には酒は「竹の露」しか知らなかったし、祭りのときの振舞い酒以外は酒は燗で飲むものだと思っていた。 田舎の小さな祭りだった。入れ替わり立ち替わり茶碗酒を一気に飲んで、また神輿を担いでいく大人たちを、その茶碗にまた一升瓶からどぶどぶと酒を注ぐおばさんたちを、いつもとは違う祭りのときの火照った光景をよく覚えている。あれは冷でないとね。そういえば神様と関係する酒はみんな冷だね。 落語にあったな。 美女に誘われてその家に行く。酒の仕度をしてくれる。「燗にしますか。それとも冷で」と声がかかる。「燗で」と答える。うきうきと待っている。と、目が覚める。夢の中の出来事。そして一言「あの時、冷で飲めばよかった」という落ち。 古今日本では、酒といえば日本酒なのだ。 しかし、日本酒は健康によくないなんていう人がいる。焼酎、ウイスキーのように蒸留してあるものがいいと言う。医者も多くがそっちをすすめる。 アメリカから来た新興宗教「健康教」が日本を席巻している。肥満は社会の敵の如くで、会社でも学校でも隔離されそうだし、健康補助食品は、農産物、魚産物を押しのけますます元気だし、健康の二文字が入らない物はヒットしないし、健康になるために病院はますます混雑を極めるし、今に「健康のためなら命を捧げます」なんて人も出てきそう。現にどうみても健康によくないから「やめなさい!」と声を掛けたくなるようなジョギングマンもいる。倒れそうなのだ。無理をしているのが見える。何が彼を走らせているのか。「健康」に取り付かれたとしか見えない。「健康のためなら命捧げます」の部類だ。 「肉体の健康」を神と同等にまでたかめたアメリカは、ほんとうにいつも余計なお世話ばかりしてくれる国家だ。まわりまわって日本酒まで飲むな、よくないという。いい加減にしてくれ。 不健康はよくないけれど、多少の疾病とは仲良く同居するものだ。回虫が体内からいなくなったから花粉症で苦しむ。潔癖な健康ははたして健康なのか。酒飲みの自己弁護か。 白玉の歯にしみとほる秋の夜は酒はしづかに飲むべかりけり 若山牧水 まあ季節は違うけれどこうありたいし、これがビールやワインやウイスキーじゃお話にならない。 最近は全国の日本酒がデパート地下の酒屋に並んでいる。ラベルを眺めているだけでも楽しいけれど、ちょっと高価になりすぎた気がする。 感覚的に言うと、酒、一升、三千円。かな。これ以上のものは、ちょっとやり過ぎですよと言いたい。あては今の時期、はたはたの一夜干しが一番。 中野坂上に春の雨はあがって、そろそろ赤提灯に灯がともる頃。 酒はしづかに飲むべかりけりといきたいね。 | |
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| ◆中野坂上便り〜その二十一 ◆谷口 一 ◆05年02月18日 13:40 | |
| 「だから言わんこっちゃない」そんな声が聞こえてくるし、そんな顔もされる。 その瞬間に「バキッ」と右手首の骨が折れたと分かった。「ウッ!」と唸ったまま気が遠くなっていくように感じた。どのくらいの時間、倒れたまま腕を抱えていたのか。長い時間のようだったけれど、たぶん一分か二分だと思う。ただ痛い。大きめの手袋はうまい具合にスポットぬけた。右手首の甲の方の人指し指の付け根、ちょうど手首が曲がるより少し上あたりが見る見る内に腫れ上がっていく。倒れたまま動く左手で、雪を集めて右手首を雪に埋めた。このままの状態でいると、ゲレンデの救急隊がピーポーピーポーとけたたましくスノーバイクでやってくるのは見えている。それだけは避けたい。みっともないおじさんは嫌だ。とにかく上半身が起き上がれば。左手の肱で起き上がっていく。こう座っていれば休んでいるように見えるだろう。腫れが止まる。大きめの手袋をまたはめ直して、患部には、ポケットにあった軍手を雪の中に埋めて冷たくしたものを当てる。上着のポケットが上手い具合に胸のあたりで縦に切れている。そこに右手を押し込む。これで固定が出来た。転んでから十五分はたった。痛みはそのままだけれど落ち着いてきた。両足はバインディングに固定されたままボードに付いている。外れなかったのだ。これは幸いだった。この手で外れたバインディングを締め直すのは不可能だし、歩いてずっと下のゲレンデの医務室に向かうのも気が遠くなるような距離だった。 あと五分休んだら、ゆっくりと膝から立ち上がって、そろりそろりエッジを利かせて滑り降りていけばいい。この腕でもう一度転ぶわけにはいかない。今度は本当に気を失うだろう。まだまだスカスカの骨ではないようだ。ポキンとは折れていないようだ。頭の中に理科室にあった骨格標本が浮かんでは消える。冷汗が出ているんだろう、それが冷気で冷やさせて顔面が痛いほど冷たい。まだ蒼白だろうな。左手で毛糸の帽子を深くかぶる。 スノーボードは面白い。チョー!はまってしまったのだ。 スキー場にスキーヤーの姿がまばらになり、スノーボーダーが溢れる。世の流れ。 裏山の竹を曲げてスキーもどきを作り、すべっていた頃から四十五年、ゲレンデスキー、山スキーと久しんできた身には「何のスノーボード」とずっと思ってきたけれど、ストンと宗旨替え。 スノーボードは気持ちいいのだ。何故だ? 北から来たスキー、南から来たスノーボード。 スキーは手足の延長である二本の杖と二枚の板を駆使し、あくまでも雪を雪原を征服するために発展してきたように思う。 かたやスノーボードはサーフィン、波乗りの延長。一枚板の上に乗り巧みに体重を移動させ、波と同化する。その雪上版。征服ではなく自然との同化協調共生。時代はスノーボードなのだ。 あれから二週間。スノーボードまだ出来ない、スキーまだ出来ない、登山もまだ無理。雪山を目の前にして何をすればいいのか。週末の楽しみは・・・雪の楽しみ。記憶をたどって、三十年前に求めた「かんじき」に行き着いた。雪上散歩。今、流行りのスノーシュー(西洋かんじき)ではない「和かんじき」である。映画「またぎ」で西村晃さんが履いていた(と思う)。 これがフイットするのだ。雪深い落葉松の林。時々ケモノの足跡。彷徨う。スキットルにチェリーブランデーを入れて。当分はこれで楽しめそう。いい磁石が欲しくなる。 | |
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| ◆擬古集 ◆コスミ ◆05年02月07日 14:55 | |
| 口上 かのかくれなきうたびと高橋睦郎うし、いにしへのやまとのうたの姿をまねび、「祝詞」「神楽歌」「催馬楽」「今様」「隆達」なんどめでたくうたひいだせり。なづけて「倣古抄」といふ。 さてここに「尖」(コスミ)なる痴れ人、つれづれなるままにさらにかれをなぞり、たちまちに数篇をなせり。いとつたなきままに消閑の一興とせむとはする。あへて「擬古集」ととなふ。 けだし、「ギコギコ」とは老いたる腰のいたみの謂ひなるべし。あら笑止や。 長歌「黄瀬川讃」 并反歌 吾(あ)が立てる この断崖(きりぎし)は うちえする 駿河の国の ひむかしの 果てにしあれば 見はるかす かの山なみは たまくしげ 箱根の山と つらなるは みなみの彼方 あもりつく 天城の嶺ぞ かきかぞふ 三島のさとと まなかひに へだて流れる こひごろも 黄瀬の川瀬は あしたには 川霧ふかく さひづるや 小綬鶏(からかけどり)の 「ちょっと来」と妻呼ばふ声 岸辺に さわき響(とよ)もす 夕べには 小鴨は集ひ ぬばたまの 黒き川鵜は 巖に立ち うろくづねらふ 久方の 秋空は澄み 高光る 雲のはたてに 真白にぞ 富士が嶺たてり 三十年(みそとせ)を ほとりに住みて 朝に日(け)に 見れども飽かぬ はしけやし 黄瀬の流れは あかあかと天城の空の明けゆけば 黄瀬の川瀬に黄金なみたつ 愛鷹のはだらの雪の消えがてに 身にしむ風は川くだるなり 狂言「碁大名」 (太郎冠者)これはこのあたりに住まひいたす者でござる。今宵はまことに良い月夜じゃによって、市道(いちみち)に浮かれでやうかと存ずる。かやうな月の宵は見目よいおなごも門口に罷り出でやうず。 まづはそろりと参らう。ヤこれは如何(いか)なこと、頼うだお方があのように縁先に碁盤を引き出してゐらるる。盤のそばには酒のふくべまで置かれているは。近頃なにかといふと「太郎冠者相手をいたせ」と申される。またヘボ碁のお相手はかなわぬが、気づかれずそばを抜けることもできまい、ハテ如何したものぞ・・・ヤ、よいことにここな透垣(すいがき)の破れ穴がある。この穴から抜け出ようと存ずる。ではそろそろと参らう・・・ザリ、ザリ、ザリザリ。 (大名)ハテ、あの垣根のあたりからザリ、ザリザリと音が聞こゆる。狸かいたちかと思うたらこれは何としたこと、太郎冠者ではないか。丁度よいところじゃ、ここへ参らせやうぞ。 「コリャヤイ、太郎冠者なんとしてそこにおりゃる。こちらまで参れ」「南無三これはしたり、見つかったか」「早う参れ」「ただいま参りまする」「ここへ来やれ」「お前に」「何ゆえにあのような垣のこぼちから抜け出ようといたいたぞ」「されば今宵はよい月夜じゃによって、市道に浮かれ出でようかと存じました」「なに、月夜に浮かれてか。らちもない、そのようなことをせずともここにて一番碁の相手をつかまつれ」「今宵はご勘弁を」「イヤ勘弁ならぬ、チャとすわって石を取れ」「是非もない。それではお相手つかまつりまする。私が白の碁笥を引きまする」「なんと白石を取る奴があるか、こちによこせ」「手前がいつも勝ちまするによって白石をとりました」「なれど身どもは汝の主(しゅう)なるぞ。碁は礼に始まり礼に終わると聞く。主に白を譲るは礼のはじめなり」「エエ、らちもないことをおしゃる、では白石をとられませ」「さればまずこのように九つの星に石を置く」「待たれませい。白が石をおくといふことはありませぬ」「なに、白石を置くことはないといふか。されば聞かせやう。いにしへ (謡う)『鵲(かささぎ)のわたせる階(はし)に置く霜の・・・』 といふ歌がある。じゃによってこれは白い鵲の橋じゃ」「これは異なことを仰せらるる。なれど主とあればせんないことかな・・・さればこのあたりから参ろうと存ずる、ビシ」「まづはこの橋をつないでおこう、バシ」・・・ビシ、バシ、ビシ、バシ・・・ 「だいぶ手数もすすみたれば、この白石を切り取っておかう、ビシ」「ヤヤッそれは気がつかなんだ。しばし待たれい」「いやなりませぬ」「なんとならぬとな。主の命(めい)じゃ」「これは碁盤の上のことでござる。」「碁盤の上のことであっても主の命じゃ」「さてさてまたも御無体なことを。それでは今宵は私から約定を願いあげまする」「なに約定とな、申してみよ」「その約定とは『待った』ひとつにつき、そこなふくべの酒を一盞(いっさん)所望いたしまする」「なに酒をのませよとな」「なかなか」「ウウムあの酒は播磨の舅(しゅうと)殿より戴いた大事な酒じゃによって、やるわけには参らぬ」「さやうおしゃるならばこの一目戻すわけにはゆきませぬ」「エエイせんもない。欲しくば勝手に取られい」「では遠慮なう頂戴いたしまする・・・グビ、グビ、・・なるほどこれは良い酒じゃ。今宵の月に一段とうまうござる」「エエやくたいもない、杯を置いて早く打たれい」「心得ました。ではこの白地の中へ、ビシ」「なんとわが陣のなかへズカリと打ち込むとは無礼なやつじゃ、討ち取ってくれやう、バシ」「次にここへ伸びまする」「ヤ、目がなうなった。待たれい」「ハハまたでました、それでは待ちますによってもう一盞頂戴いたしましょう。グビ、グビ。・・・なんぞ肴など欲しゅうござる」「肴なぞないは」「ではこの隅の三目を肴といたしましょう」「まっこと癪なやつかな」 ・・・・・・・ 「何かと申すうち、そろそろ一局も終わりとなりました。こうやって見渡しましたところ黒地がだいぶ多いとみうけまする」「なに、黒地が多いとな、ウウム口惜しやまた負けたか。エエイ酒(ささ)でものまう。ヤヤ、ふくべには一滴(しずく)もないぞ、汝がみな食べたか」「いや気がつきませなんだ。許されませい」「許すものか」「ゆるされませい、ゆるされませい」「やるまいぞ、やるまいぞ」「ゆるされませい、ゆるされませい」「やるまいぞ、やるまいぞ、やるまいぞ」 今様 ○ なゐふる国に生まれじや おほ波こそはのがれまじ ほとけのみよの過ぎてのち ひとのなさけのうれしきは ○ この世に さい(財)は積むとも 座して喰らふて 消えはてむ かうべに さえ(才)あれば すゑの代までも たのみなるらむ ○ 老いたるのちの楽しみは 温泉 からおけ 愛敬(あいぎょう)孫の相手とか 夜長ともなれば 碁うちにまさるものなけれ 小歌(閑吟) ○ 虫になりたやなう かげらふに 夕べにむまれて あしたの風に消ゆとかや ○ ほろろと さけはのままし ひとり のままし しみじみと さけをのままし ふたり のままし ○ 浅き夜に あさき夢みし なほさらに あさきこの世に みじか夜に みじか夢みき おもかげは なをものこれど ○ くるくると はとがなくぞい 日もくるる わがみもくるる | |
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| ◆老子は悟りの世界の住人だった ◆すばる ◆05年01月16日 07:26 | |
| 論語は孔子先生の日常の教えを記録したもの、現実の会話の集成である。一方、 老子は抽象語が多く、孔子より後世の書生達による現実逃避の抽象論にすぎない ....と考えていましたが、これが全くの誤解だったと分かりました。 きっかけは『私の宗教的体験』というホームページを出されている方が、その基 となる本に『単純な生活』という名前を付けて、老子の教えに近づく形での老後の 日々を実践されている事を知ったところにあります。 これほどの人が老子を尊重する以上、老子=抽象論+法家+孫子 ではないのかも と思いはじめました そして、中塚善次郎先生の老子解説を読んで、老子全編がすべて悟り体験の告白で あることを知り、はじめて納得がいきました。 老子の第一章は格調高い深遠な文で始まっているというのに、後半では権謀術策の ような駆け引きを推奨するなんて、なんか変だなぁ、と思っていたのですが、その 駆け引き推奨のように思われた部分までが、悟り体験から出て来る見識であることに 納得がいきました。 中塚先生は、悟り体験の四聖として、釈迦、老子、ソクラテス、キリストを挙げ られております。 加島祥造先生の『伊那谷の老子』という本がありますが、老子の各章が、漢字読み 下し文ではなく口語自由詩として、悟り体験の心境詩が並びます。発想の基となった のは、欧米ではここ百年間の間に、老子がさまざまに解釈されて出版されており、 そのいづれもが、悟りの境地を述べる自由詩のスタイルをとっているとのことでした。 一方、漢文世界の碩学である志賀一朗先生の『老子の新解釈』は、老子の各章が 三段論法のもうひとつ前の三段的論法によって展開されていることを発見して、それ により、論旨・文意が納得できるようになった....と喜んでおられますが、老子全編 が抽象的哲学ではあっても、悟り体験とは考えられていない。 ここにも、専門家が置いていかれ、欧米の素人連や、日本の門外漢達が、老子の 真実にはいっていけたという、逆転の構図があり、驚いているところです。 【追記】無為にして為さざるなし....という名句がありますが、無為を推奨する 老子がなぜ有為のかたまりである農業をやるのか?それは矛盾ではない か、と不快な気持ちでいたのですが、これも誤解でした。 無 = 自然の調和循環のいのちの流れ 為 = 自然の流れ、いのちの流れを妨害するような人為的施策 宇宙といのちの自然な流れに包まれて、それに身を委ねて柔軟に生きて いくことこそが、おのずといろんな知恵が湧き出て、幸福な日々を形成 していける....という教えでした。 | |
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| ◆中野坂上便り 〜 その二十 〜 ◆谷口 一 ◆04年12月27日 16:38 | |
| 蓼科の山にやっと雪がきた。 12月26日朝6時、氷点下5度の空気の中に塵のような粉雪が舞って、地表は霜で所々白かったが雪はなかった。7時半を過ぎその塵雪がやや大きな粒になって強い風に舞っていた。八子が峰の稜線に雲が流れ覆われ、スキー場の降雪機のモーターの音が遠くなった瞬間。本格的な雪が来た。見る見るうちに5cm、10cmと積もっていく。 この雪は根雪となって、ここら辺りに遅い春がやってくる4月の末までは融けないだろう。 白樺湖の湖面も凍って、その上に降り積もった雪で白一色。来月末には、氷上でのわかさぎ釣りのシーズンが始まる。 小屋から湖畔の酒屋まで歩いて10分。降り続く雪の中を長靴履きに毛糸の帽子、羽毛のベンチコートという完全装備で出てきた。もう15cmは積もっている。初積雪祝いのビールを求めて、新雪に靴あとをつけていく。振り返ると白樺の林の雪道に思いのほか大きな靴あとが、深くついている。夜の雪だったら、ケモノの足あとを探せたのに。まあそれは次週以降に取っておこう。雪が積もってくれたことに今朝は感謝しよう。ずっと心待ちにしていたんだから。買い求めた缶ビールの袋をポケットの手からぶら下げて、来た道を登っていく。ほんの5分後の復路に、横なぐりの雪は靴あとをもう半分ほど埋めている。1時間もたてば靴あとはすべて埋まり、深い新雪に覆われ、一人の男が歩いた記録を消し去ってしまうだろう。 24時間稼動のスキー場の降雪機の奮闘には感心するものの、出来る雪はわずかなもので、ブオ〜ンブオ〜ンというモーター音が夜中、風の中に時折むなしく聞こえていた。 しかしこの自然の力は、見渡す限りの山を林をあっという間に白銀の世界に変えてしまう。冬枯れた荒涼たる白樺と落葉松の林を白一色、厳冬に染め上げてくれた。 裏の丸太に腰掛けて、降り続く雪に冬に乾杯だ。ここではビールを買い置きしておけない。屋内でも留守にしている間に凍って破裂してしまうから。冷蔵庫があれば中に入れて温めておくのだけれど、真夏でも必要ないからそれもない。買った分は全部飲む。 冬が春を作るから、冬はしっかりと冬でなくてはならない。いいかげんな冬だといいかげんな春が来て、またいいかげんな夏が来る。 今はしっかりとした冬だ。きっぱりとした気温だ。もう昼間でも0度より上がることはないだろう。ずっと融けなかった霜柱は雪の重みで形を変えたとしても、春まで雪の下にあるのだろう。 夢に見る。裏の林の雪の上に無数のケモノ達の足あとがあり、その中にいつかの夜に見た、角の驚くほどりっぱな大鹿のものがあり、カンジキを履いた自分がそのあとを追っていく。沢を尾根を追っていく。シートンが教えてくれた。足あとを完全に追っていけば、 100%その個体に会うことが出来ると。 雪が降ったことで山の小屋の生活にまた楽しみが増えた。でも今週の山の生活もあと数時間、午後には車の屋根に雪をのせて東京に向かっているだろう。 戻ったら、山道具屋でカンジキ留めの細引きを新調しよう。 | |
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| ◆第2次MLB(メジャーリーグベースボール)観戦の旅−その3 ◆野口法之 ◆04年12月22日 16:27 | |
| (6)ニューヨークとグラウンドゼロ 翌11日は移動日。シカゴで乗り継いでニューヨークまで、時差を含めた時刻ベースで11 時間弱の空の旅です。 ホテルにて、こちらでお世話になるUの友人のS.K氏にお目にかかりました。同氏は当 地の銀行に勤務され、観劇等のエンターテインメントに造詣が深く、この関係のチケット を手配してくださいました。さらに同氏はローラースケートを趣味とされ、ニューヨーク 市で行われる大会の常連であるとか。この日もスケートシューズを手にしておられました。 市内でローラースケートを気軽に楽しむことができるそうで、ニューヨークの別の一面を 見たような気もします。 明けて12日(土)、徒歩と地下鉄で市内観光の途次、グラウンド・ゼロに立ち寄りました。 事件から時間も経っており、見学者も程々といった感じ。地下鉄の一駅は臨時閉鎖された ままですが、路線も周囲も元と変わりません。柵に囲われた未整地の跡地だけが事件を語 ります。 道路を隔てて向かい側にあるセントポールズ教会も訪ねてみました。こんなに近くにある のに健全に残っているのも不思議な気がします。テロ後は救助復旧に携わった人たちの作 業支援のために施設が提供されたとのことでしたが、当時を語る品々が残っています。 感想は差し控えましょう。 (7) パドレス対ヤンキース 本日のMLB観戦は、ヤンキースタジアムにてサンディエゴ・パドレス対ニューヨーク・ ヤンキースの薄暮ゲームです。 ここで私の大失敗。テロ以来、野球場の警備が厳しくなり、一定容積以上のバッグは透明 でなければいけないことになっています。承知はしていたのですが、所持品の関係で通常 のバッグを持参したため、交換所にてポリエチレンの袋に詰め替えて$5を支払う羽目に なってしまいました。今後観戦される方はご注意あれ。 さて、試合は13安打で累上を賑わせたパドレスが非効率な攻撃を繰り返し、少ないチャ ンスをものにしたヤンキースに3対2で敗れました。翌日の日曜日のナイターは派手な展 開で、松井秀樹も大活躍でしたが、今日の試合は地味、松井も活躍の場をつかめませんで した。 ニューヨークの治安は、旅行者が普通に行動している分には不安はありませんが、ヤンキ ースタジアム周辺は過去にはかなり問題があったとの話も聞いておりましたので、私の観 戦選択は日のあるうちに帰れる薄暮ゲームにしたわけですが、結果論ながら翌日ならばも っと面白いゲームを見るチャンスのあったのに、惜しいことをしました。 (8)観劇・美術館など文化活動も 今回、ニューヨークには正味4日間滞在しました。MLBを2試合、そしてエンターテイ メントについては前記S.K氏が、最高水準のイベントを選んでチケットを確保してくだ さいました。 (a) ニュー・アムステルダム劇場におけるミュージカル“42nd Street" “42nd Street"はこのあと、日本公演があるとか。この分野のことに私は詳しくあ りませんので、論評はパス。 (b) メトロポリタン・オペラ・ハウスにおけるアメリカン・バレー・シアタによる"SWAN LAKE" (c) ジャズライブハウス (d) 美術館 アートでは創立者の邸宅をそのまま美術館にした「フリックコレクション」にて、独特の 鑑識眼で収集されたという美術品を鑑賞。 また「ジューイッシュミュージアム」でモジリアニ展を見ました。 K「世界中から数百点の作品を集めるには莫大な金がかかるはず。それが10ドル程度の 入場料で見られる。日本では考えられないね。さすがNYだ。」 とKは感服しきりでした。日本の美術館からも2点出品されていました。 Kが関心を示していた美術館がもう一つあります。マンハッタンの北端にあるクロイスタ ーズ美術館。地図で見ると午前中に出れば午後の野球の開始までに間に合いそうな距離に 見えますが、そこがアメリカの広さか、「交通機関が不便なので、時間の制約があるので は勧められない。」とフロント。これまでニューヨーク滞在のたびに見学の機を狙ってい たKでしたが、今回もお預けになってしまいました。 「日本棋院ニューヨーク碁センター」にも立ち寄りました。こちらはシアトルとは違って、 1、2番街の中間の52ストリート沿いにあり、分かりやすい。日本から期間派遣の指導者 が滞在しており、すこしお話が伺えました。 このセンターのお客さんは、比較的裕福な家庭の子弟が多いとのこと。訪問したときも、 ちょうどフィリピンからニューヨークに駐在中のビジネスマンの若い奥方と子供二人がお 客として来ておりました。 二人の女の子はおそらく学齢前、それでも「アタリ」ぐらいは分かるらしく、二人で石を 捕りあって遊んでいました。 お母さんのほうは指導碁ですが、棋力は井目以下。この日は黒が井目を布いて、「黒の石 が1個所でも生きたら黒の勝」というルールで指導をしていました。途中まで見ていまし たが、黒はなかなか生きそうもない状況。ちょっとユニークな指導法ですが、海外の場合、 棋力が違いすぎるときに下手の興味をつなぎ止める方法として、こんなのもありかな、と 思いながら辞去しました。 もうひとつ、Kの学生時代の友人のS.S.氏ご夫妻が当地に永住しておりますので、お住 まいに寄せていただき、ご夫妻からニューヨーク生活のあれこれを聞かせていただきまし た。場所はリンカーンセンターの近く、日本式に言えば高層マンションの高階部分で、居 住空間も展望も申し分ないお住まいです。ワールドトレードセンターも真正面に見えてい た由。その節はありがとうございました。 | |
| 04-0035 | |
| ◆おじいさんの話 ◆コスミ ◆04年12月20日 21:08 | |
| 今年ももう十二月か。この月になるといつも思い出すことがあるんだ。今日はその話をしてみようか。 わしがまだ小さかった頃、そうそれは昭和19年(1944)の12月7日のことだった。 わしはまだ11歳で小学5年生だった。もっともその頃は小学校とはいわず「国民学校」といっていたがね。 その日わしらのクラスは午前の勉強時間を終えて、お弁当を食べたあとは午後から「茶の実ひろい」に出かけることになっていた。そのころは日本は戦争の真っ最中で、物資は何もかも乏しく身のまわりはもとより、戦争に必要な資源にも事欠いていた。それで石油のかわりになるもの、茶の実や掘り起こした松の根から油をしぼるため、それらを集めて国民が一生懸命供出したもんだ。 そんなわけでわしらクラスの数十人は、担任の先生に連れられて学校から2,30分ある山のほとりまで歩いていった。 めいめい母さんのつくってくれた布の袋を持ってたんぼの中をとおり、それはそれで遠足のようで結構楽しいものだったよ。 わしの生まれた町は全国でも有数のお茶の産地で、あちらこちらの畑や山の斜面などには茶畑がいっぱいあった。山と言ってもせいぜい数十メートルの小高い丘のようなもので、その丘の茶畑に生徒たちは広がっててんでに競争で茶の実ひろいをはじめた。 お茶の実って見たことあるかい。親指の爪くらいの大きさで茶色につやつや光っているのさ。低い茶の木の下を這うようにしてのぞくと、そのつぶつぶが敷きわらのあいだにころころところがっている、運がいいと一カ所に十粒も二十粒もかたまっているんだ。それを布袋に入れ時々友達とその量を見せ合ったりした。 しかし子供たちはすぐにあきてしまう。小一時間もすると男の子どもは茶の実ひろいなんかほっぽり出してお互いに遊びまわっている。わしも2,3人の友達と一緒に山の斜面につきだしたこぶのようなところにまたがって、下に広がるたんぼや遠い町並みなどを眺め回していた。 その時だった。なにか地面の底からわき出すような低いうなり、貨物列車が遠くから向かってくるような轟音が聞こえてきた。すると自分のまたがっている土のこぶが左右にゆらゆらとゆれだした。なんだか馬の背にまたがって揺られているようでちょっと気分が悪くなった。最初は何がなんだかわからなかった。目の前にあった小さなため池の水が、かなだらいを揺すったときのようにチャプチャプと揺れ、たんぼのあぜ道がクネクネと踊っていたのは覚えている。山の木々が風もないのに一斉にザワザワとさわいでいた。 そのうち50メートルくらい先の、たんぼの中に立っていた農家(ただの納屋で人は住んでいなかったようだ)が左右にゆさゆさとからだを揺すると、ぐしゃりとつぶれてしまった。「ドサ」とか「グシャ」とか音がしたんだろうが、いまでも思い出すその光景は、まるで無声映画のようにゆっくりと沈んでゆく屋根の姿だけだ。その時ようやく地震だと気がついたのだ。 先生はすぐに子供たちを集めると学校へ引き返した。帰ると校舎の一棟が完全にペチャンコになっていた。幸いその時生徒も先生も入っていなかったそうだ、 家に帰る途中の家並みは外見からはそれほどひどく見えなかったが、傾いている家もだいぶあり、そのうちの一軒は30度くらい傾いて電信柱に寄りかかり、ようやく倒れるのをがまんしていた。 また町のおおきな医者さんの石壁がぜんぶ崩れ、町通りいっぱいにちらばっていた。なんでもその時どこかのおばさんが歩いていて大けがをしたという話だった。 うちに帰ってみるとどうやら我が家はたっていた。家族もみんな無事だった。家の中ではタンスなどが倒れたかもしれないがよく覚えていない。でもこの地震で我が家はすこし傾いてしまった。それからというものは、どの戸を閉めても上か下か柱との間に2,3センチの三角の隙間ができるようになってしまった。うちは貧乏で直すお金もなかったのでずっとそのままになっていたが、そのうち子供のわしらは家とはそんなものかと慣れてしまったよ。 それからも余震はたびたび起きた。いまの基準でいえば震度4や5の揺れはしょっちゅうだった。まえにも話したようにその頃はアメリカなどと戦争の真っ最中、いやもう終わり頃といったほうがいい。とても日本は勝ち目はなかったのだが、一般の国民はそんなことはわからない。わしら学校の生徒たちは最後に必ず勝つお信じていたし、先生もそう教えていたもんだ。 でも現実の生活はどんどん苦しくなる。それに毎日のように空襲警報、こんな田舎の町にも上空を敵機がブンブン飛んでくる。もっとも実際の攻撃こそほとんどなかったけど、空襲警報になると学校の授業はただちに打ち切り、こどもたちは防空帽というザブトンを折ったようなものをかぶり、急いでうちに帰される。実はわしらはそれが嬉しかったがね。 そんなときでも地震は一週間に一回以上やってくる。子供たちはわりと平気だったけれど親たちは気の休まる時がなかったじゃないかと思う。あるときはズック靴をはいたままふとんにもぐった楽しいこともあったっけ。 大晦日の晩もお正月になっても余震はおかまいなくつづいた。わしの兄弟は多かったのでお正月には家族みんなでカルタ取り(百人一首)をするのが毎年のたのしみだった。 正月二日の夜、座敷でみんなでカルタ取り、読み手はいつもおとうちゃん。障子や窓には黒いカーテン,電灯も今みたいにあかるくない。それは町の明かりがもれて敵機の目標にされないためだ。そこへまた地震が起こった。たぶん震度4くらいだっただろう。みんなあわてて裸足のまま外へとびだした。姉さんは気がつくと取ったカルタの束をしっかりとにぎりしめていた。 そんないろんなことがあったのだよ。 あとで知ったことだが、その地震は「東南海地震」とよばれて歴史に残る大きな地震で、東海地方から紀伊半島にかけて津波やおおきな被害を出し、死者も千二百人以上も出たそうだ。 しかし当時の新聞もラジオもあまり報道はしなかった。(テレビはまだなかったしね)それは戦争中ということで、国内の災害を騒ぎたてると敵国の有利になるとか国民が不安になるとか、時の政府はそう考えたためといわれている。翌年の八月には戦争は負けてしまったけどもね。 こないだの新潟の地震もひどかったね。みんな元気にお正月を迎えられればいいんだが。 | |
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| ◆第2次MLB(メジャーリーグベースボール)観戦の旅−その2 ◆野口法之 ◆04年11月18日 16:21 | |
| (3) 日程計画 かくてでき上がった日程は、以下のとおり。 6月 9日 夕刻成田発 当日朝シアトル着。市内観光後、セイフコフィールドにて シアトルマリナーズ対ヒューストンアストロズ観戦 10日 シアトル周辺観光 11日 シカゴ乗り継ぎでニューヨークへ 12日 ヤンキースタヂアムにてニューヨークヤンキース対サンディエゴパドレス観戦 13日 ニューヨーク観光 14日 ニューヨーク観光 15日 シェイスタヂアムにてニューヨークメッツ対クリーブランドインデアンズ観戦 16日 シカゴ乗り継ぎにてサンディエゴへ。午後、サンディエゴ観光 17日 ペトコパークにてサンディエゴパドレス対タンパベイデビルレイズ観戦 18日 サンディエゴ観光後、アムトラックでロスアンゼルスへ。 19日 ドジャースタヂアムにてロスアンゼルスドジャース対NYヤンキース観戦 21日 ロスアンゼルスより帰国。 野球日程の関係で、西海岸を2回に分けざるを得なかったのはやや非効率でした。航空会 社はハブ空港の関係からUA、航空券は、こういう日程にはおあつらえ向きの「格安航空 券の4都市ゾーン制」を利用しましたので、運賃は米国西海岸までの往復料金のみで米国 内の料金はかかりません。サンディエゴ・ロアンゼルス間はその権利を放棄してアムトラ ックを楽しみますから、その分は別途持ち出しです。 (4)シアトル市内観光後、MLB観戦へ シアトルには6月9日(水)の午前中に到着します。ホテルに荷物を預け、パイクプレース マーケット、ウエストレークセンターなどを観光、そのあと、シアトルセンターにある展 望台スペースニードルへモノレールで行く予定でしたが、事故で運休のため、歩いてしま いました。 スペースニードルでシアトル全景と食事を楽しみ、一度、ホテルへ戻って休憩したあと、 再び徒歩で約40分、パイオニアスクエアを横目で見ながら、本日のMLB観戦スタジア ム、セイフコフィールドへと向かいました。 さて、今日のカードはシアトル・マリナーズがヒューストン・アストロズを迎えてのイン ターリーグ3連戦の最終戦。今年のマリナーズは、昨年から戦力がさほど落ちたとも思え ないのに、アメリカンリーグ西地区で断トツ最下位に沈んでいます。客足もその分落ち、 私たちの観戦ゲームの中では最高の席を確保することができました。 初回、マリナーズはイチローのヒットを皮切りに二死満塁まで詰め寄りますが無為。エー スのガルシアを立てながら3回に集中打を浴びて3点を献上。その後アストロズの4投手 の継投に完封され、マリナーズの3対0の完敗でした。マリナーズは前日も完封負けで、 21回連続のゼロ行進が続いているのだそうです。 このゲームで、幻のホームランが2本ありました。翌日の新聞によると、“A homerun robbing play" と出ておりました。一つはマリナーズの中堅手ランディ・ウインが、も う一つは三塁塁審デール・スコットがホームランを”奪った“、とあります。 前者は、スタンドインしそうな打球を中堅手がフェンス越しにキャッチしたファインプレ イで、ままあることですが、後者はちょっとめずらしいケースです。7回裏、3対0とリ ードされたマリナーズの攻撃で、走者を一塁に置いてオーリリアがレフト線にフライを上 げます。三塁塁審はベースを蹴ってボールの行方の確認に走り、僅かにポールを掠めたホ ームランと判定します。直ちにアストロズの三選手が抗議、 塁審のスコットは他の三審判と協議し、判定を覆えします。当然ながらマリナーズのメル ビン監督は猛然と抗議。その結果今期3度目の退場処分です。 おもしろいのは当のオーリリアの反応。「そのこと自体には問題ないさ。問題があるとす れば、350フィートも離れていた俺にも分かることが、100フィートのところにいた奴 (審判)に分からなかったことだろうよ。」打った本人は、ファウルであることが分かっ ていた、というわけです。 (小稿を「天地」で読んだ読者から、「このゲームをテレビで見ていたが、誤審がリプレ イでよく分かった。」とのコメントをいただきました。いくら良い席に座っても、観客席 からは微妙なところは分かりません。テレビの効用ですね。) そして、そのオーリリアは7月、パドレスへトレードされてしまいました。同じころ、元 首位打者のオルウッドも後進に道を譲るべく引退を余儀なくされています。もっともオル ウッドは間もなくヤンキースに拾われ、先発出場していますが、ヤンキースの一塁手は多 士済々ですから、その地位を守るのはベテランにとって容易でないでしょう。私たちもシ ニアの一員として、彼のがんばりを応援したいものです。(その後彼は、体調不全の巨砲 ジオンビー、他チームに行けばレギュラーの勤まるトニー・クラークを押しのけて、先発 出場を勝ち取っています) それにしても私たちの帰国後もマリナーズの極端な不振は続いています。ベテランから若 手への切り替えに失敗したのが原因ということで、ようやく手が打たれている状況ですが、 日本のファンとしてみれば、イチローの活躍が実るためにも、来期に向けてチームの構造 改革に期待したいところです。 さて、Uの友人のS氏がスタンドに来てくださり、Kと私は初対面の挨拶。野球談義をし ながらの観戦となりました。S氏もMLBに詳しく、最近の現地のテレビで話題になった こととして、「最近、イチローの守備でいいプレーが少なくなった」とのファンの声に、 コメンテータが「相手チームが彼の肩を警戒して走者を自重させているためだ」と答えた ということなど、いろいろな話を紹介してくれました。 (5) シアトル郊外の観光 Uの友人のS氏は航空機メーカーに勤務し、ここ数年、当地のボーイング社に出向してお られる技術者です。今日、6月10日は私たちのために休暇を取って、シアトル周辺を案内 してくださいました。 話はそれますが、私ども3人は実は囲碁将棋の愛好者でもあります。シアトルの日本棋院 米国西部囲碁センターの所在を調べてありましたので、まず連れて行ってもらいました。 早朝にもかかわらず、Presidentの Kirschner氏が出勤しておられ、お話を伺うことがで きました。岩本九段の功績がたたえられていることはもちろん、盤石や資料も整っており、 フロアの一角に畳の部屋もしつらえてあります。 Kirschner氏「昨年フェアモント・オリンピック・ホテルで棋聖戦(羽根・山下)のタイ トルマッチ第一局が行われたときには、この畳を運んでホテルの一室を和風に仕立て上げ たんですよ。」 氏も5段ぐらい打つとのこと。日本にも選手を引き連れて訪れたこともあるとか。一局所 望されましたが、いくら碁好きでも今は観光時間の方が貴重。丁重にお断りしました。 現地はシアトル郊外の住宅地にあり、旅行者が簡単に訪ねられる場所ではありません。現 地に詳しい方の案内なしには、場所を捜し当てることすらできなかったでしょう。 さて観光ですが、ウォーターフロントを山側から見、シアトル大学、航空博物館を見学。 午後、一日遅れで到着するU夫人を空港に出迎え、そのあとチッテンデン水門で水位差調 節と鮭の階段を楽しみ、最後にS氏の居住する優雅なマンションに寄せていただきました。 私たちのために一日を割いてくださったS氏のホスピタリティに、この場を借りて改めて 感謝申しあげます。(つづく) | |
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| ◆第2次MLB(メジャーリーグベースボール)観戦の旅−その1 ◆野口法之 ◆04年11月04日 13:41 | |
| はじめに メールマガジン「囲碁倶楽部便り」を愛読しています。伊藤さんの「辛口時評」は同世代 として共感するところ大ですし、「水口ワールド」では囲碁史の綿密な調査と考証に大い に啓発されます。 そんななかで42号に掲載された"幼稚園社会日本(その15)" <プロ野球観戦ーその1> を拝見したので、伊藤さんに小稿をお送りしたところ、「長文エッセイ」への掲載のお勧 めをいただいた次第です。 小稿は、ただいまメールマガジン「天地シニアネットワーク テーブル」に掲載中である ことをお断り申しあげます。「長文エッセイ」での内容はほぼそのままといたしますが、 一部加筆修正いたしました。 拙い「野球観戦の旅日記」が「便り」に掲載されることを光栄に思いますし、多少とも楽 しんでいただければ嬉しく思います。 (1) プロローグ 以前から関心を持っていたアメリカのメジャーリーグベースボール(MLB)をはじめて 見たのは1998年の秋口でした。日本人大リーガーでは伊良部(ヤンキース)と吉井(メ ッツ)が大活躍した年で、ニューヨークのヤンキースタジアムとシェイスタジアムとに足 を運び、3試合を見て、孤独な環境で奮戦している野茂以下の日本人選手、大リーグ選手 のパワーから観客の反応まで、大リーグ野球のすべてに大きな感銘を受けました。 帰って友人のKにそんな話をしたところ、それでは野球観戦の旅をしようではないか、と いうことになりました。考えをめぐらした結果、あまり訪れる機会のないアメリカ中部の 都市を野球に合わせて観光しよう、となり、「MLB観戦と米国中部地方都市観光の旅」 と勝手に命名しました。二人だけでは寂しいが、こんな酔狂な計画に乗ってくれる御仁が あろうとも思いませんでしたが、私の高校時代の友人、U夫妻が賛同し、4人の旅が実現 しました。 2週間弱でクリーブランド、セントルイス、カンサスシティ、アトランタとまわり、4試 合7チームを観戦し、各都市のエキスを満喫、セントルイス・カンサスシティ間は列車移 動を楽しみました。1999年6月のことです。 それから5年、Uの友人がシアトルとニューヨークに駐在中で、両都市の観光案内をして くれるがMLB観戦を兼ねてどうか、との連絡。前の旅行に味を占めていたKと私は一も 二もなく賛成。私が全般的なことと野球観戦計画、Uがホテル手配と現地の友人との連携、 Kが観光の詳細と現地の諸事項、とおよその役割が自然と決まり、かくて「第2次MLB 観戦と観光の旅」が始まりました。 (2) 計画はインターネット ニューヨークのヤンキースとメッツの二つのスタジアムへ行きたい、というKの希望、サ ンディエゴというメキシコ国境の町の雰囲気を味わいたい私、ある意味で観戦が難しいロ スアンゼルスのドジャースタジアムもこの際見ておきたい。 こうした要件を入れて、個人の都合、野球の日程、チケットの入手可能性、航空機の利用 可能性から効率的な日程を組むのはちょっとしたパズルですが、この際、ありがたいのは インターネット。居ながらにしてああでもない、こうでもない、とシミュレーションがで きます。航空機はもちろん、サンディエゴからロスアンゼルスまで利用しようかと考えて いたアムトラックの細密な時刻表がすぐ得られるのですから、便利な世の中になったもの です。 5年前、人気チームのチケットを取るのはたいへんでした。クリーブランド・インディア ンズは当時の常勝チーム、チケットはシーズン開幕前に売切れてしまいます。観光資料の 片隅で見つけた「チケットあり」という現地の代理店(ダフ屋ではない)の広告には電話 しか載っていません。いろいろな行き違いがあって、前後3晩にわたって電話し、現物は 現地のホテルに届けてくれるよう頼んでようやく成約。しかし、試合当日、ホテルのコン シェルジュでチケットを手にするまで安心できませんでした。 しかしそれも今は昔、通常のチケットはMLBの公式サイトで定価で入手できます。ただ し、人気カードは別。 私たちの全体日程が決まる前からインターネットで空席状況を見ておりますと、毎日のよ うに良い席が売れていくのがよく分かります。これは焦りますね。 日程のおおよそのメドがついたところでチケットの注文作業に入りましたが、これがけっ こう戸惑うところがありました。要件を入力すると契約条件が表示されますが、そんなに 早くは読めません。読んでいるうちに制限時間が切れてしまい、何度か同じことを繰り返 してやっと完読して成約。ところが次の球場の作業に入ると、最初の球場で入れたデータ が生きてくるため、入力データの確認もしないうちにあっという間にチケットが入手でき てしまう、という早業。 幸いにして入力ミスはありませんでしたので、問題は生じませんでしたが、もし間違いが あったらどうやって取り消すんだろう。そもそも入力確認をしないうちに成約完了という システムがどうみてもおかしい。おそらく私の操作に何らかのミスがあったのでしょう。 今後のために、インターネットの達人に教えを請いたいところです。 購入手続きには、クレディットカードの番号を入力するステップがあります。昨今のネッ トの安全問題からして勇気のいるところですが、MLB.COMのセキュリティシステムを信頼 して「えいっ」。カード番号は16桁のうち下4桁しか表示されませんし、幸いにして、今 日まで無事です。 チケットそのものは、試合の当日、"Will Call" という窓口にEメールのコピー、使 用したクレディットカード、パスポートの3点を提示して受け取ることになります。 MLBはちょうどこの時期、インターリーグ(日本では実現していませんが、セとパの公 式交流試合のようなもの)にあたるため、総じて人気が上がっています。地下鉄シリーズ として有名なニューヨークのヤンキース対メッツ戦など、私たちの訪米可能な日程の範囲 にあったのですが、諦めざるを得ません。チケットの入手できる別のカードにしました。 計画していたロスアンゼルスも同じこと。しかしここはぜひ行きたい。しかし、別の友人 が調べてくれたTIKET.MASTER の価格は想像を絶する高値です。諦めかけたところで、私 の遠縁がニューヨークで観光業を営んでいることを知り、折衝の結果私たちの許容範囲の 価格で入手できました。こちらは日本語のメールですから、コミュニケーション上の問題 はありません。 ダイヤモンド社の「地球の歩き方」シリーズのなかに「大リーグ観戦ガイド」(以下、 「MLBの歩き方」と呼びます)があり、毎年改訂出版されていますが、この本は「スグ レモノ」です。これとインターネットがあれば、大リーグ野球観戦計画はほとんどできて しまうと言って過言ではないでしょう。(つづく) | |
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| ◆中野坂上便り 〜 その十九 〜 ◆谷口 一 ◆04年10月19日 11:20 | |
| ずっと欲しかった大工道具セットをネットオークションで買った。鋸、鉋、金槌、ノミ、錐、曲尺、釘抜き、ペンチ、ニッパー、巻尺、木槌、ドライバー、ねじ釘等々17点セットだ。それらが木箱にきっちりと納まっている。 宅配便で届きその木箱を開けた時の嬉しさは、もう遠くの昔に忘れていた「少年の感激」というものだった。みぞおちの奥の方から湧いてくる声にならない声「わあっ」というものだった。一つひとつ手に持って眺めた。鉋も鋸もノミもまだ一度も木に触れたことのない鈍い輝きだ。一通り眺めたら丁寧に元通りに納めて木箱を閉じる。数分立つとまた開けてみる。眺める。飽きないのだ。それらがきっちりと納まった木箱の重さもまたいいのだ。手に持って何歩か歩いてみる。 木箱に彫刻等で名前を入れようかと思う。なんで名前を入れるのかと問う。やめた。 初仕事は、これもオークションで買った紀州のクスの一枚板、一人でやっと持ち上げることが出来る半乾燥の荒板。これを鉋でシュッツシュッツと、削り屑は花かつおと思っていたが、そんな上手くはいかない。板面がささくれ立ってすぐに断念。金槌で刃を何度も調整し、面取りだけで終わった。板をもっと乾燥しなくてはならない。 藪を歩いていて先が焦げたまっすぐの棒を見つけた。鍬の柄のようだ。捨てられて焚き火にでも投げ込まれて、燃え残ったものだろう。全体に乾いた泥も付いている。はたけば土ほこりが出る。焦げてない方も二十cmほどひびが入っている。長年鍬として使われ、さすがに強い樫でもひびを生んで用を足せなくなったのであろう。しかしこういった握りの道具は、両手で握ってみて初めて手にしっくりとくるのがわかる。たとえ先のない柄だけだとしても。 一度は藪に捨てたその棒の握りの感触を手の平が覚えている。また藪に入り拾い上げてくる。燃えて炭化した部分を鋸で切り落とす。ひびが入った部分を切り落とす。切り口は泥の付いた表面からは想像もつかないほどのきれいな白木だ。これは文字通りの拾い物だ。約二尺。 今僕は信州蓼科にいる。山梨の白州町まで車で1時間弱。ここに正心館という剣道場がある。この道場には戦国時代末期より陰陽小太刀の形が伝えられている。藤沢周平原作、山田洋次監督の映画「たそがれ清兵衛」で清兵衛が使う剣の形である。もともとは清兵衛は戸田流の小太刀の使い手ということになっているが、戸田流は江戸時代に途絶えてしまったという。映画ではこの陰陽小太刀の形である。小太刀は二尺七寸から二尺までの剣。 僕は例の棒に鉋をあてた。握りの部分は軽く、切先に向かっては丁寧に何度も鉋をあてた。重さを残すために深くは削らない。一心に。そう時間が経たずに一本の小太刀の木刀が仕上がった。これからは半分が焦げた泥だらけの棒を誰も想像できないだろう。白木の一本の木刀だ。左手の小指で握る。一度二度振り下ろしてみる。ビュッツと風を切る。握りにまた少し鉋をあてる。 こんなことは初めての経験ではない。子供頃何十本もこうやって木を削った。その頃は鎌と肥後の守(小刀)が道具のすべてだったが。下を向いてずっと木を削っていた。目を上げればいつも夕暮れだった。 信州の山中では日が落ちた瞬間、冷気に包まれる。鉋に詰まった木屑を払い、道具箱のふたを閉める。小太刀だけが夕闇に白く浮いている。 | |
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| ◆<蛭観察体験ツアーの募集> ◆長良川 ◆04年09月26日 11:41 | |
| 日本には蛭という名の付いた地名が少なくない。蛭ヶ野というのもその一つの例である。 ちなみに、蛭ヶ野は奥美濃にあり、私も一度だけ訪れたことのある大変美しいところで ある。地名になっているくらいだから、昔は蛭がたくさんいたのであろうが、今は高原 リゾート地として有名である。 蛭ヶ野に限らず、私がこのあいだ蛭の体験をした谷川岳山麓も美しいところである。 谷川温泉の奥にある大学の寮に一泊した翌朝、5時間で山頂に達するという谷川岳の登 山道の最初の部分を往復2時間の行程で、7人の仲間と森林浴をしたのであるが、その とき生まれて初めて山蛭に血を吸われるという体験をした。他の者は皆蛭にまつわりつ かれながらも誰一人として血を吸い取られた者はおらず、自分だけがなぜ足の付け根の 部分を8カ所も蛭に吸い付かれねばならなかったのか不思議でならない。自分だけが特 異体質なのか、あるいは他の者はみな運動靴なのに自分だけが本格的な登山靴をはいて いたという足下の装備の違いによるものなのか、本当の理由は定かではない。 この蛭による吸血のおかげで、両方の白い靴下が真っ赤な血染めの靴下になってしまっ たのは、見るのも恐ろしいことであった。 蛭に吸い付かれても、痛みはなく少しむずがゆいだけなので、蛭に吸い付かれているこ と自体に気がつかないくらいである。しかし、蛭が血を吸った後は、血が止めどもなく 流れ出して、2時間程は血が止まらない。どうも蛭は最初に吸い付いた時、血液を固ま らせない物質を人の体内に送り込んでいるらしい。 蛭のこの性質を利用してスイスのチバガイギーという製薬会社は、集めた蛭からこの物 質を抽出し、血液凝固防止剤を製造しているという話を、同行していた仲間の中の一人 の動物生理学者が教えてくれた。 そういえば、昔の民間療法にも、蛭を集めてきて悪い血を吸わせて病気を治すというの があった。 我々現代人も、悪い血を人に1年に1回ぐらいは蛭に吸ってもらった方がいいのではな かろうか。皆それぞれがそれなりの悪事を働いて悪い血が相当たまっているに違いない のだから。 それに加えてこのような体験をすると、気持ちいい、気持ち悪いとはどういうことか、 美しい、醜いとはどういうことかといった哲学的な考察の機会を与えてくれて、物事を 深く考えるようになれるという効用もある。 このようなことを考えると、蛭に血を吸われるという体験は、少なくとも一生に一度は しておいた方がいいということになる。 そこでこのたび、谷川岳山麓をフィールドとする蛭の観察体験ツアーを企画することに したので、皆様の参加を心より期待している。ドイツ旅行なんかよりも有意義で深くて 豊かな満足が得られること疑いなしだ。 行こう、谷川岳山麓へ!(参加人員1名で決行予定) 蛭に血を吸われて喜んでいる方へ 体験記を読ませていただき、不思議と観察体験ツアーに行ってみたい衝動に駆られまし た。蛭に血を吸われるのはあまり気持ちのいいものではないと思います。でも吸われる 人が決まっていますし、血染めの靴下も秋の紅葉に映えるのでと思います。 なお、足の付け根部分8ヵ所とありますが、足首あたりではないでしょうか。足の付け 根部分だと大変なことになります。 いずれにしても、皆それぞれそれなりの悪事を働いて悪い血が相当溜まっているという 記述は抹消していただきたい。なぜ一緒に行った方は吸われなかったか。山蛭は賢くて 知っているのです。悪事を重ねて真っ黒な血をたくさんストックしている人間を・・・ 谷川岳蛭観察ツアーに、佐藤が参加しますのでよろしくお願いします。 | |
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| ◆百聞は一見に如かず/科学の教条よりも直接体験 ◆すばる ◆04年08月29日 12:56 | |
| ロバート・ピーターソン著『体外離脱を試みる』という本があります。臨死体験 は危険ですが、平常状態のまま霊魂が離脱できるならば、何回でも試行できます。 著者は、ロバート・モンローの体外離脱の本に接し、10代後半でしたが、半信 半疑ながら、自己流にあれこれと方法を工夫して、体外離脱にチャレンジ。数年の 間に100回余の体外離脱を体験するに至りました。 その一つ一つについて、どのような状況でどのようにやってみたか、どのような ことが起きたか記録をつけて、方法を開発〜改善し、生起したことの意味の考察を 繰り返しています。 その直接体験の結果、宗教が教条主義であることは当然ながら、現代科学の教え もまた、現実を無視した教条主義に過ぎないとの反省に至っています。 私自身、仏教の教えに遠慮して、「霊魂が死後も存在するとは言いにくい」だった のですが、もう一つ、科学の教えにも遠慮して、「霊魂が存在するとは言いにくい」 の気持ちでいたのですが、ロバート・ピーターソンの素直な感想に賛同し、今後は 科学に対しても、胸を張って「霊魂は存在している」と言えるようになりました。 著者は、幼少期によく遊んだ友人に嘘つきの常習者がいて、ために何が嘘であり 何が真実であるのかの見極めを余儀なくされ、推論・考察の技を発達させます。 幼稚園時代から、童話には見向きもせず、ひたすら科学解説本や図鑑に夢中。高校 生時代はコンピュータに打ち込んで、大学の公開講座もすべて受講。大学の実習室に 入りびたりで、年齢が倍も違う大人達が、この少年に教えを乞う状態であり、ビル・ ゲイツ君のような天才少年でした。科学的・論理的思考の熟達者なので、非論理的な ことを主張するタイプではありません。 以下、体外離脱を初体験後の著者の感想を引用します。 --------------------------------------------------------------------------- 百聞は一見にしかずである。私は自分が体験したあのバイブレーションと音、 身体の自由がきかなくなったこと、青いエネルギーの輪などを信じないわけに はいかなかった。それを「閉じた目」を通して「見た」のである。 あれは幻覚でもなかったし、私の気が変になっていたのでもない。夢を見て いたのでもないし、催眠術にかかっていたのでもない。あの体験は、通常の 鮮明な意識状態のときと同じか、あるいはそれ以上にはっきりとした現実感 があった。 私が最初に考えたのは、物質界以外の世界が存在するということだった。この 考えは、それまでの科学的な信念とは真っ向から対立するものだった。 さらに、私は考えた。アインシュタインの相対性理論では、彼はエネルギーと 物質は同じだと言っている。すると、もしもある人が身体を離れて、完全に物質界 以外の世界に入ったとしたら、その人はすでに我々が知っている物質でもなければ エネルギーでもないことになる。 科学は「意識」だとか「魂」といったものに席を用意していないのだ。科学は この世には三次元の世界(それと時間)と五感があるだけだと、私に信じ込ませ てきた。他のものはみんな、迷信か幻覚かあるいは信仰のなせる業だと決めつけ てきたのだ。 前提が間違っている場合、その前提をもとにはじき出された結論はすべて間違っ ているという、論理的な事実がある。科学が前提としたものが間違っていた、 あるいは完全ではなかったとわかると、私は現代科学が結論づけた多くのこと、 あるいはすべてのこともまた、間違っているのだと推論した。 少なくとも、科学は重要な事実を無視してきている。....たった一度の体外 離脱体験が、それまでの概念をすべて吹き飛ばしてしまったのだ。体外離脱を している間、私は自分が霊的な存在であるのを見ていた、というより、私は霊魂 そのものだった。 --------------------------------------------------------------------------- 【追記】 瀬戸内寂聴さんと玄侑宗久さんの対談を読むと、天台宗と臨済宗の身であり ながら、教義の範囲を一歩踏み越えて、死後も霊魂は存在し輪廻転生すること の現実的な根拠を手に入れたがっているように、感じられます。 寂聴さんのお姉さんが逝去された時、死に目に会えず、東京から駆けつけた 寂聴さんが病室に入ると、たまたま自分一人だけ。遺体にとりすがって、涙 ながらにあれこれと語りかけ、その最後に「聞こえているなら、唇を動かして ちょうだい」と頼むと、その通り動いたのです。 寂聴さんがびっくりしていると、お姉さんの長男が病室に入ってきました。 今起きたことを教えて、今度は二人で、もういちど唇を動かすように頼むと、 またまた動きました。 ....この話を読んだ時、私は2回連続だけど、死後硬直の一種類だろうと 思っていたのですが、ロバート・ピーターソン氏の体験では、通説に反して、 霊魂として部屋の上の方を漂っている状態で、自分の眼や腕を動かせたという 報告が出てきます。 ならば、寂聴さんのお姉さんが、自分の唇を動かしてみせることもありうる わけです。 | |
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| ◆有時の哲学<自己が時間である> ◆すばる ◆04年08月22日 22:16 | |
| 道元禅師の『正法眼蔵---有時の巻』に、次のような論述があります。 A 存在がそのまま時間である。 B 世界とは、自分自身が隙間なく配列されたものである。 C 自分を配列しておいて、自分がそれを眺めている。 これが、自己が時間である、という意味である。 D 自己が時間である以上、時間はどこにも去っていかない。 自己の今この瞬間は、過去現在未来をすべて含んでいる永遠の今である。 自己が時間である、とは何のことか? 周囲との人間関係がうまくいかず、自己 という概念が崩壊してしまった場合に、<離人神経症>という病気が現れますが、 自己が時間であることの具体的意味を教えられる気がしましたので、『臨死体験 研究読本』から、以下、引用してみました。 <離人神経症の症状告白・24才女性> ------------------------------------------------------------------------- 自分というものがまるで感じられない。自分というものがなくなってしまった。 自分というものがどこか非常に遠いところに行ってしまった。いまここでこう やって話しているのは嘘の自分です。何をしても、自分がしているという感じが しない。 感情というものがいっさいなくなってしまった。嬉しくもないし悲しくもない。 私が苦しいと言っているのは苦しいという感情のことではなく、苦しみそのもの のことです。私が苦しいという感じを持っているのではなくて、苦しいという ことがあるだけ。 私のからだも、まるで自分のものでないみたい。だれかの別の人のからだを つけて歩いているみたい。物や景色を見ているとき、自分がそれを見ているの ではなくて、物や景色のほうが私の眼の中に飛びこんできて、私を奪ってしまう。 いつも周囲の世界が私の中に入りこんできて、自分のほうからそれをどうこう するということができない。 音楽を聞いても、いろいろの音が耳の中に入りこんでくるだけだし、絵を見て いても、いろいろの色や形が眼の中に入りこんでくるだけ。何の内容もないし、 何の意味も感じない。 時間の流れもひどくおかしい。時間がばらばらになってしまって、ちっとも 先へ進んで行かない。てんでばらばらでつながりのない無数の今が、今、今、 今、今、と無茶苦茶に出てくるだけで、何の規則もまとまりもない。 私の自分というものも時間といっしょで、瞬間ごとに違った自分が、何の規則 もなくてんでばらばらに出ては消えてしまうだけで、今の自分と前の自分との 間に何のつながりもない。 空間の見え方も、とてもおかしい。奥行きとか、遠さ、近さとかがなくなって、 何もかも一つの平面に並んでいるみたい。高い木を見てもちっとも高いと思わ ない。鉄のものを見ても重そうな感じがしないし、紙きれを見ても軽そうだと 思わない。 ------------------------------------------------------------------------- 【感想】自分のまわりの現実は、自己という概念を基準にして秩序化・構造化 されて、把握されていた。 時間感覚も、空間感覚も、自己概念の上に意味付けされていたとは!! | |
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| ◆光の世界には時間も空間もない ◆すばる ◆04年08月22日 12:19 | |
| 道元禅師の時間論は、この現実の世界に関する時間論だと思っているのですが、 臨死体験者が霊魂状態で体験する<光の世界>の時間空間の説明がよく似ている ので、あわせて掲示しておきます。 ◆ベバリー・ブロドスキー(ケネス・リング著『光に学ぶ』より) 「この領域全体が時間の外側にあったと思われます。 時間と空間は、私たちをこの地球につなぎとめるための幻影です。 その外では、すべては同時に現在なのです。」 ◆高木義之(石井登・著『臨死体験研究読本』より) 「ここには物質的なものは何も無い。 ここには空間もないのだ。 ここには意識だけがある。 自分の意識とは別にもうひとつ巨大な意識がある。 その意識はすべての意識の集合体のようなもので、全体意識とよんでもいい。 自分はこの全体意識の一部なのだ。 全体意識にはすべてがある。 全体意識には過去現在未来のすべての出来事、すべての記憶がある。 過去の記憶、現在の出来事だけでなく未来の記憶もある。 ここには過去現在未来という時間の流れもない。 たとえるならば、すべて現在である。 時間は意識の中に認識としてだけある。 ゼロ次元というのは空間も時間も無いという意味である。 光の世界はゼロ次元。ゼロ次元はすべての次元に含まれている。 光の世界はこのすべての場所、すべての時間に存在する。 光の世界はこの世とつながり、この世のすべてを含んでいる。」 ------------------------------------------------------------------------ 【現実の世界と光の世界は同じものである】 以下『臨死体験研究読本』から、立花隆氏によるインタビュー に答えて、レイモンドムーディ博士の言葉です。 「この世とあの世とは時間的にも空間的にもわかれているのではなく、 実はつながっているのではないか。いやもっといえば、同じ世界なの ではないか。同じ世界なのに、見え方がちがっているのではないかと 思うのです。 我々はこの世における認識が全てだという気がしていますが、そうでは ない。我々はこの世ではほとんど何も見ていないに等しい。死によって、 人間の認識能力はとてつもなく拡大し、これまで見えなかったいろんな ものが見えてくる。」 | |
| 04-0027 | |
| ◆時間は過ぎ去っていくものではない。 ◆すばる ◆04年08月21日 18:34 | |
| 道元禅師『正法眼蔵----有時の巻』は、時間についての不思議な説明が展開され ていますが、普通の説明や解釈では、とても追いつきません。ところが、臨死体験 の体験談である『未来からの生還』ダニオン・ブリンクリー著を読むと、一致する 記述が多く、参考に並べておきます。 ◆有時(うじ)の巻 A 時間は過ぎ去っていくだけのもの....という理解がほとんどだが、実は 時間は過ぎ去っていくものではない。 B 昨日は山に登った。今日は学校にいる。明日はハワイに旅行の予定。 この昨日・今日・明日という3場面は、今この一瞬の中において、 共存しており、同時に目撃できるものである。 (これを道元禅師は、経歴=きょうりゃく と名づけています) 他にも有時の巻には、興味深い論述が多いのですが、それを言うと、 更に根本的な話になって、範囲が広がるので、省略です。 ◆未来からの生還 以下の文の「できる/見える」の主語は、ブリンクリー氏です。 C 数分後にかかってくる電話の相手、内容を予告できる。 D 数日後の強盗事件や、数週間後の心臓発作を、予告できる。 (これは知人に起こる出来事の予見です) E 現時点から20年後に及んでの歴史的事件の発生を、予告できる。 ブリンクリーは1975年に落雷で臨死体験。生還後、レイモンド博士の友人 となり、1980年少し前に博士に以下を予言した。 E1 1990年湾岸戦争が勃発する。 E2 1992年に2人で赤の広場に立ち、ソ連崩壊後の惨状を見る。 なお、歴史的事件の予言は117件あり、1993年までに95件が発生した そうです。レイモンド博士は、すべての予言を克明にメモしました。 F 通りがかりの誰かに目を向けると、その人の生活場面が見える。 G レストランで周囲の客と握手する都度、その相手のここ数日の出来事や 重大な問題点が見えてしまう。 これはレイモンド博士の要請に応じて、実演。すべて的中するので、 博士も脱帽。ブリンクリーには相手の現在や過去が見えていることを 認めるに至った。 H 今いる場所での百年前の情景と人々の様子が眼前に見える。 ◆結論 J「時間は、過ぎていくもの」 というのは実は錯覚であり、 「時間は、過去も現在も未来も、同時に観ることができるもの」 が正しい。 私すばるには意味不明ですが、道元禅師の<経歴>こそが現実ということです。 | |
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| ◆死後に霊魂は存在するか? ◆すばる ◆04年08月22日 13:46 | |
| 人生と宇宙の背後にあるかのように見える<死後の世界と魂の領域>ですが、 やっと確信を抱くに至りましたので、参考までに、まとめておきます。 ------------------------------------------------------------------------- (1)仏教の結論は玉虫色だった。 仏教には3つの結論が並存していました。道理で、あれこれ本を読む たびに、結論があっちに行ったり、こっちに行ったりしたわけです。 つまり、この分野に対しての仏教の説明は、あまり頼りにならない。 結論A お釈迦様方式 = 霊魂存在の結論を出さない。 (BC 400年頃) 死後の世界は、体験も証明もできないので、肯定も否定もしない。 それより、今ここに生きている現実を、より良くすることに努めること こそが大事である。 結論B 龍樹菩薩方式 = 霊魂は存在せず、人生に目的はない。 (AD 150年頃) お釈迦様の教説を、更に論理的に進めて構築しました。因果とは原因結果 の関係ではなく、相互依存関係であると喝破しています。 相互依存と部分集合から万物ができあがっている以上、必ず変化消滅する。 従って、永遠に存続できる霊魂のようなものは、因果の法則に矛盾する。 よって、霊魂は存在しない。 (この論理をはじめて読んだ時には、ううむ、なるほどと感心しま したが、だんだんと論理のアラが見えてきました。論理的すぎる と論理的に失敗する例です。) 南方仏教(テーラワーダ仏教)は、これ。南方仏教もお釈迦様の教説から、 少しずれているわけです。 結論C 六道輪廻方式 = 霊魂が存在し、死後は六道輪廻が待っている。 (BC 200年頃〜AD 300年頃) お釈迦様の哲学だけでは、民衆に溶け込みづらかったので、ヒンズー教の 輪廻思想や多神教信仰を取り入れて、インド社会にフィットする宗教改革が 起こり、仏教が宗教に変質して、ヒンズー教の一派になった時代です。 大乗仏教経典が膨大に製作されました。 日本の大乗仏教はこの立場ですが、現代の科学的常識には対抗しづらく、 餓鬼道や畜生道のような世界は存在せず、心の状態の比喩にすぎないという 説明で逃げる場合が多いようです。 ------------------------------------------------------------------------- (2)霊魂の存在と輪廻転生を確信。 今回、前世にさかのぼる退行催眠療法を知り、霊魂の存在を確信するに 至りました。以前からの証拠2件とあわせて、証拠3件となりました。 証拠D 臨死体験には、脳内物質による幻覚では説明できない部分がある。 D1 病院3階の北側端の窓の張り出し部分に、ブルーのテニス用シューズの 片方が落ちている。小指のところがすり切れ、紐がかかとの下になって いる....と、臨死体験の患者が証言。確かにその靴が確認された。 この患者は夜、救急車で運び込まれ、チューブやワイヤーでベッドに 固定されていたので、窓の外を見ている暇はなかった。 立花隆氏は、現地でこの状況を再現したが、靴の位置は窓からは見え ない場所だった。 D2 50年来にわたって失明状態にある人が、臨死状態中に使用された 医療機器の仕様を具体的に証言。失明以前に見たことのある機器から の類推では無理。 本人が浮遊霊状態で、機器をちゃんと見た....と解釈するしかない。 いろんな本を読んだので、代表本として、 米国のレイモンド・ムーディ博士『かいまみた死後の世界』 証拠E 生まれ変わりの実例が、多数存在する。 米国のスティーヴンソン博士『前世を覚えている子どもたち』。 5才〜10才の子供達が「自分はここの家の子ではなく、本当はどこ そこの町のなんという者だ」と訴える。現実に、その町その家に行き 裏付けをとるとその通り。本人は初めて会うのに、この人は誰、あの 人は誰と、正確に識別できる。 証拠F 退行催眠による難病治療が効果を発揮している。 米国のJLホイットン博士他・著『輪廻転生』 フロイトの理論では、幼少期の心の傷が原因で、成人後の心理的病状が 発生する。催眠により幼少期体験を自覚させることで、無意識の世界に 閉じ込められていた葛藤が解消し、病気が治る。 これを、幼少期を過ぎて、更に前世にまでさかのぼる。現実に難病奇病 が完治するので、退行催眠療法が成立している。 龍樹菩薩流に因果論を言えば<結果が存在する以上、原因が存在する>。 治療効果が存在する以上、前世の体験が存在する....と言うしかない。 つまり、前世が存在し、霊魂が存在する。 無意識の世界で架空の物語をでっちあげて、それが原因で病気になった という説明では、苦しい。 ------------------------------------------------------------------------- 【感想】仏教も含めて既存の宗教では、臨死体験/生まれ変わり/超能力など の実例を、ほとんど説明できない。宗教による悟りの世界の説明は、 一面的な限界がある、ということです。 臨死体験や超能力に縁のない身では、悟り体験の達成はテーラワーダ 仏教に頼るしかありませんが、 人生観・宇宙観としては、霊魂の存在と輪廻転生を基礎に置いて、 進んで行こうと確信するに至りました。 なお、この場合の輪廻転生とは、人は必ず人に転生して、魂の向上の 修行を続けていきます。 霊魂の世界には、懲罰のような低次元の運用はないので、現世の罪業 ゆえに地獄に落ちたり、動物に生まれ変わったりは、無いそうです。 | |
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| ◆(エッセイ) ◆コスミ ◆04年08月23日 10:03 | |
| 白楽天と音楽と 音楽はいうまでもなく音の連続で構成されている。しかし音だけでなくその音と音との間つまり空白部分(休止符)がなくては成立しない。空白時間といっても全くなにもないムダな部分ではなく、そこには重要ないっぱいつまった要素がふくまれている。いや時間そのものといってもいい。 かつて西欧では「時間」の観念を音楽のリズムのうえに求めていたという学説もあるくらいだ。 しかしここでそのような哲学的な話をしようというわけではない。 私が好きな楽曲のなかに、この休止符が重要かつたいへん充実した内容をもっているものがいくつかある。そのひとつにベートーヴェンのピアノソナタ二十九番 (ハムマークラヴィア)があり、ご承知のようにこの曲は壮大な構成と深い思索をもっていて、彼の作曲のなかで最も重要なもののひとつである。 私がこの曲を初めて聞いたのはずいぶん昔、たしか上野の文化会館ができて幾らもたっていない頃だったと思う。 演奏者もこれもはっきり覚えていないが、イェルク・デームスだったかパウル・パドゥル=スコダだったろうか。いずれにせよ当時新進気鋭の若々しい演奏ぶりで、おおいに感銘を受けたものだった。 その時聞いた二十九番の第三楽章はまことにすばらしいものだった。漲る情念と深い思索が込められ、潺々と心の底に沁み込んでいったことをいまでも思い出す。 特にその楽章の最終部、力強い和音がリタルダンドで次第に長い間をおきながらポツリポツリと鳴り響き、最後の和音のあとは長い長いあいだ、もう永久に次の音は鳴らないのかと思われるほどの間をおいて、ようやく終楽章の導入部に入っていった。 その間の沈黙、聴衆の息をつめる静寂は決して内容のない空虚ではなく、あらゆる和音が鳴り響き、さまざまの色彩のイメージが浮かび、そして作曲者と演奏者の思想が伝わってくる時間である。 まさに「此ノ時声無キハ声有ルニ勝ル」の瞬間であった。 本当をいうとこの有名な白楽天の詩句が私の頭に浮かんだのは、この演奏を聞いたときだったか、あるいはこの詩を初めて読んだときこの演奏が連想されたのか、その先後は今となっては定かでない。 しかしこんなピッタリした言葉がまたとあろうか。 その後いくつか別のピアニストのコンサートやレコードでこの二十九番を聞いたが、このようなじっくりとしたテンポで弾いたものは見あたらない。たいへんこころ残りのことである。 ところでここに引いた白楽天の詩句は、おおかたのご存じのように彼の代表作の一つ「琵琶行」の中の一節である。 この有名な詩篇をいまさら私が云々することはないが、この一文の第二テーマであるので少し私の考えなど紹介しておきたい。 もちろん素人の私に唐詩の解説などする資格はないが、吉川幸次郎先生の解説 (岩波新書)をそっくりいただいて、私なりに勝手な読み下しと意訳をしてみるので、考え違いの点はどうぞご容赦ねがいたい。 この長詩の成ったいわれは白氏自身がその序文で示している。 唐朝の官僚であり詩人であった白居易(楽天)は、剛直な性格が禍いし地方事務官に左遷させられた。そこはいまの江西省九江の草深い田舎町である。ここから 「琵琶行」八十八行の長詩ははじまる。 ある日その赴任地において、旅立つ友人の送別の宴を江上の船で催したが、田舎のこととて宴を引き立てる音楽とてない。主客とも惨めな気持ちで宴をお開きにしようとしたとき、近くの船から琵琶をかき鳴らす音が聞こえてきた。二人ともはっと耳をそばだて、いったい誰が弾いているのだろうとそちらに船を引き寄せてみると、美人が一人舟の中で琵琶を抱いている。これは重畳と再び宴を始め、ぜひ一曲聞かせてほしいと千万回頼んだ後、ようやく彼女は琵琶を抱いて顔を隠しながら出てきた。 そして楽器を取り上げいよいよ一曲の演奏が始まった。以下はその音楽の描写になるが、実際の詩句を掲げて進めて行こう。 軸ヲ轉ジ絃ヲ撥イテ三兩聲 (よみ) 〔ジク〕〔ハライテサンリョウセイ〕 未ダ曲調ヲ成サザルニ先ヅ情ノ有リ 絃絃掩抑シテ聲聲ニ思イ 〔ゲンゲンエンヨク〕〔セイセイ〕 平生ノ志ヲ得ザルヲ訴ウルニ似タリ 眉ヲ低レ手ニ信セテ續續ト彈ズ 〔マユヲタレ〕〔マカセテ〕〔ゾクゾク〕 説キ盡ス心中無限ノ事 〔トキツクス〕 輕攏 慢撚 抹復挑 〔ケイロウ マン ネン マツマタチョウ〕 初メ霓裳ヲ爲シ後六幺 〔ゲイショウヲナシ〕〔ロクヨウ〕 大絃ハ曹曹トシテ急雨ノ如ク 〔ソウソウ〕 小絃ハ切切トシテ私語ノ如シ 〔セツセツ〕 曹曹ト切切錯雜ト彈ズレバ 〔サツザツ〕 大珠小珠玉盤ニ落ツ 〔ギョクバン〕 間關タル鶯語花底ニ滑リ 〔カンカン〕〔オウゴ〕 幽咽タル泉流ハ氷下ニ難ム 〔ユウイン〕〔ナヤム〕 水泉ハ冷澁シ絃絶エタルト疑ワレ 〔レイジュウ〕 絶エテ通ゼザルカト疑ウトキ聲暫シ歇ム 〔コエシバシヤム〕 別ニ幽情有リテ暗恨生ジ 〔ユウジョウ〕〔アンコン〕 此ノ時聲無キハ聲有ルニ勝ル 銀瓶乍チ破レ水漿ハ迸リ 〔ギンペイタチマチ〕〔スイショウ〕〔ホトバシリ〕 鐵騎突出シ刀鎗ハ鳴ル 〔テッキ〕〔トウソウ〕 曲終リテ撥ヲ収メ心ニ當リテ畫ク 〔バチ〕〔ムネニアタリテエガク〕 四絃一聲裂帛ノ如シ 〔シゲンイッセイ〕〔レッパク〕 まずは糸の調子あわせの二,三音 それを聞くだけでもううっとりとする 始めは秘やかなもの思い 失意の日々を訴えているかのよう 伏し目勝ちに弾きつづけるは 胸に秘める万感をものがたる いろんなテクニックを使って はじめは軽やかな舞曲を奏でている 強いひびきは夕立のよう 小さな音はささやきに似て それらが入り交じって進んで行く まるで大小の珠が宝石の皿に転がり落ち あるいは花陰の小鳥のさえずり 清水が凍って流れがゆるやかになり ついには止ってしまったかのように 楽の響きはしばらく途絶えた ああこの時ひそかに哀しみは生まれ ああこのときの静寂は何にも替えがたい と、急に銀の瓶から燦めく水が迸ばしり あるいは騎士が躍出て剣戟をならすよう そして曲は終わりバチを胸に描けば 四つの絃は絹を裂くように響き渡った 私のへたくそな訳詞ではリズムもなにも伝わってこないが、この詩をみると白楽天は音楽についてすばらしい感性と鑑賞力を持っていたことがわかる。それにこの詩篇そのものがみごとな音楽性をもっている。原詩の唐音読みは私にはまったくできないが、当然きっちりと韻を踏んでおり、きっと音楽性豊かなものに違いないだろう。 もし初めてこの「琵琶行」を知った方がいたら、ぜひ読み下し文を文字の意味を考えながら声を出して二三度詠んでみてほしい。 さて長詩はさらに続く。弾き手の女性の身の上話となり、その零落の物語に詩人は現在の我が身の境遇を重ね、感慨ひとしおである。 そこでもう一曲の所望をすると、それに応えて女性は再び琵琶をかき鳴らした。するとあたりにたむろしていた船上のひとびとは、じっと聞き入り涙しない者はなかった。そのなかで最も感涙の多かった者はもちろん詩人自身であった。 以上が「長恨歌」とならぶ白楽天の傑作「琵琶行」の概要である。 ピアノコンサートから唐詩に話は移ってしまったが、ここで再び話は第一主題に戻ると、もう一つ私にはこの「此時無声勝有声」を感じる曲がある。これもベートーヴェンの曲で「弦楽四重奏曲第一番」の第二楽章のコーダの部分である。 おしまいから九小節目、第一ヴァイオリンが上昇楽句をクレシェンドで一気に駆け上がって次に三拍分の休止符がある。これが三小節繰り返し、後は次第におさまって静かに閉じて行く。この感情が極度に高まった直後の休止、つまり無言状態は何ともいえぬ美しい感興を催し、私にとって至福の一瞬ではある。 さてここは囲碁倶楽部のページである。そこでいささか牽強付会のきらいはあるが、囲碁の話もせずばなるまい。 囲碁はもちろん「地」を争うゲームである。「地」とは空白、その空白は決して無意味の空白ではなく、味方の石に囲まれた生きた陣地である。ムダのない効果的な空白を創るには、やはりある程度美的感覚が必要であろうか。いまはやりの言葉を使えば「左脳」だけでなく「右脳」も必要というところだろう。高段者の棋譜が美しく感じられ、私などヘボのそれがゴタゴタと見苦しいのはそのためである。 とってつけたようなコーダ(結尾)をもってこの拙文をおわりとする。 | |
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| ◆前のエッセイも直ぐ見れるよう工夫して下さい ◆バニラ ◆04年08月09日 22:19 | |
| 長文エッセイは心底待望しています。どうか大勢の方貴重なエッセイを見せて下さい。 事務局にお願いですが、過去に遡って見たい時に便利なように、例えば、標題の10文字ぐらいの目次を作って戴き、それをクリックすれば直ぐ見られる様にして頂きたいです。イメージものせられように期待致します。 | |
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| ◆林海峰『システム布石中国流』での歴史 ◆すばる ◆04年08月04日 21:38 | |
| 『システム布石中国流』2002年発行で、中国流の歴史を確認してみました。 (1)中国流の配置 黒5手R-11まで ハマ 黒0目 白0目 ABCDEFGHJKLMNOPQRST .1・−−−−−−−−−−−−−−−−−・ これは、南京第2局での .2|+++++++++++++++++| 黒の配置と同一です。 .3|+++++++++++++++++| .4|++○+++++・+++++●++| .5|+++++++++++++++++| .6|+++++++++++++++++| .7|+++++++++++++++++| .8|+++++++++++++++++| .9|+++++++++++++++++| 10|++・+++++・+++++・++| 11|+++++++++++++++◆+| 12|+++++++++++++++++| 13|+++++++++++++++++| 14|+++++++++++++++++| 15|+++++++++++++++++| 16|++○+++++・+++++・++| 17|++++++++++++++●++| 18|+++++++++++++++++| 19・−−−−−−−−−−−−−−−−−・ (2)林海峰本での歴史説明 A この布石、もともとは日本でとりあげられたといわれています。 安永一氏の創案で、緑星会では昭和30年代の半ば頃(1960年か) 打たれていました。 B たまたま中国から研究のため日本にきていた棋士が、その知識を持ち 帰って中国碁界で研究されたようです。 C 1965年頃、中国で盛んに研究されました。 D 66年、島村俊廣九段を団長とする囲碁訪中団が中国を訪ねた折、 この布石が研究されていることを知り、日本に持ち帰ったのでした。 E 囲碁年鑑69年版、当時打たれた碁が100局ほどのっているのですが、 中国流は1局だけ。それほど当時はまだ興味を示す棋士が少なかったと いうことです。 F 昭和40年代後半(1970年〜75年)と思いますが、藤沢名誉棋聖 が高い中国流を打ち始めました。 黒5手Q-11まで ハマ 黒0目 白0目 ABCDEFGHJKLMNOPQRST .1・−−−−−−−−−−−−−−−−−・ .2|+++++++++++++++++| .3|+++++++++++++++++| .4|++○+++++・+++++●++| .5|+++++++++++++++++| .6|+++++++++++++++++| .7|+++++++++++++++++| .8|+++++++++++++++++| .9|+++++++++++++++++| 10|++・+++++・+++++・++| 11|++++++++++++++◆++| 12|+++++++++++++++++| 13|+++++++++++++++++| 14|+++++++++++++++++| 15|+++++++++++++++++| 16|++○+++++・+++++・++| 17|++++++++++++++●++| 18|+++++++++++++++++| 19・−−−−−−−−−−−−−−−−−・ (3)林海峰本の歴史の吟味 A 安永一氏創案? → 伝聞のみ。緑星会での棋譜の指摘がない。 B 中国から来日棋士? → 誰も来てない。62年夏の訪日団の5人が最初。 過錫生/黄永吉/張福田/陳錫明/陳祖徳。 緑星会の見学は、ない。 64年夏、2回目の訪日団6人。 陳祖徳/呉松笙/羅建文/....あと3人は? D 66年の島村訪中団6人 → 島村俊廣9段/宮本義久8段/家田隆二5段 石田芳夫4段/加藤正夫4段/武宮正樹2段 (4)結論 <陳祖徳が中国流を63年に創案した>----が事実のようです。 | |
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| ◆中国流は陳祖徳氏の創案----の検証 ◆すばる ◆04年08月01日 00:30 | |
| わたしの手元のわずかの資料から、検証をしてみました。 <陳祖徳氏の創案だった>に対する反証を発見できませんでした。 (1)安永一氏の東京アマ研究会の事例は、中国流とはいえない。 黒9手P-16まで ハマ 黒0目 白0目 ABCDEFGHJKLMNOPQRST 囲碁春秋・掲載 .1・−−−−−−−−−−−−−−−−−・ 1963年頃か? .2|+++++++++++++++++| .3|+++○+++++++++++++| 白 梶原武雄・八段 .4|++・+++++・+++++・○+| 黒 菊池康郎 .5|+++++++++++++++++| .6|+++++++++++++++++| 6手目☆以降は、 .7|+++++++++++++++++| ☆→★→◇→◆ .8|+++++++++++++++++| 6 7 8 9 .9|+++++++++++++++++| 10|++・+++++・+++++・++| 11|++++++++++++++●++| 『囲碁百年』では、この手法が 12|+++++++++++++++++| 1964年ごろ中国若手に取り入れ 13|+++++++++++++++++| られて、変形〜応用されていった、 14|++◇++++++++++++++| とありますが、中国流とはいえない。 15|+++++++++++++++++| 16|+●・☆+++★・++++◆・++| 17|++++++++++++++●++| 18|+++++++++++++++++| 19・−−−−−−−−−−−−−−−−−・ (2)1965年南京第2局での中国流。 白8手J-05まで ハマ 黒0目 白0目 ABCDEFGHJKLMNOPQRST 1965年4月20日 .1・−−−−−−−−−−−−−−−−−・ 白 梶原武雄・八段 .2|+++++++++++++++++| 黒 陳祖徳 .3|+++++++★+++++++++| .4|+●・+++++・+++++●++| 5手目★以降は、 .5|+++++++◇+++++++++| ★→☆→◆→◇ .6|+++++++++++++++++| 5 6 7 8 .7|+++++++++++++++++| .8|+++++++++++++++++| これこそ、れっきとした中国流 .9|+++++++++++++++++| の布石です。 10|+◆・+++++・+++++・++| 11|+++++++++++++++++| 12|+++++++++++++++++| 13|+++++++++++++++++| 14|+++++++++++++++++| 15|+++++++++++++++++| 16|+○・+++++・+++++・○+| 17|+++++++++++++☆+++| 18|+++++++++++++++++| 19・−−−−−−−−−−−−−−−−−・ (3)日本アマが、中国交流の中で中国の棋士達に浸透させていったとする場合、 中国流を得意としたアマとは誰か? 61年秋 菊池康郎/安藤英雄 62年夏・初の訪日対局 村上文祥/平田博則 福井正一/吉田晃/田口哲朗 菊池康郎/原田実/安藤英雄 63年秋 村上文祥/田岡敬一 63年冬 安永一 『朝日アマ十傑戦熱闘譜』----1961開始だが、1965年まで追ってみても、 誰も中国流を使っていない。 村上文祥氏は、この第10回・1970年の決勝戦で、生まれてはじめて 3連星の布石を敷いたと自分で言うので、中国流とは無縁である。 『菊池康郎打碁集』 ----中国流布石が出てこない。 『1963年版囲碁年鑑』----中国流布石が出てこない。 ◆ 陳祖徳氏が創案する以前に、中国流が日本で行われていた事例が皆無である。 (4)陳祖徳・著『自我を超越して』が、魂の書という性格を持っていて、 自分の創案工夫でないものを、そうだと主張するような性格の本ではない。 また、陳祖徳氏のものの考え方・性格が、そういうことの対極にあるので、 陳祖徳氏の言うとおりが真実だと考えられます。 陳祖徳氏は1944年生まれ。18才〜19才で中国流を創出したとは、確かに 呉清源の再来だと言われるだけの天才だと思われます。 1922年に10才の呉清源を見出し育てたのが、顧水如先生で当時31才。 顧先生が後年、上海に移り住んで、第2の弟子としたのが、陳祖徳少年7才 でした。2人の天才は、顧水如先生のただ2人きりの兄弟弟子にあたります。 | |
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| ◆中国流布石は陳祖徳氏の創案だった ◆すばる ◆04年08月01日 00:16 | |
| 中国流は、安永一氏の東京アマ研究会にて打ち始め、日中囲碁交流の中で中国勢 に受け入れられて発展していった....という日本アマ原産説が流布していますが、 実はそうではなく、ひとえに陳祖徳氏の創案によるものだったと分かる文が、 陳祖徳・著『自我を超越して----ある囲碁棋士の歩んだ道』 の中にありましたので、紹介しておきます。1989年北京にて出版です。 (以下引用。年は西暦) ---------------------------------------------------------------------------- 誰でもそうだが、何か一つの分野で、自分の思うままに力が振えるようになりたい と思うなら、命がけになるだけでなく、どっしりと腰をすえて、冷静にものを考える ことが必要である。 わたしは、一連の対局をつづけたあと、とくに61年に安藤さんと対局した後に は、自分の力を十分に発揮できるかどうかということについては、布石が大きく関係 してくることを身にしみて感じた。 中盤の戦いが、碁の勝敗に一番決定的な役割を果たすという考えが変わったわけ ではないが、布石の段階でうまく陣をはり、主導権を握って、はじめて中盤の戦い を順調に進めることができるのである。 しばらく研究してみて、わたしはタスキ星が、自分の棋風にかなりぴったりする ように感じた。タスキ星は、わたしたち中国の祖先が考えだした布石である。古い 時代、中国では白黒双方がタスキ星に石を置いてから、対局をはじめることになって いた。 このやり方はいまのやり方に比べて、変化がひどく少なくなることは間違いないが、 星は空き隅のどの点と比べても、最も効果的な作用をもっているし、その価値は最大 である。 布石のはじめに、対角線上にある二つの星の位置を占めるということ、それは形の 上から見て、離れていても呼応し、模様をはりながら、しかも地を占めようとして いる。そのうえ、進んで攻めることも、退いて守ることもできる。 こうした布石は、テンポが速く、変化が大きく、柔軟性に富んでいる。それだから、 昔の中国では、四隅の星を、双方がタスキ星の形で均等に分けるようにきめたので ある。 タスキ星という布石は、優れた点と威力をもっているというだけでなく、わたしの 棋風にもあっているので、長い間わたしの主な布石となってきた。だが、こうなると、 一つ問題が生じてきた。わたしがタスキ星の布石を敷くとみんなに知られて、簡単に タスキ星をふせがれてしまうのである。 同時にわたしは、こんなことにも気付いた。レベルの高い棋士でもそうだが、多く の棋士は、布石に多かれ少かれ習慣的な打ち方をしたり、いろいろなわくにとらわれ たりするので、あまり変わりばえのしない碁をうち、布石はどれもこれも大同小異に なる。 しかし、棋理というものは、あらゆる面に通じるはずである。わたしたちが布石 理論を研究するのは、決してまねをするためでなく、本当に摂理に通暁するためで ある。そうなれば、碁をやるのに、テキストを暗誦するような形だけのものになる はずはなく、活気もでてくるし、性格もでてくるし、特色もでてくる。 わたしは、自分の特徴に適し、自分の力を大きく伸ばすのに役立つ布石を、考え 出そうと決心した。それは、どのような布石でなければならないか。積極的に主導 権を握り、俗に流れない。そのように、わたしの考えにかなった布石でなければな らない。 そこで、わたしは日本の近代布石、中国古譜、日本古譜、日本の新布石時代の 布石などを真剣に研究し、さらに日本のアマチュア棋士の布石までも研究した。 アマのレベルがプロより低いことはいうまでもないが、アマにもそれなりの長所 がある。アマはプロほど大きな重荷をしょっていない。プロの棋士には、一局一局 が、また一手一手が、直接経済的収入と生活レベルにかかわってくるので、慎重に なりすぎて、研究する勇気や創造性に欠けやすく、保守的な布石になりがちである。 それにたいして、アマチュアはこうした心配がないので、大胆に研究するし、 思いきった新手を打ってみる。もちろん、新手が認められることはあまりないが、 それでもそこから示唆を得ることができる。 棋譜をたくさん研究して、わたしの視野は大きく広がってきた。小さな碁盤には、 ほんとうに想像もつかないような広い天地があるのだ。石一つ置かれていない碁盤 や何も書き込みのないきれいな対局記録用紙を、長い間見つめていると、そこには 万華鏡をのぞいた時のように、数限りない布石が、次から次へと現われては消え、 消えては現われる。 やがて、わたしが布石を考えているのではなくて、布石の方がわたしに催促する ように勝手に現われてくる。わたしの頭は、ひっきりなしで現われてくる布石で いっぱいだ。わたしが何をしていても、お構いなしだ。町にでていても、布団の 中に入っていても、わたしの目に、頭にあらわれてくるは、碁盤である。わたし はその碁盤で布石の研究をつづけないわけにはいかない。もう疲れきってくたくた だ。助けてくれ。何とかして、わたしの頭からこの碁盤をおいはらわなければなら ない。だが、この碁盤こそ、わたしの影であり、命なのだ。 わたしはそこで見たり思ったりした、これはと思う変わった布石をすべて対局の なかで試したくなってしまう。そんなことをすれば、わたしが相手を軽蔑して、 こんな邪道な布石を打ってきたと、相手は不愉快に思うかも知れない。いや、対局 のなかで、相手が不満に思ったことを感じて、ずいぶん気になったことさえある。 わたしには相手を軽蔑する気持などぜったいになかったが、逆に相手の立場に なってみたらどうだろう。たぶん同じように感じるかもしれない。しかし、これも 碁の奥義を追い求めるためであれば、目をつぶるよりほかはない。 わたしはとうとう夢に求め、幻に尋ねた理想の布石をみつけた。黒でタスキ星の 布石を敷き、相手がそれをさまたげたら、「中国流」の布石をとるのである。 (当時はまだ「中国流」という名がなかった。) こうして「中国流」の布石が生まれた。それは意欲的で、俗に流れないという 考えをつらぬいた布石であって、たちまち中国はもとより世界に流行し、あげく には日本の囲碁界から、「中国流」と名付けられることになった。 いまでは、「中国流」は一番の流行の布石としてもてはやされているが、わたし は「中国流」という三字を見るたびに、なつかしく、ほこらしく感じるとともに、 一方では何となくうら悲しい気持になる。 中国流の布石が生まれ、発展したことは、近代囲碁の布石を豊かにし、積極的に 主導権を握ろうとする傾向を強めた。それはそれで、嬉しいことだ。しかし、二十 年前、それがまだ生まれたばかりの頃には、なんと奇怪なものと人の目にうつった ことだろう。わたしはそれに精力を傾け、心血をそそいで守り、育てたのだ。必ず 大きく成長するに違いないと信じてはいたものの、それでもなお、弱々しい命が 夭折するのを、どれほど心配したことだろう。 のちには成長をはじめたが、その速度はまた人を何とおどろかせたことか。普通 のスピードではない。まるで巨人症にでもかかったようである。それは、その旺盛 な生命力を示し、人びとに認識され、重視されたことを物語っているが、同時に また中国囲碁界の悪いくせも反映しているのだ。 ある布石が流行ると、それを神聖化し、盲目的に真似するという悪いくせである。 この悪いくせが中国囲碁界の発展をさまたげてきたのだ。二十年前、わたしが中国 流の布石を考え出して、これを続けて来たのは、そもそもがこのサル真似病と戦う ためであったのに、今では、その「中国流」がサル真似病の症状を招いてしまって いるのだ。なんと悲しいことだろう。 こんどは、わたしが「中国流」に次第に冷淡になり、次第に「中国流」から離れ ていった。わたしはこの布石が嫌いになったのだろうか。もちろん、そうではない。 ただ、わたしは時勢の流れに乗るのが嫌いで、束縛されるのが嫌いなだけなのであ る。 「中国流」をはじめたのは、束縛からぬけ出すため、新しいものを創造するため であったのに、逆にそれで縛られるわけにはいかない。囲碁の芸術性には限りが ない。ある程度のレベルに達した棋士で、本当に志をもち、抱負があるのであれば、 自分の力で道を切り開くべきであって、人のあとについて歩くばかりではいけない。 道を切り開くのはたいへんで、それなりの苦労をしなければならないが、それだか ら、はじめて楽しみがでてくるのである。 もちろん、わたしは中国流はもう使ってはいけないと主張するわけではない。 ほかの布石と同じように、「中国流」はひきつづいて実戦のなかで使い、研究し、 たえず発展させ、より整ったものにしていかなければならない。しかし、ここで 強調しておかなければならないのは、どのような布石をやるにしても、それを盲信 してはならず、冷静な頭脳と明確な目的をもってやらなければならないということ である。 それは囲碁を発展させるため、枠を突き破るため、一つの段階を越えるため、 囲碁の芸術性をあくまで追求するためなのである。 以下は、65年の梶原八段の中国訪問団との戦いの述懐から。 --------------------------------------------------------------------------- 南京での日程は二戦。第一戦で、わたしはまた梶原八段に対する。わたしたち 二人の第三局である。前二局は一勝一敗、この一局の重要性はいうまでもない。 梶原は黒をもち、並行型の布石を敷き、わたしは中国流で対抗した。 梶原は長い間考え込んでいたが、間もなくわたしの辺の一子にボウシした。ここ が最重要点と考えているのは間違いない。わたしはボウシした一子にトビツケた。 すぐさまに双方はねじりあいになった。中国流の布石のねらいは、敵を深く自分 の勢力範囲にさそいこんで、優勢にものをいわせて、攻撃を加えることにある。 どうやらわたしの布石は成功したようである。梶原は黒の先番であるが、白の 陣営内でイニシアチブをとれず、シノギに苦しんでいる。 ....以下略.... (杭州での)最後の大切な一局で負けたとはいえ、「中国流」の布石はその確か さが確認された。梶原さんはこの碁の布石で方針を変えた。梶原さんが芸術性に 執着し、それを追求することはよく知られていて、めったやたらに自分の考えを 変えることはしない。 最後の一局で戦略を変え、わたしに勝つという点では成功したが、「中国流」と いう布石にどのように対処するかという点では、適切な方法をあみだすことができ なかったのである。 (すばる注)対局の局数や白番に『陳祖徳・囲碁名局集』との矛盾があり ますが、そのまま引用してあります。 --------------------------------------------------------------------------- 【追記】『陳祖徳・囲碁名局集』に次のように記述されています。 >(南京第一局の)2年程前から中国流布石を実戦に試用してきた。 > 当時日本代表団との試合に何回も試みて効果があった。 結局、1961年の安藤英雄アマとの対局を契機に、62年〜63年と布石の 研究に没頭し、中国流の創案に至った。63年から中国国内棋戦で試用を開始。 中国流の総仕上げが、65年の対梶原武雄八段戦だった。 以後、中国勢が多用をはじめ、日中交流棋戦の中から日本に浸透していった。 | |
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| ◆中野坂上便り 〜 その十八 〜 ◆谷口 一 ◆04年07月30日 18:41 | |
| 渡っていいよの青信号が点滅する。小走り、渡り切ったらどっと汗が噴き出す。早く乗れと発車ベルが鳴る。次の電車でもいいのだけれど、背中を押されるようにホームへの階段を駆け上がる、駆け込む。車内の冷房にほっとするが、つかの間、どっと汗が噴き出す。街にいると急かされる。「急いては事を仕損ずる」なんて、安穏と懐手に構えていたら、流れのコンベヤーからはじき飛ばされて、階段を転がり落ちる。御茶ノ水駅でつい最近そんなおじさんを見た。怪我無く幸いだったけれど。みんなが走れば一緒に走る、これが日本の常識だ。社会の仕組みが、どっと汗を噴き出す仕掛けになっているのだろう。それを天もよくご存知で連日の太陽の恵み。ハンカチはタオル地の大判。ポケットが膨らむ。 そんな中でも、幸運の女神との邂逅もある。駆け込んで押されて入った電車内、つり革つかんで汗を拭く。と次の駅で目の前の席が空く。混んだ車内、自分の前の席だけが。あたりに年配者も妊婦らしき人もいない。深々と座り込む。口の中でハイトーン「ラッキー」。生きていればいいこともあるんだ。幸運だ、幸福だ。このまま山手線を二周りくらいしたくなる。週刊誌の吊り広告に目がいく。ヒートアイランド・・・ ヒートアイランド現象とは、よくぞ命名してくれたものだ。等温線を引くと島のように見えるかららしい。直訳すれば熱島。都民であり熱島の島民でもあるということだ。なら、熱島の独自の条例があってもよさそうだな。脱熱条例がいいかなあ。 <脱熱条例> 1.熱島島民は、靴の着用を禁じ常に裸足とする よって、道路を覆っているコンクリート・アスフアルトは即刻はがす 2.熱島島民の服装は、男子は半ズボン、女子はムームー よって、ユニクロはこの二点のみの製造販売とする 3.熱島島民の住居は、クーラー・扇風機の設置を禁止する よって、役所・会社・商店等もこれに順ずる 4.熱島島民の義務として、1でむき出しになった地面に月1本、木を植える よって、道路は林と化し車の通行は禁止とする 5.熱島島民と熱島に立ち入る者の熱島内移動は、徒歩のみとする よって、宅配便も翌日必着から開放される 6.熱島島民は、熱気をはらむサッカーの観戦を禁止する よって、テレビ・ラジオもすべて廃棄処分とする 7.熱島島民は、粗食を旨とし外食外飲を慎む よって、六本木から不夜城の冠をはずす 8.熱島島民は、早寝早起きを義務としてあらゆる作業もほどほどとする よって、それにより停滞する作業は最初から受けないこととする 9.熱島島民は、暑苦しい「戦争」を永久に放棄する よりによって、だれが「戦争」という言葉を作ったのか、「殺し合い」と言えば誰で もいい判断が出来るのに・・・やっぱり九条が・・・ 遠くで発車ベルが聞こえる。ホームの柱の駅名がぼんやり見える。夢か。あっ!降りなくては。降ります、降ります、すみませ〜ん。人ごみを掻き分け、ホームに吐き出される。背中に冷たい視線の束。 また、どっと汗が噴き出す。 | |
| 04-0019 | |
| ◆玉の緒よ絶えなば絶えね ◆すばる ◆04年07月25日 14:26 | |
| 悟りの世界、真実の世界には時間がないという意味を、少しだけ考えてみました。 玉の緒よ絶えなば絶えね、 ながらえば、 忍ぶることの弱りもぞする 式子内親王 この歌は新古今和歌集の恋の歌の絶唱であり、作者は身を焦がすような激しい 人生を送ったのかと思っていたのですが、まったく違っていました。 美人で聡明で後白河法皇の第3皇女でしたが、平家台頭から源平合戦の世相の中、 結婚や子を産むことは許されず、生涯を何もせず、ひたすらに時を数えることしか できない人生でした。現実の男性との出会いも許されず、恋の思いも想像の世界だけ に閉じ込められていました。 そういう眼でこの歌を読み直すと、存在の空虚さに身をよじる慟哭とも感じられ ます。 劫初より造りいとなむ殿堂に われも黄金の釘ひとつ打つ 与謝野晶子 殿堂とは文学・芸術の世界のことであり、微力ながらも何かひとつでも力を添え たい。その活動ができるのも、先人達の積み重ねが今ここに現前しているおかげで あるという、感謝と参加の喜びの歌です。先人達の中には、式子内親王も入ってい ました。 与謝野晶子の場合は、身を焦がす恋もし、さまざまなドラマを体験し、わが生涯に 悔いなしだったと思われます。式子内親王と与謝野晶子では、時間の流れが違って いました。 インディ・ジョーンズの映画を見ると、はじめから最後まで波乱万丈の展開で、 息つく暇もありません。今、何時何分だ、と時間を数えている余裕はない。 今はこれ、次はこれの連続であり、一瞬一瞬が自己変革の連続です。 小さい子供達の毎日も、一瞬一瞬が自己変革の連続であり、あっという間に 一日が終わり、あれもやった、これもやったと、数え切れないほどの体験。 この反対が、田舎の駅での乗り換えの場面です。11時頃、とある駅に降りたもの の、駅のまわりには何もなく、次の乗り換え列車まで2時間余はある。ぼけーと 座って、ただただ時間の過ぎるのを待ち、時間を数える。一瞬一瞬の自己変革は、 どこにもない。 小さい子供達も、やがては大人になり、インディ・ジョーンズ風から、田舎の駅の 待合室風へと変化して、空虚さが拡大していきます。 悟りの世界、真実の世界には、時間の流れがない。あるのは常に、今この一瞬だけ。 今の一瞬と次の一瞬とは非連続に切断しており、関係がない。そして、宇宙全体が、 この一瞬において脈動しており、この脈動の連続こそが自己変革の連続に他ならない。 この脈動に意識的に参加していかない場合、この一瞬この一瞬が、無意味に消滅して いく。変り得たはずの一瞬を失い、使い損なった人生の切符を手に握りしめて、一瞬 一瞬、一枚一枚を数え直して、悔恨の思いがよぎる。 瀬戸内寂聴さんの色紙に「切に生きる」があり、 お釈迦様の最後の言葉に「この世は美しい。人間の生命はなんと甘美なものだろう」 があります。 結局、一瞬一瞬の存在を数えなおしたもの、それが時間です。時間は形式にすぎ ない。そして、喜びや充実は、一瞬一瞬の存在のあり様の中にある。 日々の人生を、やすらぎと喜びの中に送るには、各瞬間への没入が大事であり、没入 できるだけの関係や奉仕活動を、身近な人達・身近な社会に対して築いておくことが 大切のようです。 | |
| 04-0018 | |
| ◆大乗仏教は本物ではなかった (;_;) ◆すばる ◆04年07月25日 13:03 | |
| ここ1年半ほど仏教書を読み進め、仏教の精粋とも言うべき道元禅一筋に進んで いけばよいと喜んでいたところ、ミャンマーでの仏教修行を経験してきた鈴木一生 さんの『さとりへの道・上座仏教の瞑想体験』を読んで、愕然!! 日本の大乗仏教が、お釈迦様から見れば仏教とは言えないものに変質していたこと が明瞭にわかり、カルチャーショックの気持ちです。 ポイントをかいつまんで言うと、次の通りです。 (1)大乗経典はすべて、釈迦入滅後5百年くらいに創作されたものであり、 釈迦の思索ではなく、修行者賛美のための修飾的文学書に過ぎなかった。 つまり、印度産の偽経である。 (2)その時点で、多神教であるヒンズー教に取り込まれて、ヒンズー教の変種に なっていた。釈迦の教え自体は宗教でも信仰でもないものだが、宗教や信仰の 一種と化していた。 (3)ミャンマー、タイ、スリランカ方面の仏教は、日本仏教界から小乗仏教と 蔑まれているが、実は、釈迦本来の教説が温存されているものだった。 ( テーラワーダ、上座仏教という。日本テーラワーダ協会あり。 ) (4)仏教が、印度で宗教に変質して、中国に伝わってまた道教的に変質し、日本 に伝わって更に日本的に変質した。 本来の言葉の意味と実態を知っている人から見れば、何でもないことでも、 それを知らない遠いところでは、ああでもない、こうでもないと抽象概念の ジャングルができあがる。 日本仏教の論理や言葉の難しさ自体が、ポイントをはずしていることの証明 であり、いくら勉強しても安心立命に入るのは、ほぼ無理という位置にある。 (5)お釈迦様の教えは、これをやればこうなるという現実の効果の判定が可能なもの で組み立ててあり、科学的・客観的な心理技法だった。 お釈迦様の臨終の言葉は、「私を鵜呑みにするな。各自の判断力と客観的法則 こそを拠り所にして、生きていけ」でした。 (6)仏教書にいろんな言葉がでてきます。本当の意味を知らぬまま、勝手な了解を していたのですが、鈴木氏の本を読みながら、おお、そういう意味だったのか とすっきりする面があちこちにありました。 たとえば、道元が如浄師から座禅修行上の障害である<五蓋>について教えられ ます。貪欲・嗔恚・昏沈・掉悔・疑。 なぜ、こんなことをわざわざ指摘するのかなあと不思議に思っていたのですが、 わがまま勝手を本領とする心が、修行による心の観察・清浄化に音をあげて、 反発妨害に出てきます。その現象がこの五蓋でした。つまり、心理世界の技術 用語だったわけです。 (7)ダライラマの言葉に、次の2つがあります。 A「悟りがなければ、宗教ではない」 B「お釈迦様の教えは科学的なものであり、宗教や信仰ではない」 Aの宗教という言葉は<心の教え>と読み替える方がよいようです。 【感想】 実践修行は日本テーラワーダ協会の指導に従い、 思索修行は道元禅師に従う....という2足の草鞋で行きます。(^^;) 道元禅師の「存在と時間の哲学」が、他にはないものなので。 | |
| 04-0017 | |
| ◆悟りの世界の全体像 ◆すばる ◆04年07月19日 20:41 | |
| 悟りとはどういうものか、全体像が見えてきた気がするので、まとめておきます。 禅宗のお坊さんで「自我の壁を取り払って、真実世界に直面するのが悟りなので、 悟り体験は1回しか意味がない」という人もいますが、1回きりではないのが悟り の世界のようです。 (1)仏教では悟りの境地を、初地/中地/終地の3段階に分けている。 初地 悟り状態に時々なるものの、自我が再び頭をもたげて来て、普通の 状態に戻ってしまう。座禅してもなかなか悟りを再現できないレベル。 お釈迦様は教団形成後もこれに悩み、三ヶ月間の徹底座禅に取り組ん だことがある。 道元禅師は目標追求心が強かった。自我が強大だったのが災いして、 ついに初地のままに終わっている。 中地 座禅すれば百発百中、悟り状態に入れるレベル。 座禅すればするほど、前回以上の深く高いレベルに進んでいく。 宇宙の気の流れが、涛々と自己の全身に流入してくる。 終地 座禅すれば百発百中、悟り状態に入れるレベル。 宇宙の気の流れが、轟々と自己の全身に流入してくるだけでなく、 自己の身体から全宇宙に向かって、気の流れが轟々と流出していく。 この流れは、台風のようなすさまじい流れである。 玉城康四郎先生は定年退官の頃から、臨済禅と決別してお釈迦様流の 座禅修行を一人で開始、83歳の誕生日の直前についに終地を実現。 実に20年余が経過していました。 (2)仙道や気功では、小周天/大周天というレベルがある。 自己の身体と宇宙との間で、気のエネルギーの流れが発生して循環状態にある。 これを小周天という。 更に進んで大周天というレベルに至るが、気のエネルギーの流れの規模の差で あって、両者に本質的な差違はない。 チベット大乗経典に『十地経』があり、悟りを10段階に区分している。 大周天=終地=第8地に相当する。 (3)第10地→ 無生法忍(大慈大悲)の境地 一切の自我や執着がなくなり、慈悲心そのものとなったレベル。 全宇宙と同化し、宇宙万物が自己の心の中に存在するように見える。 宇宙の全存在を一果明珠のように体感する。 幕末から明治にかけて、弁栄聖者と呼ばれ尊崇を集めた奇跡の僧がいたが、 この究極状態を実現していた。著作も多く残している。 (4)悟りの達成の方法 左脳による自我執着の障壁を取り払えば、世界と自己とが一体であることを、 右脳が体感できる。これが悟りの状態。 宗教的素養がいっさい無い人でも、授業中ぼけーと窓の外を見ている内に悟り 状態に入った人もいる。風のそよぎ・雲の流れ等を、ぼけーと眺める....のが 悟りへの早道。 お釈迦様や曹洞宗の場合、左脳を運転停止状態に導くために、入出息念定と 言って、呼吸の感覚のみに意識を集中しつづける。 臨済宗のように公案を考えるのでは、左脳運転であり、悟りの妨害である。 気功や武道の達人が、小周天・大周天を経て、悟りを達成する例が多いのは、 空手・柔術・剣道のスピードが、左脳による言語や概念を使った状況把握を 拒否し、右脳による直感把握とそれによる反射行動を発達させるからだと 思われます。 禅宗は座禅ですが、密教は修験道や胡麻焚き、浄土宗は念仏、日蓮宗では 南無妙法蓮華経などなど。左脳の運転停止を実現できれば、方法は何でも よい。とはいえ、お釈迦様を見習っての座禅方式が一番確実のようです。 (5)悟りの状態 木々の葉のそよぎ、川の流れ、雲の動き....等々を、自分自身と感じる。 葉っぱ一枚々々の気持ち、その構成原子がなぜそこに在るかの理由が、 直感的に理解できる。 通りすがりの人でも、その人に意識を集中すれば、その人の来歴が見えて しまう。多分、その人の未来も見える。 まわりの人や物と、自分との境界がなく、すべてが自分自身でもある。 心や気持ちがすべて伝わって来るし、共感している。 悟りの世界、真実の世界には、時間の流れがない!! 韓国の素空慈師の『悟りの瞬間』でそれを知った時、びっくり仰天。 道元禅師も<有時>の巻で、それを詳述していますが、このへんは、 本当に悟らない限り、ほとんど意味不明のところです。 | |
| 04-0016 | |
| ◆求道者としてのラフカディオ・ハーン ◆すばる ◆04年07月19日 17:29 | |
| 世界不思議発見やNHKドラマに登場したハーン先生は、日本文化に共感した 伝説収集家というだけのものでしたが、18日のテレビ<こころの時代>の中で、 東方学院院長・前田専学氏のお話があり、かなり異なる人間像だと知りました。 明治23年・40才でハーン先生は横浜に上陸しますが、その時点ですでに、欧米 での最新の仏教研究をすべて身につけており、仏教の本当の教えに近づくための 日本訪問だった、そうです。 富山大学には小泉八雲文庫が設けられており、2400余冊の蔵書中、仏教書(英文) が80冊もある。その中には、マックス・ミューラー博士による仏教研究書もあって、 日本の研究者達がミューラー博士に弟子入りして、現代仏教学の構築を開始するのは、 1900年以降の話なので、小泉八雲の方がはるかに先達です。 横浜上陸の当日、ハーン先生は直ちにお寺を3箇所ハシゴ訪問する。その中の あるお寺で、英語を話す若い僧・アキラに出会います。 ハーン「魂は、死んだ後も存続するのか? 涅槃に入れば、魂は消滅するのでは ないか? それが通説だと聞いているが」 アキラ「仏教では死後も、魂は存続し輪廻するというのが大前提です」 アキラ「あなたはキリスト教徒なんですか?」 ハーン「まったく違う」 アキラ「ひょっとして、仏教徒?」 ハーン「厳密にはまだそうではない」 論語の孔子先生は「怪力乱神を語らず」であり、超常現象や死後の世界の話は、 修行や人生目的の対象外としていました。お釈迦様も、あの世の世界や魂の輪廻に ついては、いっさい語ろうとしませんでした。 そして現在、日本仏教界の通説では、魂は川面の水泡のようなものであり、死と ともに消滅し二度と再現されない、と理解されています。 しかし禅宗の一部のお坊様は、輪廻による魂の修行向上を宣明しています。 そして前田先生もまた 「涅槃とは本来、我執の消滅であって、魂の消滅ではありません。インドから中国 →朝鮮→日本へと仏教が伝播する中で、魂の存続説への組替えが行われ、結局、 魂の存続説と消滅説の2つが並立しています。」 ハーン先生は、仏教や悟りについての総決算の本(英文)を仕上げており、 ニルバーナ(涅槃)の章のところは、文章推敲に3年をかけたそうです。 そして自分の死の間際、「田舎のひなびたお寺に墓を作ってほしい」と妻せつさん に遺言しました。 法名は、悟りの境地を求めた人にふさわしく、また近代的自我を放棄しなければ 人類社会の平和はありえないと提唱した人にふさわしく、正覚院殿浄信八雲居士と なっています。 ハーン先生のこの英文本を、いつか拝読したいものだと思いました。 | |
| 04-0015 | |
| ◆本手/俗手は反対語にあらず ◆すばる ◆04年07月06日 19:46 | |
| 普通、本手と俗手 を反対語と受け取りがちですが、林海峰先生の『有段者 雑学事典』を読み返すうちに、反対語ではないと気づかされたことがあります。 参考までに、3つの基準と各々の反対語を、列記しておきます。 A 欠陥・キズの度合を言う。 ◆ 本 手 = 無欠陥品・完全良品 ◆ 欠陥手 = 欠陥品 ・ 不良品 B 手筋的な場合で、効果の度合を言う。 ◆ 手 筋 = 手筋効果が 充分な手。 ◆ 俗 筋 = 手筋効果が 劣る手。 C 石が役立つ度合を言う。(手筋的な場合に限らず) ◆ 働いた手 = あれこれと役に立つ手。 ◆ 俗 手 = 役に立たない手。 ( 利敵行為の手/自損行為の手/無効果の手 ) 「俗筋=俗手」と慣用的に表現されているので、別基準だということが、 わかりにくくなっています。 | |
| 04-0014 | |
| ◆<逆先手は両後手の2倍>の証明 ◆すばる ◆04年07月10日 12:12 | |
| ものの本では、逆先手の例図を分析して「こう見なすので、後手の2倍と評価 できる」という解説が出てきますが、「こう見なす」が難解で、なかなかピンと きません。 そこで、ヨセの全体図から2倍効果を把握するという図的確認をしてみました。 (1)ヨセの手の種類。 A 両先手 どちらからも先手。 受けないと被害甚大。 B 片先手 片側からのみ先手。 C 両後手 どちらからも後手。 B 逆先手 片先手を、後手になる方から先にヨセるのを逆先手という。 逆先手4目 = 両後手8目 の価値がある。 (2)ヨセの順序。 A両先手→B片先手→C両後手 の順に進行します。 両先手の部分は当然の進行なので省略して、B片先手→C両後手 を考えて、 次の通り、ヨセが7箇所残っている局面だとします。 B4 片先手4目 1箇所 ---------------------------- C6 両後手6目 1箇所 なぜ1箇所ずつかと言うと、 C5 両後手5目 1箇所 両後手が偶数箇所は、両者で等分する C4 両後手4目 1箇所 ので、勝敗差につながりません。 C3 両後手3目 1箇所 そこで、1箇所か0箇所という設定に C2 両後手2目 1箇所 還元できます。 C1 両後手1目 1箇所 (3)2通りのヨセ。 このヨセまでの地合いが等しかったと仮定すれば、 ◆片先手側からヨセを開始。 片先手側 B4→ C6→C4→C2 4+3=7目勝 逆先手側 C5 C3 C1 ◆逆先手側からヨセを開始。 片先手側 C6→C4→C2 逆先手側 B4→ C5 C3 C1 4−3=1目勝 【検討】7目勝と1目勝で、差8目の逆転です。 原因は、上図をよく見ると、B4だけペアになるものがなく、 片先手側/逆先手側 のどちらかに1つだけ存在しています。 両後手の集団は、1つ1つの大きさが消えて減殺しあっており、 両者の順序に関係なく、片先手側に3目の得を約束しています。 【結論】片先手は、その手の性質上、 片先手側から打つと、 B4→C6 と連打になるが、 逆先手側から打つと、 B4 のみの単打に終わる。 その結果、片先手B4の手は、その後に控えている両後手6個の 順序を不変にする機能がある。従って、両後手6個の得失差3目は、 必ず、片先手側のものとなる。 よって、片先手B4部分だけが出入り計算の要素となるので、 4目の2倍=8目の勝敗差を生じる。 つまり、逆先手は両後手の2倍の価値を生じる。 (4)ヨセの手止まりの問題。 両後手がたくさん控えていて、減殺しあっている限りでは、 < 逆先手は両後手の2倍の価値がある > が成立します。 両後手の箇所が少なくなって来ると、逆先手を優先したばかりに損をする 場合も出てきます。ヨセが2箇所しか残っていない、とします。 B4 片先手4目 1箇所 C6 両後手6目 1箇所 この場合、C6→B4 が正しい。両後手6目を減殺してくれるような、 両後手5目とか両後手4目のヨセが存在しないからです。 (5)まとめ ものの本の論理が正しいならば、ヨセの手止まりに関係なく、常に2倍の 効果を発揮していいはずですが、そうはいきません。 ということは、ものの本の論理は、詭弁あるいは一面的論理の落とし穴を 含んでいて、それゆえにピンと来ないのかもしれません。 しかし、論理表現はさておき、パッと2倍の価値ありと直感してしまう ところにこそ、専門家連の凄さを感じます。 | |
| 04-0013 | |
| ◆「アマシ」の意味 ◆すばる ◆04年06月30日 20:36 | |
| 甘いなのか、余らせるなのか、疑問が残ったので、調べてみました。 福武古語辞典によると、 【 余す 】 他動詞サ行4段活用 (1)余らせる。取り残す。 「余すな、漏らすな、討てや」 ----- 平家物語・二度之懸 (2)除外する。もてあます。 「世に余されたるいたづら者なんどの」----- 平家物語・禿髪 (3)外へこぼす。ほうりだす。 「(馬が)がばと倒るれば主は前へぞ余されける」---- 保元物語 結局、余らせる/もてあまさせる/取りこぼさせる の意味でした。 | |
| 04-0012 | |
| ◆秀和によるアマシ打ち と 棋譜の再現 ◆すばる ◆04年06月28日 23:25 | |
| 「アマシて打つ」とはどういうことか勉強するついでに、囲碁倶楽部のプログラムで、 その棋譜の再現テストをしてみました。 (1)igoclub の直下に extkif というフォルダーを用意します。 (2)【秀和によるアマシ打ちの例】〜【245手完 白7目勝】までをコピーして、 kif100.icf というファイル名を付けて、extkif 内に保存します。 Program Files → igoclub → extkif → kif100.icf (メモ帳/ワードパッド/秀丸エディタ のようなテキストエディタを 使って、ファイル名を付けて保存します。) (棋譜名は kif100.icf/kif246.icf/kif888.icf のように、 ダブらなければ、何でも結構です。) (3)igoclubプログラム → 棋譜検討 → HD保存棋譜 にて、 棋譜を 選択〜表示 できます。 (4)本因坊秀和によるアマシ打ちの例 弘化2年(1845年)5月6日 白は、右辺中央の白数子を放置して、上辺中央から上辺右隅への展開を 急いでいます。 その結果、右辺中央の白数子は、黒の猛攻にさらされますが、それでも 白としてはあまり損がなく、黒としては攻め甲斐のない結果となります。 このような白の打ちまわしが「アマシて打つ」という意味だそうです。 【棋譜再現の反省】 タテ方向に長くなり過ぎて、掲示板の邪魔になる。 一手一手にコメントを付けられない。 ---------------------------------------------------------------------- 秀和によるアマシ打ちの例 黒:五段 中川順節 白:七段 本因坊秀和 先 K00 K1704 S2403 K2316 S1517 K2517 S2306 K1615 S1716 K1715 S1816 K1504 S1711 K1709 S1511 K1415 S1316 K1315 S1216 K1215 S1116 K1509 S1311 K1115 S1016 K1111 S1409 K1508 S1103 K1209 S1309 K1208 S1510 K1407 S1403 K1612 S1712 owa 245手完 白7目勝 | |
| 04-0011 | |
| ◆中野坂上便り 〜 その十七 〜 ◆谷口 ◆04年06月23日 11:54 | |
| ゴルフはやっかいだ。 静止した姿勢から、静止しているボールを長いクラブで打つのだから、身体も心もリラックスした状態ではいられない。静止ほど苦痛な姿勢はない。普段意識もしない二の腕にまで力が入る。サッカーやテニスなら飛んでくるボールに対してフットワークがあり、幾分身体はほぐれる。最低、足やラケットにボールは当たる、行き先の保証は無いが、飛ぶ。ゴルフでは空振りだってある。構えて、ボールにクラブフェースを合わせて、ゆっくり引いて、「えいッ」と振っても、ボールに当たらないのだ。全筋肉はちぢんで、視線も身体もボールに対してではなく、飛んでいってくれと願う遥か彼方に先にいってしまい、目の前のボールなんか眼中にないのだ。とは言っても、力んで大振りしたクラブから風は起こる。ティの上のボールは、その風で2インチ転がる。これも一打。 考えると、最もゴルフをやっかいにしているのが練習場でのグッドショットにある。10回ボールを打つと1度か2度ほど会心の当たりがある。周りの人、見てくれたかなあと思うほどの。これがいけない。自分の腕前をたまたまの10%程のグッドショットと錯覚しまうのだ。通常の右や左、手前をたたくダフリでチョロの90%の自分の打球をすっかり頭から消し去ってしまうのだ。 コースに出て、ティグランドで頭をかしげる「なんで、あの玉が出ないんだろう」と。練習場のたまたまあった当たりを追いかけ回すのだ。そして、決まってこう呟く。「まあ、次は・・・、確かに腰も回っていなかったな」と。 一番ホール、ティグランド。適度の緊張、シャープな素振り音。前日に買った飛ぶと言われるボール。ちょっときつめの新しい手袋、三番目に打つというクジ運の良さ。ベストスコアの予感、晴天、無風。340ヤード、パー4。 「しょっぱなはボギーで十分」なんて、言わなくてもいい事をつぶやく。構える、力む。ボールは右斜面、わずかに転がり落ちてきたが・・・。「朝一、朝一、しゃあない」の声。余計に腹が立つ。たしかに身体が回ってなかったな。まあ、2打目をグリーン傍に運んでおけば、パーだってねらえる。欲をかく。2打目、斜面で大振り。また斜面、70ヤード前身のみ。広いフェアウエーがグリーンまで続いているのに、蟹の横ばいのように、なぜ右斜面を歩き続けなくてはならないのか。三人は左セミラフ辺りを固まって進んでいく。3打目。残り100ヤード。9番を短く持って、当てるだけ当てるだけ。うまくグリーンにのれば、いやいやまだパーだってある。懲りずに欲をかく。またまた右に出たボールが運良く斜面の木にあたり「カーン」と、いい音を出しグリーン方向に転がり出る。そこには決まってバンカーが口をあけて待っている。4打目。さっき木に当たらなかったらOBだったんだから、まあ運は回ってきた。ここを上手く出して+1のボギーと。またまた欲をかく。手前に落としてコロコロッと。砂が舞い上がる。ボールは。バンカーは脱したものの、グリーンにほんの手前のゆるい斜面。5打目。ここは確実にパターでいこう。芝に食われる。 1番ホール。+3トリプルボギー。スコアカードに「7」を入れる。鉛筆の芯が折れる。 「まあ、次は・・・」 ゴルフはほんとにやっかいだ。 | |
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| ◆碁の効用 → 座禅瞑想の境地 ◆すばる ◆04年06月19日 12:03 | |
| 英国の作家であり超常現象の研究家でもあるコリン・ウイルソン氏の本からの 事例ですが、 あるハリウッド女優が、多忙の毎日のあまり、ノイローゼ状態となって、 地中海の小島の修道院に連れてこられ、そこで絶壁の上に座らせられて、 毎日ポカンと、はるかなる海と空を眺め続けることになった。 20日目あたりで神経症が治まり、30日目では完全に快癒。日常生活に 無事復帰できた。 とあります。これをウイルソン氏はつぎのように解説しています。 日常生活とは効率的にものごとをこなす生活であり、左脳が論理・概念・言葉・ 計算・時間を操って、繰り返し処理を受け持っている。ここには、意味や目的、 真善美・やすらぎ・安心の要素はない。このため左脳の過剰運転の状態に陥ると、 心のバランスが失われ、神経症に陥る。 一方、右脳は、言語・概念・論理を飛超えて、一気に直感ですべてを理解する。 ものごとの意味・目的・真善美を把握して、人生のやすらぎを悟る力がある。 右脳と左脳は、実は別々の人格であり、右脳は左脳にいっさいを任せて、日常生活 の後ろにひっそりと隠れている。癲癇患者の治療に、右脳と左脳をつないでいる 脳梁の切除があるが、これを行うと、2つの別人格が同時に出現して、右半身と 左半身とが主導権争いして、別々の行動をとろうとすることが起きる。 永松憲一『囲碁はなぜ交点に石を置くのか』新風社 を読むと、 A 碁の着手一手一手は、ある瞬間の出来事として生起する。 B 一手一手の石自体は、何の機能ももっていない。 C ところが、それ以前の全着手との累積関係において、盤面全体として ひとつの意味を生み出してくる。 D これは、異なる時点の出来事が同時に関連する場を形成しており、時間が 止まった世界、あるいは時間や空間の制約を超越した世界である。 E このような世界とは、ユングの集合無意識の領域であり、座禅の自他合一 の世界である。 F 次の一手をどう考え出すかは、論理的読みに支えられているかのように 思っているかもしれないが、スーパーコンピュータにも及びのつかない 世界であり、集合無意識の時空を超えた領域から、一気に直感により、 次の一手という解が降りてくる世界である。 G 人生の万般は、まず思いがあり、思いがあれば解決の手段や姿が直感的・ 示唆的に現れて、実現のプロセスが始まるという形を取る。 松下幸之助氏がダム経営の要諦を講演したとき、会場の一人が、 「中小企業にはそんな余裕はないが、どうすればよいか」と聞いた。 松下幸之助氏は、ややあってポツンと一言「思わなければ始まらん がな」−−会場にいた京セラの稲盛氏は「あっ」と感じ入ったそう である。 高橋桂二『囲碁三昧』を読むと、幕末・明治の元勲や苦労人達が碁に見出して いた効用が、意外にも、多忙なる日常から逃れて、囲碁の次の一手の考察への埋没 三昧−−−直感・自他合一・右脳の世界への没入にあったとわかり、さすが人生の 達人達だと感心しました。 左脳の過剰運転を止めて、直感・真善美・やすらぎの右脳の世界の発現により、 心のバランスを回復することは、われわれ現代人にとって、より一層の必要事で あると言えるようです。 | |
| 04-0009 | |
| ◆高血圧を碁で直す学説 ◆すばる ◆04年06月19日 10:40 | |
| 昭和13年・高橋桂二『囲碁三昧』からの引用です。 従来血圧の高い人には碁が禁物となっていたこと世人の熟知する通りで、医者 も公然碁を禁じていたものであるが、多年血圧を専門に研究し、『血圧亢進の病理 及び病理解剖学的研究』の論文で医学博士となった斯界唯一の権威藤井静雄氏は、 「碁で血圧を低くすることが出来る。厳禁どころか、私のはむしろ推奨する方だ」 という新学説を提唱して、囲碁ファンから救世主の如く悦ばれている。 博士が交詢社でお歴々を前に講演したというその講演筆記の中に、 「私と永らく懇意にして戴いている陸軍の某中将の方があります。そのお方が 今から10年程前血圧が230位ありまして、私はお預かりしたのでございます。 その人は煙草を止められ、酒を禁ぜられ、碁は初段でありますが、是も止められ て居られましたが、私は全部をお許し致しました。そしてお酒は毎日2合位、煙草 は朝日1個半、碁も一回二三面はお打ちになります。 そうして毎日ずっとやって居りまして、それをずっと続けて診て行きますと、 今から4年程前から血圧が下がり始めまして、今日ではいつ計りましても正常の 血圧、すなはち130位になって居ります。 これなど薬一服飲まないで療した例であります。従来高血圧に碁は悪いと言われ て居りますが、碁の打ち方を考慮さえすれば、むしろ結果が良いと考えられます」 とある如く、博士が実験上からも高血圧に碁が害をなすものではないことを、 ハッキリと確かめて居るのである。いったい天下の妙薬でも、服用の度を過すと 害になると同様、碁でも打ち方によっては、毒にもなれば薬にもなること勿論で ある。 それなら、どういう打ち方が高血圧に良い結果をもたらすか−−−これを率直に わかりやすく言うと、 (1)番数を一回二三面にすること。 (2)勝敗を度外に置いて打つこと。 (3)悠然と、落ち着いて、気長に打つこと。 (4)碁を人間修養の一方法と心得、敗けても悔なき上品な、風格ある碁を 打つよう心がけること。 (5)思考をこらす間が禅の境地であると考え、一局に少なくとも1時間以上 費やして打つ習慣をつくること。 すなわち右項目を念頭に置いて碁をたしなめば足りるのであるから、病気の 療法としてはあまりに簡単平易で、むしろ効き目を疑うほどである。けだし碁の 味、碁の価値はそこにあるので、この簡単平易なところに実は無限の味を潜めて いるのだから愉快である。 右の5ヶ条はただに高血圧患者ばかりでなく、いやしくも碁をたしなむ人は すべて厳守すべき緊要な心掛けである。この心掛けさえあれば、碁は一種の座禅 ともなり、鎮静剤ともなって、ともすると亢奮しがちな精神を鎮め、いたづらに 亢進する高血圧を漸次低下せしめるのである。 ところが世上の碁打ちはあまりにも勝敗に囚われ過ぎている。だからこそ碁を 打つと神経が高ぶり、脈拍が波の如く揺れ、かえって病根を重らせるような結果 になるのである。 この意味から言って、碁会とか懸賞碁などはなるべく避けるべきであり、番数 を重ねることも控えるべきである。一局をあまり短時間に打ち過ぎると、幾番 でも打ちたくなるが、一局に1時間以上費やして、ゆっくり打ちさえすれば、 二三局で満足できるものである。 | |
| 04-0008 | |
| ◆こだま490号の悲劇 ◆伊藤 ◆04年06月18日 11:01 | |
| いつもは1時間近く早い列車に乗るところを、高熱を出した老母の介護に手間取り、名古屋駅で乗ることができた新幹線は21時45分発の"のぞみ30号"であった。 ところが、列車が走り出して気がついたのだが、どうも車内の様子がおかしい。そのうち始まった車内アナウンスを聞くと、どうもこの列車は"のぞみ"ではなくて"こだま"のようだ。 自分が乗ろうとしたのは"のぞみ30号"なのだが、疲れていたためかあわてていたためか、その4分前に同じホームに到着してすぐに発車する"こだま690号"に乗ってしまったのだ。 まあいい、間違えて"こだま"乗ったとしても、到着が4,50分遅れるだけのことだ。その間、ビールを飲んだり、本を読んだり、眠くなれば眠ったりしてゆっくり過ごせばいい。これは、天が与えてくれた休憩時間だと思えばいいのだ。 そういえば、今から10年ほど前、東京駅から乗った"ひかり"で、隣の席に乗り合わせた男のことを思い出すなあ。その男は、大塚商会の社員で、横浜の取引先に電子部品を急いで届けるために"ひかり"に乗りこんだのだが、その列車が新横浜には停まらないことに気がついたのは発車したあとだったなあ。 当時はまだ大変めずらしかった携帯電話を座席に座ったままかけまくっていたが、次の名古屋駅で降りてもその日のうちにに東京へ戻る新幹線はなく、結局、その日は名古屋に泊まって翌朝戻る以外に手はないことになって、しょげかえっていたな。後できっと、会社の上司や取引先からさんざん叱られるんだろうなあ。それに、ホテル代や名古屋までの往復運賃も自腹を切ることになるのだろうなあ、かわいそうに。 その男にくらべたら、この俺の場合はどうちゅうことはない、到着が4,50分遅れるだけのことだ、どれビールでも飲んでゆっくりするか、と三人掛けを一人で占領して、真ん中の席に座りながらビールを飲み始めた。 三河安城を過ぎてからまたアナウンスがあったので、今度はよく聞いていると、終点三島には23時26分着と言うではないか。何やと、おいおい、話が違うじゃないか、こりゃえらいこっちゃ、と飲みかけのビールを置いたままえらく先の方の車掌室まで行って、そこにいた若い車掌に、"のぞみ"と"こだま"を乗り間違えた、今晩中に東京へ行きたいのだがどうしたらいいか、と問いつめたのであった。 その車掌がいうには、先ほども同じように乗り間違えをした(アホな)お客さんがいて、その方は三河安城で降りて名古屋へ戻られましたが、名古屋へ戻ってももう東京行きの"のぞみ"はないので、今晩は名古屋に泊まられるとのことだそうです。(さすがに、声に出してアホな乗客とは言わなかったが、心の中ではそう思っているにちがいあるまい。) お客さんの場合は、もう三河安城の過ぎてしまい名古屋へ引き返すことはできないので、このまま三島まで行かれて、そこで一泊して明朝の"こだま"で東京へ行かれるほかありません。在来線の上り電車はもうありませんし、下りで沼津まで戻って夜行列車に乗り継いでも夜中の2時に乗って東京へ4時に着くといった不便な時間になります。 私も今晩は三島の職員用の宿泊所に泊まります。 その宿泊所とやらは、乗り違えた客も泊めてくれるのか。 そのようなお客様用の部屋はありません。 それなら、あんたと同じ部屋でもいいんだが。 いや、それは困ります。夜中に何をされるかわかりませんし。 そうか、しかたがない、それじゃあ駅の近くのビジネスホテルにでも泊まることにするか。 あした晴れたら、富士山がきれいに見えますよ。 気休めをいってくれるな。富士山なんか見ても、俺の心が晴れるわけないだろ。 唯一の救いは、その車掌が切符に"誤乗車"とサインしてくれたおかげで、翌朝の"こだま"の料金は払わなく済んだことである。 | |
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| ◆中野坂上便り 〜 その十六 〜 ◆谷口 一 ◆04年05月21日 11:11 | |
| なぜ地面が「じめん」かわからない。「ぢめん」と思うが。ワープロでローマ字入力で打つ。DIMENNでは変換してくれない。JIMENNなら地面になる。地は「ち」だから地面は「ぢめん」が当然だと思うが。何をいまさらだけれど、こんなことに時々ぶつかる。ブリヂストンは固有名詞だからいいのか。「こんにちわ」がいつから「こんにちは」になったのか。なら、「きれいだわ」はなぜ「きれいだは」でないのか。 昭和六十一年七月一日、内閣総理大臣中曽根康弘の内閣告示第1号に「現代仮名遣い」がある。ここからこうなったのか。いやいやもう少しさかのぼって、昭和二十一年十一月十六日、内閣総理大臣吉田茂の内閣告示33号の「現代かなづかい」か。 うん、この告示では「痔」は「じ」になっている。ワープロでも確かに「ぢ」では変換してくれない。「痔」は「ぢ」でなくては。「じ」じゃ「痔」じゃないな。街の薬局の赤字の「ぢ」看板も吉田茂さんに背いているのか。コップ水をよくかけられなかったものだ。吉田茂といえば国葬の人。佐藤栄作は一ランク下の国民葬。今後、国葬、国民葬の政治家は現れないだろう。いやいや現れない方がいいことだろう。現れたとしたら大変なことだ。きっとあらぬ方向に、またひた走っている時だろう。桑原桑原。 しかしワープロは告示に忠実なもんだ。スローに洗脳されているようでいい気はしないが。ちょっと先の話で恐縮だが、来年から年賀状は手書きにします。いささかの抵抗というより、今のところ手指もまともに動くのに情けない気がして。ワープロ文字は字に気がないのです。下手でも気の方が大事。気づくのに何年かかったやら。 さて、サザエさんの四コマ漫画では「こんにちわ」だったな。今は「は」が正しいんだろうけど、気は伝わってこないなあ。まあ好きに使えばいいのか。丸谷才一さんの歴史的仮名遣い文章にまったく違和感がないのは、古くなった男の証か。 宣伝文しか読んでなくて薦めるのはなんだけれど角川書店の「俳句で楽しく文語文法」山西雅子著はきっと面白い予感がする。角川選書1365円です。図書館ででも注文してみてください。日本語の世界が広がると思います。 打っていた携帯メールの文章を覗いて、娘が一言「かた〜」。参考に見せてもらった彼女たちのメール文は、携帯画面の中で踊っているし跳ねている。こちらのは正座。踊ればいいというものではないが、跳ねてもみたい。なおしてもらったら少し踊った。☆や!で賑やかだ。こんなの〜^^〜も付く。これも文体なのだろう。世は流れていく。それでいいと思うし、頑なにそれもいいと思う。 今朝、先月植えた南瓜に直径5cmほどの花が付いていた。どうも成育が悪そうでどうなることかと思っていたが、小雨の中、思わぬ黄色の花に目を疑った。蕾らしきものもなかったのに、いきなり。 野菜の成育を日々見ていると思う。 時間が確実に正確に経過していっているのを。 今も宇宙の秒針に背中をつつかれている。 | |
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| ◆中野坂上便り 〜 その十五 〜 ◆谷口 ◆04年04月27日 17:03 | |
| 二十代の半分ほどの期間は、北海道の牧場や信州の野菜農家に住み込み、朝から晩まで百姓仕事の手伝いをしていた。牧場では夜明けと共に起きて乳を搾り、山の麓の牧草地にてくてくと牛を追っていく。来た道を牛舎に戻れば、大音響の朝のラジオを聴きながら掃除。終わればやっと朝ごはん。搾りたての牛乳を煮沸し味噌汁のお椀で飲んだ。夏でも朝は薪ストーブを焚いていた。近くの新冠川をよく眺めていた。 信州の農家は八ヶ岳の山麓、延々と続くレタス畑、真夏の炎天の下、つばの大きな麦藁帽子、首に巻いたタオルがすぐに絞れてしまうほどの汗、中腰の雑草取り。太陽は動かない。時間が止まっていた。振り返れば取り残した草が気になり、蟻の動きの早いことよ。流れる雲が太陽を隠してくれるわずかの間、八ヶ岳から風がすうっと降りてくる。若いレタスの苗がふるえる。畝の間に腹ばいになれば、あたりはしいんとして大地の一部になったように感じる。 当時は自分なりに理由をつけて、その仕事に没頭していた。しかし、今考えてみるとたいした理由などなく、自然の中で汗を流し収穫することが、自分に合い好きなことだったのがわかる。年を経るとさらっと物が見えるようになるのか。 庭に三坪ほどの畑を作った。小さなスコップ一本で掘り起こし、小石を取り除き数週間置いて、堆肥を入れ鶏糞を入れ、炭を砕いて土に混ぜ三本の畝を作った。右手の平に出来ていた二つのスコップ豆も完治した今、苺、西瓜、南瓜、枝豆、トマト、イタリアンパセリの苗が元気に伸びている。そろそろ虫や病気が心配になる。そういう関係の店に行くと、農薬類が置いてある棚を見て回る。注意書きを読む。次から次へと。 勝手なものである。一年中野菜を届けてもらっている千葉の三芳村の契約農家とは、有機、無農薬と声高に言っているのだけれど、いざ自分の猫の額の畑では、一本の苗可愛さに農薬を調べる。葉にちょっとした異常を見つけると本屋に直行。「うどんこ病は・・・」農薬が欲しくなる。幸いまだそこまではいかないのだけれど。 朝、若い苗を見ているのは楽しい。今朝はトマトに黄色い小さな花がついていた。しゃがみこんで見る。これが本当に赤い実になるのかと思われるほど、小さな一重の花だ。というより黄色いガクのように見える。葉や茎にちょっと触れただけでトマトの青臭い臭いがする。小さいころ畑でもいだトマトの臭いだ。それだけで嬉しくなる。 二十代に歩き回った畑や牧草地の何万分の一の面積のこの畑にも、日が差し、雲が通れば影も出来る。水をやれば苗も土も生き生きとする。風が吹けばふるえる。 枝豆が収穫できるころを思う。少し硬めにゆでてさっと塩をふり。もうこの思いがビールを飲むいいつまみになる。確かにどんな事でも、そのプロセスが一番楽しい時期なのかもしれない。となるとすべては楽しいことになる。生きていることはプロセスなのだから。 | |
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| ◆ひきこもりの原因あれこれ ◆すばる ◆04年04月04日 17:18 | |
| 斎藤環先生『ひきこもり文化論』を一読。<去勢拒否>という原因指摘が出て きました。 母親などによる家庭内のちやほやに加えて、学校では「君たちには無限の可能性 がある」という建前論に包まれて、子供の自尊心が高く維持されている。 ところが現実は厳しくて、自分はオールマイティではないんだ、という事実に直面 しなければならない。その上で、社会と妥協し、一定の負荷・苦しみも受け止めつつ、 生きていくのが普通のコースだが、このとき、直面を避けて、家庭という無風地帯に 引きこもって、高い自尊心を守りつづける場合が出てくる。 ほかの原因指摘はなく、「誰にも原因はわからない」が繰り返されていました。 そこで、ううむ、となって、小学校教諭である妻と軽く検討してみました。 (1)登校拒否になる子は、普通か普通以上に優秀な子である。 とろい子や知恵おくれ気味の子は、登校拒否にならない。 上記の自尊心の有無をいうと、ある程度の知力が前提になる。 言葉や対人関係において、繊細で傷つきやすい子、という事実もある。 (2)学力優秀 との相関関係はない。 (3)いじめが原因 というわけでもない。 結局、家庭内ちやほやによる高いプライドに原因がありそう。 (4)本の中に、非常に優秀な女の子がいて、勉強はすいすい。苦労もなく超一流 大学に合格したが、そこで目的喪失となって、ひきこもりに陥るという事例 が紹介されていました。 どうもこの子は本当に優秀ではなく、親の期待に応えての勉強をやって いただけでは? 実生活体験や交友経験の不足、あるいは、胸ときめかす 世界(芸術・文学・科学・スポーツ)への不接触が大きいのではないか。 (5)家庭内暴力を伴う子は、どう違うのか? 家庭内ちやほやや親の期待を、規制・強圧と感じていた子が、逆襲に出る。 自分は被害者だという思いがある。 (6)母親が人間的に未成熟で、自己防衛に終始している例がある。 そのため、自分の子にも、愛情や感情を表明できない。子供のほうは活発で 明るい子だったが、小学校にあがりはじめてまもなく、登校拒否に陥った。 これは、家庭内ちやほやではなく、愛情・甘えの不足が原因。人生や学問 へ立ち向かうバネは、自分は母に愛されているという安心にあるのだが、 愛されていないという絶望から、すべてを放棄。登校も放棄された。 登校拒否・ひきこもりという同じ結果であっても、その原因は何通りかありそうです。 | |
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| ◆中野坂上便り 〜 その十四 〜 ◆谷口 ◆04年04月01日 14:47 | |
| 春は風が強い。三日見ぬ間の桜とはよく言ったもので、桜吹雪から葉桜へはあっという間。今朝は北風、午後は南風という。散り急ぐこともないのに、その執着のなさが日本人の心にかかるのか。またこれほど香りのない花もめずらしい。梅とは対極。梅は春を連れてくる。桜は初夏を呼ぶ。 東西に伸びる青梅街道に出て、南北に走る山手通りとの交差点にかかると、ここが中野坂上、いつも風が強い。渋谷の方から吹く南風、池袋の方からは北風、新宿からは東風、杉並の方からは西風。風を感じていると明日の天気がだいだいは予想できる。そんな風に歩いていると見落としている物も多々ある。 青梅街道の街路樹はすずかけ(プラタナス)、夏の繁茂した大きな葉、秋の色づいた葉の陰に鈴のような丸い大きな実、冬にかけてがさごそと音がするような落葉。冬の夜の路上で足にまとわり付いてくる枯葉。しかし、街道沿いに等間隔に並んだすずかけの裸木をずっと見ていなかった。何かの拍子にそれを見上げた時、その異様な風体に呆然とした。瘤のある幹と枝、曲がりくねって規則性のない枝々、所々白い文様のある樹皮。どこか宇宙の彼方の星にいる生物の骨格を連想するようなすずかけの裸木。何本も連なっているこの木々を見ていなかったのだ。これは発見だった。じっと見ていても見飽きない。 すずかけの裸木の森があったならシュールな世界が現出するだろう。 葉が散ってからずっとポケットに手を入れて俯いて歩いていたのか。 見ているようで見ていないのだ。気付いているようで気付いていないのだ。見ないと何も見えないのだ。 すずかけに新しい芽が吹くまでのあと数週間、楽しみな世界を見つけた。 それにしても春は急ぎ足だ。国立の辛夷の大木も今朝はもう花は一つもなく、新芽が吹き出していた。電車から見える小さな公園の池の端の柳の新芽も、揺れていた。土手の草木瓜の朱色の花も盛りだ。駐車場の脇のわずかな空き地のヒメオドリコソウも伸びきっている。オオイヌノフグリが精一杯の花を付けている。光も白い。 「春は馬車に乗って」という小説で、それは浜辺で療養をしている夫婦にスイートピーが岬を回って友人から届くという話だったけれど、その題名に惹かれて読んだのを思い出す。馬車に春が乗ってくるとはうまく言ったものだ。そこだけが明るく目に焼きつく。 冬は山から下りてくる。春は山に登っていく、そして北に走っていく。その春にずっといたいなら山にゆっくりと登ればいい。テントとせめて二週間分の食料を持って。 風が止まって、もうすぐ南の風に変わる。古代人なら風に雨の匂いを嗅ぐだろう。西から大急ぎで雨雲が近づいている。夜半には雨。桜も見納め、そして来週は初夏の様相。 週末は歩こう。よく春を見て歩こう。 | |
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| ◆心は行動から作られる(道元禅師の真髄) ◆すばる ◆04年02月15日 20:25 | |
| 道元の『正法眼蔵』は実に難解の書で、一生懸命読みきっても、99%が意味不明 だった。(;_;) しばし茫然のあと、これは解読書に頼るしかないと、明治・大正・ 昭和の名僧である大洞良雲、澤木興道、内山興正の諸師の書を集めた。その中で、解読 の決定版となったのが、春日佑芳教授の一連の著作だった。 我々の普通の認識では、肉体とは別に、心というものがあって、心こそが世界を 認識し、肉体を操っている....という肉体と心の2元論の立場に立っている。 ところが、道元禅師の発想はまったく違っていた。心は行動から作られる。その人の 人格や心の評価もまた、客観的行動がどうかで判断するしかない、というものだった。 --------------------------------------- 仏教の教えに <一水四見> という考え方があり、我々人間にとっては水とは生命 維持のための必須の飲み物であるが、他の生物にとっては身体を破壊する恐ろしい物質 という場合もある。 ある物がどういう意味をもつ物であるかは、その生命体にとっての客観的存在条件と 生命維持の目的から決定される。このような客観的条件と行動こそが、ものごとの認識 や心を形作る....というのが道元禅師の発想だった。 具体的例をあげると、数日前のNHKの報道でしたが、40億年前、マグマ状態の 地球にはじめて発生した生命体は、なんと硫化水素を食料として、硫酸を排泄物とする バクテリアだったそうです。今現在、この原始生命体は、マグマの層に近い地下数十 キロのところを住居として、世界中に存在している。 そして本日2月15日の読売新聞の書評欄に、日高敏隆著『動物と人間の世界認識』 が取り上げられていました。 それによると、モンシロチョウの交尾の場合、オスにとってもメスにとっても、花 という食料が周囲に存在していても、この世界から万物が消失して、花も存在せず、 認識されなくなる。そして、性に動機づけられた時間が過ぎた後、知覚のスイッチが 切り替わり、花が存在する世界が出現する。 --------------------------------------- 人の心を評価する場合、たとえば志村けん。若く無名の時代、同棲までして支えて くれたお嬢さんがいて、周囲も結婚と見ていたのに、売れてくると結局、そのお嬢さん とずるずると訣別。他に有力な女性でも現われていればともかく、そういう条件もなし で、人の人生を利用し踏みにじっただけで終っている。 この場合、志村けんを、不思議な人だ、何を考えているかわからない....という評価 は、客観的行動を基準に行われている。 道元禅師の教えでは、どういう客観的行動を日々取っているかによって、見えている 世界の様子が異なっている、そうです。 --------------------------------------- 昔、我々団塊の世代の子供時代は、近所にたくさんの子供達がいて、たくさんの自然 環境があって、たくさんの客観的行動をとることができた。その多くの行動が、人生を いかに生きるかの智恵と心を形成してくれた。 今、子供の数は少なくなり、外は危険で遊べなくなり、自宅にこもって、テレビを 見るしかない日常に置かれて、子供達が育てられている。客観的行動が極端に少なく なっている。 その結果、心の形成量が少なくなり、引きこもり現象や、神戸の少年A事件が連発 している。彼らに見えている世界の様子は、我々の見ている世界の様子とは異なって いる。 子育ての結論は、子供達がいかに多くの客観的行動を取れるように、環境作りと チャンスの提供をしてあげるかにかかっている。 ボーイスカウト活動やスポーツやボランティア活動は、貴重なチャンスです。囲碁 というゲームも、他者との関わりの中から自己を形成していく、貴重な世界です。 --------------------------------------- そして私の関心は、悟りの状態に陥ったときに見える世界とはどういうものかに あるのですが、道元禅師の教えでは、日々の菩薩道の実践行動の積み上げが、心を 形成して、ある種の世界観とその独特の様子に導いてくれる。行動の反映が、心で あり、悟りの世界である....そうです。 道元禅師の教えをそのまま延長すると、客観的行動が心を作る。客観的行動が 無くなったとき、つまり肉体が死んだ時、心も存在しなくなる....というところに 落ち着きそうですが、仏教の大前提は、生まれ変わりがあり、霊魂は不滅という ところにあります。 若き道元が、一生の師・如浄にめぐり合えた時の質疑応答のメモ『宝鏡記』には、 如浄師の明快な回答として、「来世や来々世を否定すると、今生をも否定すること になる」という言葉が、しっかりと道元自身によって記録されています。 米国のスティーブン博士の実例収集を紹介する『前世を覚えている子どもたち』 の中には、生まれ変わりを否定できない、多くの事例が存在している。 道元禅師の <修証一如> の教えは尊いが、こと悟りの世界がどういうものか という点では、ある半面の把握でしかない気がしています。まあ、そうは予測して みても、まずは悟りを体験しないことには、何にも言えない。 (^^;) 座禅一筋 の修行の日々に早く入ってみたいものです。 修=修行=日々の行動。 証=証明=悟ったときに見える、自己と世界が無差別一体の様子。 修行があって、悟りに行けるという因果関係、順序関係ではなく、 修行=悟り あるいは 行動=心=見える悟りの境地 という 同義反復の関係にある、というのが<修証一如>の考え方です。 --------------------------------------- 行動が心を作り、世界の見え方を決定する....という話のひとつの結論として、 囲碁に親しむ行動を日々とっていった時、そこに見えてくる世界は、また自ずから 独特のものがある。 それが呉清源師のいう「碁とは勝敗決着の世界ではなく、調和の達成実現の世界 である」というところであり、囲碁の三昧境あるいは桃源境ではないか、と期待 しているところです。 | |
| 04-0002 | |
| ◆人をゆるすということ ◆すばる ◆04年01月25日 13:54 | |
| 村の葬式でいつも気になるのは、まったく一面識もない人の場合でも、通夜や 葬式に顔を出すということがある。その人の存在も名前もまったく知らなかった のに、といつも首をかしげながら、つきあっている。 ところが今回、憎むべき男の葬儀が出た。私一人がいじめられたのではなく、 権力をかさに着て、かなりの人がいじめられた。私などは、まあ軽い被害の方 だった。あんな奴の葬儀に誰が顔を出すかと思ったのだが、結局顔を出すことに した。 ここ一年、仏教書を読みかじっていたので、怨みの気持ちがあればそれが残留 エネルギーとなって残り、いつか必ずそれなりの悪い結果を生じるようになる、 と信じるようになっていたからだ。 そこで、因果の連関を切断消去するつもりで、顔を出した。手を合わせながら、 「赦すけど、お前もちゃんと謝れよ」と遺影に向かって念を押していた。自分には とてもできないことだけど、「汝の敵を愛せよ」という言葉の深さがよくわかった。 それからしばらくして、紀野一義師の『法華経を読む』に出会った。紀野先生 の和歌山方面での講演会の出来事が書いてあった。 ------------------------- 以下、引用です。 本堂を埋ずめた満員の聴衆のまん前に、羽織袴に威儀を正した初老の紳士が 坐っていた。講演の間じゅう、きちんと正坐し、身を乗りだすようにして聴き、 おかしい時は、大口をあいて哄笑するという人であった。 その人が、講演が終わるとまもなく、別室にいた私に、「ひとつだけお伺い したいことがあるので入っても宜しいでしょうか」と言ってこられた。 その人を一瞥すると住職は私の耳に口を寄せて小声に早口で、「あの人は 胃ガンでもう今日明日という命なのです。昨日まで入院していたのですが、今日 は先生のお話があるというので、院長の特別の許可をもらって出て来られたの です。そのおつもりで」と言われた。 その紳士は畳に額をすりつけるようなていねいなお辞儀をしたあとでこう 言われた。 「先生のご本の中に、憎しみを捨てる時は完全に捨ててしまわなくては ならぬと書いてありましたが、そうしなくてはならないものでしょうか?」 「そうしなくてはいけないと思います」 「私は胃ガンを病んでおります。もう助からぬと思います。しかし私には、 どうしても赦せない男が一人おるのです。死ぬ前にその男に会って、話し 合った上で、その男が心から詫びてくれたら快く赦して、その上で死んで ゆきたいのですが、そうするのは間違いでしょうか?」 死に直面している人に「それでいいでしょう」と言ってあげたいのは山々だった が、それはできない。死に直面している人だからこそ、ほんとうのことを言って あげなくてはならないと私は思った。 「それはなりません。話し合って相手が詫びたから赦すというのでは赦す ことになりません。赦すのなら無条件で赦すのです。それしかありません。 話し合って相手が詫びなかったらどうするんです。死んでも死に切れん でしょうが。それではあなたは、輪廻することになります。無条件で赦して あげなさい。それしかないのです」 その人は下うつむいたまましばらく黙っていた。やがて顔をあげ、いかにも 晴れ晴れとした顔でこう言われた。 「先生、よう分かりました。この場であの人に対する怨みは捨てました。あの 人を赦すことにします。どうもありがとうございました。これで、安心して 死ぬことができます」 その人は、再びていねいに額を畳にすりつけてお辞儀をされ、袴の裾をさっと 捌くようにして部屋を出てゆかれた。その笑顔が忘れられないのだ。 | |
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| ◆谷口 一 ◆中野坂上便り 〜その十三〜 ◆04年01月20日 10:15 | |
| 河童に会ってから、もう四十年になる。 その事は誰にもずっと言わずにいたのだけれど、二十年前に物書きの友人に話した。それからまた二十年がたった。物書きの友人はその時にこう言った。「やっぱり居るんだな。でも誰にでも会えるものではないから、いいなあ、会いたいなあ」と。 雪のない冬だった。丹後の山中を中学生を先頭に六人の子供が歩いていた。一番年下の僕が小学四年だった。槍のように尖らせた篠竹をみんな一本ずつ持っていた。篠竹は大人の親指ほどの太さのまっすぐきれいな竹だ。その群生地を誰もが知っていた。気に入ったのを自分で切り、先を尖らせた。それぞれの背丈ほどだ。深い山へ入っていく心意気のようなものだ。また、雉やうさぎに会えばいっせいに投げようと思っていた。 日本百名瀑に入っている「金引きの滝」の上に来るとなだらかな山道になる。この山道をずっと行くと、道は人ひとりがやっと通れるほどになり山を越え、知らない町に続いている。途中、沼のあるところまでは行ったことがある。深い緑の静かな沼だった。一見して後ずさりして戻りたくなるような沼。音を立てると何かが追いかけてきそうな気配の沼。深い深い山にぽつんとあった。 滝の水となっている小川を渡り、山道から左に入っていく。ここら辺りはまだ山仕事の人の踏み跡がある。猪が荒らした小さな畑が点々とある。春になればここまで上がってきて畑仕事をする人がいるのだ。道は人の踏み跡だ。その道からまた左に分け入る。小さな沢筋の道。猟師とけものの道。ここから先はみんな行ったことがない。荒れた杉の木立で鬱蒼として暗い。誰がルートを決めたのか今は思い出せない。篠竹を持った六人は深い山へ入っていった。途中びっくりするようなりっぱな山芋の蔓を見つけて、その下を掘った。尖った枯れ枝で掘った。石の混じった土の中を山芋は縫うように伸びていて子供の手に負える物ではなかった。三十センチほどで太いまま折れてしまった。また登りだした。真っ白の野うさぎが目の前の藪から走り出した。急斜面を尾根に向かって駆け上がる。いっせいに篠竹を投げた。中学生の投げた篠竹の槍にうさぎは足をからめて一瞬躊躇したけれど、駆け上がり尾根の向こう側に消えた。僕らも自分の竹槍を取り、両手を突いて尾根に駆け上がった。尾根は明るかった。暗い沢筋をずっと歩いてきた僕らに尾根は本当に明るく、広い視野をくれた。うさぎはもうどこにもいなかった。僕らは歩いてきた沢に向かって竹槍を思い切り投げた。その時、僕らの冒険は終わった。尾根からは帰り道が予想できた。山の向こう側から山のこちら側の僕らの村に向かって藪の中を降りていった。晴れやかな気持ちだった。もうすぐ人家が見えるところまで来て、一番後ろを歩いていた僕は、僕の後ろにもう一人誰か歩いている気配を感じた。僕は止まった。気配も止まった。振り返った。135センチの身長の僕の目と同じ高さの位置にある目と目が合った。数秒間。それは木の枝が跳ねるように横跳びに藪に消えた。河童だった。はっきりと河童だった。瞬間僕はこれは誰にも言ってはいけないことだと思った。なぜだかわからない。いや、もしかしたら僕が思ったのではなく、河童が僕の脳にそう言ったのかもしれない。 四十年がたった。あの河童はどうしただろう。場所もまだはっきりと覚えている。 窓外の学校の梅が花をつけた。この時期だったんだ。 | |
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| ◆中野坂上便り 〜 その十二 〜 ◆谷口 一 ◆03年12月26日 15:15 | |
| 中野駅南口を出て、線路脇の坂を上っていくと今風のコーヒー屋がある。100人も座れる広い店内。中ほど、柱の影の四人がけのテーブルが僕の指定席。15分ほど。煙草二本の朝のリフレッシュ。数回通えば自分の場所が、居心地のいい場所が見つかるものだ。図書館然り、居酒屋然り、映画館然り。 もう随分と前の事であるが、関西から東京に出てきた一番の理由、それは名画座と呼ばれる映画館が東京のあちこちにあったから。中野駅南口の正面にも中野名画座あった。ほとんどは過去形。 東京に出てきて一番最初に見たのは、渋谷の全線座、「シェルブールの雨傘」だった。池袋の文芸座には毎週通っていた。新宿の蠍座にもよく行った。飯田橋佳作座、銀座並木座、新宿パレス、テアトル、高田馬場パール座、早稲田松竹、ギンレイホール等々。文芸座が250円だったと思う。地下は邦画、黒澤明特集もここで見た。 情報誌「ぴあ」の創刊が1972年7月だから、その少し後からか、「ぴあ」には随分お世話になった。最初はうすっぺらな冊子だった。何度も開いて赤丸を付け、映画館やjazz喫茶に通った。そのどこに行っても、自分の場所はいつの間にか決まってしまう。映画館だと前から7列目のやや右寄り。別にその場所に固執するわけではないのだけれど、朝のコーヒー屋と同じく、不思議にその場所が空いているのだ。 その人の心地いい居場所というのは、当人が意識しているかしていないかは別としても、傍らから見ていても心地よいものだ。 田舎、茅葺屋根、冬の陽射し、縁側、鳥に残した熟れた柿の実少し、座布団、おばあちゃん、針仕事。生きていくという事は、その人その人の居場所探しの旅かもしれない。そしてそれは年年歳歳変わっていく。おばあちゃんの青春時代の居場所が縁側でなかったように。 さて、2003年も数日間を残すだけとなり、自分の居場所である中野坂上の事務所に冬の陽射しが差し込み、「クワズイモ」の大きな葉がその陽をいっぱいに受けて、事務所を開いて2回目の新らしい年を迎えようとしている。次年を考えても、居場所探しの旅が続いていくのだろう。それは取りも直さず自分らしさへの旅であり、日々の楽しみ探しの旅でもあろう。まあどこへ向かうのであれ、それはいつでも吉。 春近きや。 | |
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| ◆どうでもして頂きたいという穏やかな心こそ強い心 ◆すばる ◆03年12月27日 07:04 | |
| 仏教では、苦悩の発生を根絶するために『道諦』という日常生活法があり、 それは次の八正道を、日々の生活のなかで実践すること、とされています。 正見 (しょうけん) 正しい観察 正思惟(しょうしゆい) 正しい判断 正語 (しょうご) 正しいことば 正業 (しょうぎょう) 正しい行為 正命 (しょうみょう) 正しい生活 正精進(しょうしょうじん) 正しい努力 正念 (しょうねん) 正しい思い(想念・願望) 正定 (しょうじょう) 正しい瞑想 ただ、どの言葉も簡単すぎて、心に染み込んでこないし、具体的にどうすれば よいかわからず、途方にくれていたのですが、次の小さな本に出会って、八正道 の具体的意味がよくよくわかるようになりました。 v(^_^)v 『原因と結果の法則』 ジェームズ・アレン著/坂本貢一・訳 サンマーク出版 1200円 著者は19世紀末の英国の片田舎の人ながら、お釈迦様のことまで熟知していた 思索者でした。苦悩の生活と訣別して、楽しく平安な自由の人生を歩むための智恵 を語る本ですが、その結論として、次の言葉が出てきます。 「穏やかな心こそが、本当に強い心である」 逆に表現すると、穏やかにしゃべれない、穏やかに対応できない等々は、不安 や怖れから逃げ出そうとする弱さの現われだということです。 以下、高川格先生の『囲碁の学び方』金園社 からの引用です。 (引用符 省略) +++++++++| 相手の石をアタリにする手がなぜ悪いのかという +++++++++| ことです。 ++++++◇++| アタリにする手必しも悪くはありません。それが +++++●○●+| 良い場合も勿論あります。 ・++++あ●○+| +++++++++| 然しアタリにしたからといって相手はその石を +++++++++| トラしてはくれません。当然ノビ出します。 −−−−−−−−−・ ◇とノビられると黒には「あ」という断点が残り ます。 この断点は早晩なんとか処置しなければならない。結局ツガねばならないと すれば、黒はここに借金を背負っているようなものです。これを「手が戻る」 といいます。 碁では借金は禁物です。どうせ打たなければならないところはまず打って 置く。先を急がないのです。しなければならないことはちゃんとして、強いて 効果を求めないという悠っくりした態度が必要なのです。当然のことを当然に 行う、ここに碁の真理があります。 又これは「相手に手を渡す」ともいいます。 初心のうちはどうもこれが出来ないのです。先手を渡したら何をされるか 分からないと許りなんでもかんでもアタリをかける。先手には違いないし、 自分の思い通りにもなるのですが、忽ち呼吸がきれてしまう。 そして呼吸のきれたときがへたばったときで、後は相手の好きなように 料理されて了うのです。それ位なら最初から、呼吸のきれないうちに相手に 手を渡してやるのです。 どうでもして頂きたいと相手の出様を静かに眺める、これが出来れば 碁は一人前であります。 眺めるという言葉はなかなか味のある言葉で、冷静に大局をみる、客観的 な立場に立つ、離れる、捉われないということです。岡目八目という位で 大抵の人はこれが出来ただけで相当強くなれるのです。 【追記】ジェームズ・アレンさんの小冊子は、目下の私にはお経そのもの となっていて、毎朝あるいは夜寝る前に、お経として読誦して おります。 [;^^]/○ポカッ | |
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| ◆愚形の数字的根拠 ◆すばる ◆03年12月20日 11:42 | |
| 愚形はなぜ愚形とよばれ、標準形より劣るとされるのか、ピンと来ていません でしたが、高川格『碁の学び方』にわかりやすい解説がありましたたので、紹介 しておきます。 【標準形】 呼吸点が下図のとおり。 1 12 123 1234 2●3 3●●4 4●●●5 5●●●●6 4 56 678 78910 【愚形】 呼吸点が標準形より少なくなっている。 1 12 2●3 3●●4 4●●5 5●●6 67 78 【愚形でない愚形】 ●の呼吸点6 ○の呼吸点2。標準形にくらべて、 ●は呼吸点▲2だが、○の呼吸点も▲2なので、 形勢は互角。したがって、愚形ではない。 1 2●○ 3●●4 56 【攻合の考え方】 +++++++++| ◆は ■■ の呼吸点を 2→3で +1。 ・++●●●●○○| ○○○の呼吸点を 3→2で ▲1。 +++●○○○■○| さしひき、呼吸点を2増やす手である。 ++++++◆■○| −−−−−−−−−・ +++++++++| ◆は ■ の呼吸点を 2→4で +2。 ・++●●●○○+| ○○の呼吸点は 3→3で 0。 ++●+○○■+○| この場合、+2となることで、攻め合いの ++++++◆++| 手数が逆転勝ち。 −−−−−−−−−・ | |
| 03-0030 | |
| ◆大いなる伝説の真実 ◆すばる ◆03年12月24日 19:29 | |
| 本日12月7日の読売新聞によると、「阿房宮炎上はなかった」という発掘調査 の結論が出たそうです。『史記・項羽本紀』の名場面・鴻門の会の直後に、 > 項羽、兵を引きて西し、咸陽を屠り、秦の降王子嬰を殺し、秦の宮室を焼く。 > 火三月滅えず。 とあるのですが、事実無根の脚色にすぎなかったわけです。 (^^;) 阿房宮炎上はあってもなくても、後世への影響という点では大したことではあり ませんが、事実無根なのに大いなる伝説が生まれて、後世に大きな影響を与えた例 を紹介しておきます。 (1)孔子のいう周公旦の理想政治はなかった 紀元前1100年頃の殷周革命の直後、魯国の創始者である周公旦が、孔子の 理想とする徳治政治を行った....と孔子は想定していますが、実はその時代はまだ 士大夫階級もなければ、国家間の外交も外交儀礼も存在していなかった。 孔子の歴史調査は、たぶん孔子の前200年頃(紀元前700年)に存在した 社会のことであり、下克上と戦国化の進行で失われていった儀礼のことのようです。 また、三年服喪の儀礼も、孔子の金石文解釈の誤解から生じた幻想に過ぎず、 殷の高宗(武丁)が父の喪に服し3年ものを言わなかったのは、喪が原因では なく、多発性脳脊髄硬化症により、舌・耳の障害を生じていたことが、甲骨文の 発掘調査から、わかっています。 ( 白川静・孔子伝より ) (2) 仏教の真髄は釈迦以来、一人の弟子のみに正伝されてきた 禅宗では、正統の伝承を最重要視しており、釈迦を0代目としてインド28代、 中国23代と系図化しています。インド28代目=中国1代目=達磨様です。 中国24代目=日本1代目=道元です。 道元は、日本臨済宗の祖であり自分の師であった栄西を、この正統からはずれて いるということで、真正の仏教とも真正の仏祖ともみとめていません。 一人正伝の伝説のスタートは、お釈迦様が霊鷲山で大衆に一輪の蓮華をつまんで 呈示してみせた時、摩可迦葉だけがその真意を悟って微笑した。そこでお釈迦様は 摩可迦葉に仏教の極意を伝授した....という捻華微笑の場面です。 ところが、この話を伝えている『大梵天王問仏結疑経』自体が中国で作られた 偽経であり、話の元ネタは、論語の里仁篇だそうです。 > 子曰く、参や、わが道は一以て之を貫くと。曾子曰く、唯と。 > 子出づ。門人問ひて曰く、何の謂ぞやと。 > 曾子曰く、夫子の道は、忠恕のみと。 ( 森三樹三郎・老子荘子より ) (3) 事実の価値か、真実の価値か 上記のような伝説になると、事実かどうかが問題ではなく、倫理的に真実か否か という価値的重要性の問題になります。大いなる幻想や理想の価値です。 演技論を尋ねられたジョディ・フォスター曰く、 「映画の中の物語や場面はフィクションにすぎないけれど、 現実以上に、真実を感じる瞬間があるの」 | |
| 03-0029 | |
| ◆中野坂上便り 〜その十一〜 ◆谷口 一 ◆03年12月05日 17:19 | |
| 物騒な世の中。 新宿の高層ビル群が西に延びて、その西端が中野坂上交差点にあるビルとなる。宝仙寺の木々越しに事務所の窓から見えている。 東京がテロに巻き込まれたらあのビルも標的の一つになるだろう。ガラスが割れただけでも建物の高さの三倍飛散するというから、宝仙寺の墓地横で空など眺めていたらガラス片の雨だろう。墓地に飛び込んで墓石に身を隠すのが最善か。 半世紀以上も前、帝国陸軍に仙台で入隊し米軍機の機銃掃射にあった男がいた。たまたま墓地のそばを歩いていた時、低空で飛んできた米機の標的になった。操縦士の顔がはっきりと見えたという。バリバリバリバリという音と共に土煙が舞う。間一髪で墓石の陰に飛び込む。御影の石が砕け飛ぶ。瞬間であり永遠の時間。飛び去った米機の尾翼にあかんべえでもしたのか。 親子二代、墓石に助けられないとも限らない。 敗戦の年の昭和二十年生まれが今58歳。戦後生まれは人口の70%は超えたであろう。アメリカと戦争したなんて知らない若い人もいるようだ。まあずいぶんと仲良くなったもの。鬼畜と呼んでいた米英が、今は日本を牧畜とでも思っているのだろうか。いやいやそうではなくて、わが方に従純(誤植ではなく)な牧畜の待遇に入れ込んでいる人がいるということか。 なんで自ら進んで日本人を東京を、テロの標的にしようとするのか。今や大義名分も吹き飛んだアメリカの戦争になぜ加担するのか。イラクを攻撃するということは100人のオサマ・ビンラディンをつくることだといった人がいたが、その通りになってしまったようだ。 アメリカはベトナムでの教訓を忘れた。ベトナム戦争当時の国防長官マクナマラが30年の沈黙を破ってベトナムの失敗の理由をあげている。@危険の誇張A政情の誤解Bナショナリズムの過小評価C専門家の不在Dハイテク兵器の限界等々11項目にわたる。イラクでの泥沼化もベトナムでの失敗と同様であるということ。イラクの世論の80%が米英軍を信頼していないという現状下では、どう足掻いても打開の道はないと思う。抵抗勢力がいつのまにかレジスタンスと呼ばれていた、なんてことにもなりかねない。戦線を離脱する米兵も多いと聞く。休暇で本国に帰りそのまま戻ってこないのだ。数千人が精神的問題に陥って本国に戻され治療を受けているという。本来、戦争は人間には合わないのだ。不幸の連鎖を招くだけ。金の亡者を除いては。 日本人外交官二名が殺害されたニュースもお気の毒には思うが、ブッシュに追従したときから当然予想されたこと。アメリカ主導のイラク占領統治に協力する日本人外交官として狙われた、とイラク暫定内閣ジバリ外相がコメントしている。旧フセイン政権の情報機関「ムハバラト」の犯行という。終わってはいないのだ。アメリカのイラク侵略戦争とそれに対抗する戦いは。ここでノコノコトと自衛隊がイラクへ行こうものなら、アラブ世界の親日感情はいっぺんに吹っ飛んでしまうだろう。日本人を狙ったテロ活動は急激にエスカレートするだろう。 なにしろアメリカのおかげでオサマ・ビンラディンが100人に増えたのだから。悪夢のアラビアンナイトということ。なんとしても自衛隊の派兵はごめんだ。イラクの南へ行こうが北に行こうが、空自であろうが陸自であろうが、今行くのは戦争に加担しにいくこと。戦争しに行くこと。 日本は戦争をしない国。軍備を持たない国。そう憲法にわかやすく書いてある。イラクには行けないのだ。 とにもかくにも、宝仙寺の墓石の陰で念仏を唱えることだけは勘弁して欲しい。 | |
| 03-0028 | |
| ◆藤沢秀行先生による一流棋士の棋風 ◆すばる ◆03年11月15日 01:06 | |
| 以下、藤沢秀行『八方破れ人生』からの 引用〜紹介です。 【 坂田栄男 と 藤沢朋斎 】 例を坂田さんにとりますと、これは切れ味を非常に感じさせるんですね。という ことは、ひじょうにゴチャゴチャした複雑なところを、正確に読んでいるってこと ですよ。快刀乱麻を断つっていうんですかね。 朋斎さんは棋士のなかでも代表的な長考型なんですけれど、朋斎さんの場合は、 つまり自分のこと----相手にこうこられたら困るんじゃないかなってことも、 ひじょうに考えてるように思うんですがね。 たとえばまァ、敵にこう攻められたら困るんじゃないかっていうふうに、防御的 なところに重点をおいてモノごとを考える人と、敵をどう攻め崩したらいいかと、 攻撃を主にする人と、同じ考えるんでも、そのふた通りがあるわけですよ。 そりゃ坂田さんだって、自分のことを考えないわけじゃないけど、どちらに重点 をおく性向があるかっていうと、これは切りこんでゆくほうなんです。 【 橋本昌二 】 橋本昌二さんは、相当に先のほうまで読むタイプなんです。これはまぁ、ぼくが 打ってて、そういう感じをうけたんですけれども、とにかく、ホントの、変化の 変化の先ぐらいまでを読んでるんですね。 【 梶原武雄 】 ちょっと特異なのは、梶原武雄さんですね。この人は石の命とか形とかをひじょう に重んじて、そこから出発して、いわゆるまァ、これまでにない新工夫的な考え方を するんです。 たとえば----碁に限らず、どの道にしても、職業にしても、それぞれに考える基礎 ってものはあるわけですよ。過去何十年か何百年かの積み重ねっていいますか、伝統 っていいますか、既成のものがあるわけです。 ところが梶原さんは、そういう過去からある基礎を打破しちゃって、むしろ白紙と しての考え方で出発してゆくというやりかたなんですよ。 【 呉 清源 】 全盛のころの呉清源さんの碁をみますと、決め方がじつにうまかったですね。 ”風林火山”というのがありますが、あのなかの ”疾きこと風のごとし”、あれ なんですよ。 ほんのちょっとした相手のスキをみると、サーッと切り込んでいって、その早さ が、まさに疾風迅雷なんですね。他の人にはちょっとないところで、これはまァ、 古今随一だと思いました。 【 木谷實 と 橋本宇太郎 】 木谷先生の碁風というのは、”動かざること山のごとし”といいますか、ひじょう に力強くてね、なにかこう、打ってても鋼鉄にぶつかっていくような感じのする碁 ですよ。だからひっぱたいても、こっちの手が痛くなっちゃうような、ね。 ただ、昔、安永一さんが、こんなことをいってました。 「木谷君は早見えがする。しかしそれでいて、迷いがひじょうに多いんじゃないか」 と。 ぼくなんかの場合、迷ったときはある程度、切り捨てちゃって、さきにもいった ように感覚でゆくわけなんで、そういう意味では決断が早すぎるきらいがあるんで すけれども、木谷先生はそうじゃないって、安永さんはいってましたね。 しかしこれは持ち時間のながい場合の話で、やっぱり木谷先生の一分碁なんて のは、そりゃ強かったですよ。 橋本宇太郎さんには、昔から ”天才宇太郎”って称があるんですが、これは 私も、そう思います。 というのは、碁のアヤですね。つまり、碁にはいろんな組み合わせがあるんです が、そのうまさですよ。これは当代随一に数えられていいんじゃないでしょうか。 ところがその宇太郎さんが、木谷先生にはうまくゆかないんです。ぼくの知ってる 範囲じゃ、うまくいったのを見たことが少ない。 そこがその、いわゆる木谷流の鋼鉄たるゆえんで、その鋼鉄のような陣形がふくれ あがってきたやつには、なかなかサバキが通用しないんですね。 ふくれあがってくるというのは、木谷先生の場合は、相手にスキを与えない陣形 でもって、それがだんだん地を広げてくるんですよ。そしてそれが基礎になって、 こっちが崩されてくるわけです。 これは宇太郎さんに限らず、だれでも、ぼくなんかでも、えらい苦い経験、もって るんですよ。 【 高川 格 】 高川さんというのは、ぬるそうにみえて、じつはぬるくないという、ちょっと 変わったタイプなんです。 ”非力の高川”なんて評があったりして、ぼくも若い時分、高川さんの強さという ものをよく知らないで、いつでも勝てるんだなんて思ってましたけど、とんでもない 話でね。 高川さんの碁風というのは、まァ学校でいうと、優等生タイプなんです。これは 林海峰君にもいえることであって、まァ早い話が、布石も95点、中盤も95点、 寄せも98点というふうに、力がこう、全体に平均してるんですね。 だから、論語でいえば中庸というんですかね、可もなし不可もなしで、自然に、 いつのまにか、細かい碁になっている。一見、ぬるそうにみえてぬるくないという のはこれですね。 ただし、あまり仕掛ける碁じゃないです。 | |
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| ◆藤沢秀行先生の勉強法 ◆すばる ◆03年11月15日 00:00 | |
| 藤沢秀行『八方破れ人生』という本に、秀行流の棋譜並べの勉強法が語られて いましたので、以下 引用〜紹介させていただきます。 ぼくの勉強法を打ち明けますとね、日本棋院の院生時代、いろんな先生や先輩 にも教わりましたが、結局は昔から残っている棋譜を工夫したのが、一ばん身に つきましたね。 たとえば、棋譜についてこう石を並べますね。一日に十局以上は並べましたが、 そのとき解説文は読まずに、なぜこの人はこういう石を打ったのかと、一石づつ その意味を、納得するまで考えるようにしたわけです。つまり、打った人の心に なって。これが一ばんよかったように思います。いうならば自得ですね。 木谷實先生がやっぱり、そう教えてくれたことを、覚えています。 ぼくがまだ17、8歳のころ一緒に旅行したとき、 「藤沢君、ねえ。呉清源だってみんな自分で工夫してえらくなったんだよ」と。 | |
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| ◆中野坂上便り 〜その十〜 ◆谷口 一 ◆03年10月03日 17:29 | |
| 物売りの声といっても、ちょっと前ならちり紙交換だったけれど、今聞こえてくるのは、家電やバイクを無料で引き取りますという軽トラックの女性の声。正確には物売りではなく交換や引取りだけれど。 この一週間で、残暑もどこかに引っ込んでいっぺんに秋の気配、そろそろ焼き芋屋が暮れ方にこの辺り、狭い路地に顔を出すのだろうか。薪を燃やすチロチロとした炎と漂う紫の煙。墨で黒ずんだ大きな分厚い軍手。絶対に正確でないような天秤ばかり。くるんでくれる新聞紙。あつあつの焼き芋を半分にわればほくほくで、べっとりバターをのせて焦げた皮ごと食べる。試したことはないが、焼酎のロックと合うと思う。 時代と共に今、物売りは霧散してしまったけれど、ここ宝仙寺界隈もさまざまな物売りの声が飛び交っていたのだろう。朝は「蜆売り」「納豆売り」、夏は「金魚売り」「虫売り」「西瓜売り」「風鈴売り」に「団扇売り」、「ラオ屋」も「研ぎ屋」もいたろう。「傘の張替え」「紙芝居」に「魚売り」「野菜売り」「唐辛子売り」、夜は「そば屋」。客との会話が聞こえてきそうだ。人声の時代。 何かで読んだのだが、まだ家にいるはずの息子からメールがあり一字「紙」、トイレからの携帯メールだったそうだ。 メール全盛の時代、このままこの状況が何世代も繰り返されるとダーウインの説によると口は退化してしまうのだろうか。口は食物を摂るから声帯か。いや耳の方が先か。 文明とは、話す必要のない世界を作り出す技術といえるかもしれないな。 近いうちにマクドナルドのマニュアル店員もロボットに代わるだろう。今回の希望退職者募集はその布石かもしれない。しかしそうなったら消費者も考えなくてはならない。「チーズバーガーとスプライト」なんてロボットに向かって言うのもしゃくだから、こちらもロボットに買いにやらせよう。マックがロボット店員にすれば他も追随するだろう。他業種も。タクシー運転手はすぐロボットになるだろう。会話がないのだからロボットで十分。塾の先生もロボット、学校の先生もロボットの方がいいだろう。つめこむだけだから。いっそのこと地球上みんなロボットにしたらどうだろう。人間同士の馬鹿げた戦争はなくなるし、太陽系の静かな星になるのではないだろうか。 夕方になって宝仙寺のカラスが「カーカー」「カーカー」と会話を始めだした。カラスはまだ会話型社会だ。 もう少したつと楽しみの物売りがやってくる。「餃子屋」だ。軽トラックに提灯をぶらさげて、その口上の愉快さは書けない。イントネーションといい台詞のすばらしさといい、邂逅していただかなくては、キーボードでは伝えられない。まことに残念。その美味と共に。 どっこい物売りは残っているのだ。まだまだロボット社会は先ということか。 | |
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| ◆棋譜並べの道程と仁義なき戦い ◆すばる ◆03年09月28日 10:59 | |
| 最近の囲碁データベースに、石倉先生の<囲碁上達の5つのK>の記事があり、 感動/好奇心/考え方/形/繰り返し と列挙されていました。 「囲碁は先を読む力や暗記する力より、大局観やバランス感覚などの感性が 重要です」 意外にも、先を読む力が、あまり重要視されていない!! 『石心の譜』という対談集の中から、武宮先生の言葉ですが、 「読んでわかるというようなことではダメなんだよね。見ただけでわかるん じゃないと、本物ではないですね。難しいところでも、形を見たときに、 あっ、ここだ という直観力がすぐれていることがいいわけだからね。 自然にいい手が浮かぶのでなければ本物ではないですよ。一目で何手 読めるというのは自慢にならないね」 それから、どこで読んだか忘れましたが、 棋譜並べして、対局時の両対局者の心理、狙い、気持の動きを体感できる ことが、本当の理解であり、そのような完璧な吟味鑑賞を狙って、棋譜並べ をしている人、あるいはそこまで可能な人は、プロでも秀行先生とか数人に 限られる。 (すばる注:昭和50年頃の印象) 以上から、なんとなく棋譜並べの道程が見えてきた感じなので、雑駁ながらも、 ためしに並べてみました。 (1) 棋譜を見ながら並べるが、次の一手がどこか、さがすのに大わらわ。 とても、盤面の状況把握どころではない。宝さがしに翻弄されて、 疲労困憊するだけの段階。 (2) 次の一手を棋譜からさがす....という意識や負担がかなり軽くなって 盤面の状況に関心が移っている段階。 この段階では、あちこちの部分戦闘で、プロならなんでもありだけど、 自分ではやったことのない大胆な手や、飛躍した手や、不思議な手に 気がつき、感動/好奇心/考え方/良い形 などに目覚め始める。 (3) 棋譜並べを、定石、手筋、大局観、考え方のテーマ発掘用に使う段階。 これは、棋譜並べというよりも、実戦そのものの意味があります。 (4) 両対局者の次の狙い、今何を困っているのか、どう打開しようと しているのか、何を呻吟しているのか、両天秤にかけているのは 何か、数目差での逃げ切りにはいったのか、等などの心理展開に 深く入りこみ、意図を体感できる段階。 この裏には、読みの力、それが進んで良い形の記憶、更に進んで見ただけ でそれに至った手順を想定できる力、それらを統括して囲碁の正しい考え方 の獲得....などの進展があります。 かっては棋譜ならべを、音楽の鑑賞になぞらえればいいのかなあ....と 漠然と想定していたのですが、手談という言葉のように、対話の流れの 追体験にこそ、棋譜並べの本道がある。 わが身を省みると、日常の対局の中で、自己都合の勝手読みだけであり、 相手の一手々々にこめられた気持・意図の忖度に一向に、頭がまわって いない。反省しきりです。 ( しかし、仁義なき戦いではないが、意図なき一手を連発している 面も多いので、そのへんにも問題が多い。 σ(^^;) ) | |
| 03-0024 | |
| ◆勝負への執念....スポーツの場合 ◆すばる ◆03年09月19日 23:16 | |
| ある講演会に動員されて、その部分紹介です。講師の名を失念。鈴木清純氏と 思うけど....? 水泳の鈴木大地がソウル大会で3レーンに立った時、現世界記録保持者と元世界 記録保持者が4レーンと5レーンにいて、鈴木大地が優勝する可能性は百分の1 ほどしかなかった。 このとき、コーチが立てた作戦は、飛びこんだ直後の潜水距離を従来の20m から、世界記録者2人と同じ30mにする、というものであった。 4レーンの世界記録保持者が潜水から浮上したとき、とっくに差がついている はずの3レーンの鈴木が、後方にいない。いったいどこだと慌てた時に、なんと 真横に浮上してきた。パニックに陥った世界記録者は、あせりで泳ぎに乱れが生じた。 5レーンの元記録保持者も、4レーンのあせりに巻きこまれて同じく乱れて しまった。 このとき、鈴木大地の指の爪は、3〜4センチも伸ばしてあった。最後の終着盤 を押すタイミングで、この長さがものをいう。これらの執念が、ついに百分の一秒 差での金メダルを、鈴木大地にもたらした。 ここで、スポーツキャスター氏いはく。 「人事を尽くして、天命を待つのではない。人事を尽くして、更に執念の企てを ひねり出して、天命をもぎとるのが本物である。神様は、もっとも勝利を願望する 者にこそ、勝利の美酒を与えてくれる」 ううむ、なるほど。これを聴きながら、つい数日前の終盤戦がよみがえった。 ほんの数目差で、相手がリード。このままでは負けしかないと見た私は、ダメ元 で、コウの準備にはいった。案の定、相手は1子の手入れを省略して、ついにコウ 争い。コウ立ての応酬の中で、相手がうっかり小さいコウ立てをやってしまった。 その瞬間、狙いが実現して、相手の地の中で、相手の数子を御用。一気に逆転勝ち となった。 もうひとつ、ジリ貧の中盤戦。辺の相手の石へのツケを開始。逆にハネ返されて そのまま持ちこみ損となるだけなのだが、この場合は違っていた。こちらも切り 違えると、その上の数子を取り込むことができ、10目ほどの稼ぎとなる。相手は それに気付いて、その数子を大事にした。とたんに、辺のツケ石が更に1子伸びて、 全体を無眼に誘い込んでしまった。 2局とも劣勢の碁が、私の悪巧みでひっくり返ったわけだが、後ろめたさもある ものの、執念を棄てない限り、執念ゆえの企てが勝利を呼び込む、と大いに納得 でした。 v(^_^)v | |
| 03-0023 | |
| ◆歴史のなぜ? 米国の基本戦略との衝突 ◆すばる ◆03年09月19日 22:22 | |
| 『週刊新潮9月18日号』の中に、櫻井よしこ氏の ”日本ルネッサンス”という 連載コラムがあり、かいつまんでの引用ですが.... 米国はメキシコ、キューバ、グアム、フィリピンと勢力拡張の路線に あったが、その先で、東アジアの雄・日本との衝突を不可避と見ていた。 そのとき、最大の障害となるのが、日英同盟。そこで、日英関係を、 日英仏米の4ケ国協議関係に置き換えることで、日英同盟を廃棄させ、 実質的には日本を孤立の立場に追いやった。 (1921年のワシントン軍縮会議) 今回また、北朝鮮を6ケ国協議の一員とすることで、中国とロシアの 後ろ盾を解除して、北朝鮮を孤立に追いやる狙いを持っている。 やはり、昭和になってからの日本の動きがどうだこうだではなくて、日露戦争 直後から、この衝突の歯車がまわり始めていた....ということだった。 そして気がついたのが、諸葛孔明にも比すべき名参謀と思っていた瀬島龍三氏 の狭小さである。ハル長官の開戦ひきのばし策である「日米調整案作業」を、 そのまま正式交渉と期待し、更には、日本軍の満州居座りを米英が否定している というのに、満州国樹立をも「当時の世界の常識範囲だった」とする井の中の蛙ぶり。 あげくは、根本原因は軍の暴走を抑止できない内閣制度にあった....という 事務手続論を持ち出す形式的発想。歴史のうねりは、形式や手続きが原因ではない だろうのに。 むしろ、「世界最終戦論」を構想していた石原莞爾こそ、米国と日本の最終衝突 を不可避と見据えて、その前哨戦として対ソ戦を位置付け、それらの準備として、 満州・蒙古・日本の一体化を企図していた真の戦略家だったと思われる。 それでも所詮、自分の10倍はあろうという巨象たち(米国、ソ連、中国)を 相手に、大規模消耗戦に立ち上がろうというのは、戦争のための戦争を好んだと しか思われず、国家の知識層・戦略層が、ほぼ軍人に占められていたという、 明治以来の国家の貧しさに思いあたって、暗然とするしかない。 | |
| 03-0022 | |
| ◆定石書の限界 ◆すばる ◆03年08月17日 18:48 | |
| 石田章先生『囲碁界の真相』の <碁に ”部分的に”はありえない>という 章に、部分の形だけ示して次の一手を問うのは不可という話があります。全局的 配置を踏まえた上で、次の一手を考える必要があるということです。 瓊韻社の渡辺昇吉先生『やさしい白の打ち方』。 これは、4子局での白の序盤進行を解説した本ですが、白が小ゲイマにかかり、 一間にはさまれた場合、よくあるのは、◇→◆ というパターンです。ところが、 白は ◇に飛ばずに、他の要所をさがして、そちらに打つべきだ、という解説が 出てきます。たとえば <あ><い>のように。 ABCDEFGHJKLMNOPQRST .1・−−−−−−−−−−−−−−−−−・ .2|+++++++++++++++++| .3|++++++++++++あ++い+| .4|++●+++++・+++◆+●++| .5|+++++++++++++++++| .6|+++++++++++++◇+○+| .7|+++++++++++++++++| .8|+++++++++++++++●+| .9|+++++++++++++++++| 10|++・+++++・+++++・++| 11|+++++++++++++++++| 12|+++++++++++++++++| 13|+++++++++++++++++| 14|+++++++++++++++++| 15|+++++++++++++++++| 16|++●+++++・+++++●++| 17|+++++++++++++++++| 18|+++++++++++++++++| 19・−−−−−−−−−−−−−−−−−・ この本は一貫して、今打った白石に執着せずに、黒の配石を、いかに不効率化〜 無意味化するか、その目的に向かって次の一手を選んでいくように指導してくれて います。 ところが、一般の定石書では、全局的配置はあまり関係なしに、一間にはさまれ たらこうする、その後ハネた時にはこうする等々、部分応接のオンパレードです。 なぜ一間にはさみにいったのか? ◇に逃げるのがよいのか否か、等の作戦の考え方 の解説はあまりありません。 定石書は手筋の宝庫である、というほめ方がありますが、逆にいえば、周囲の配石と 無関係に、手筋の応接のみを展開している本にすぎない。 そういう眼で定石書を見た時、定石書は級位者にとっては、方針説明や効率判定 の説明がなくて、不親切とも言えます。 石田芳夫 『基本定石事典』 山部俊郎 『現代定石事典』 日本囲碁連盟『定石事典』 みなそういう限界を持っていますが、 高川格 『定石小事典』 だけは、考え方の説明がたっぷりと深くて、 級位者に最適と思われました。 本当に大事なことは、全局的配置を踏まえた上で、この隅をどういう形にもって いきたいのか、その結果として相手の石の効率をどのように低下させたいのか、と いうことです。 橋本宇太郎先生が宮本直毅少年を「定石を打つとは何事か」と叱った話があります が、生きた局面の中で、5分に分かれるのではなく、6分に得する分かれを目指して、 まずは作戦と方針、次に手順応接の選択で、自由な部分戦闘を創造すべきだということ です。 残念ながら、この作戦樹立の基礎になる石の配置の効率判定ですが、これが級位者 にとっては難しくて、難題残りです。 | |
| 03-0021 | |
| ◆落語「3B」 ◆谷口 一 ◆03年08月15日 13:52 | |
| 昔は卓袱台(ちゃぶだい)なんてものが、どこのご家庭にもあって、畳に座ってご飯を食べてたんですね。だから皆、日本人の体型をしていました。まあ、そればっかりじゃなくて栄養の方もあるんでしょうが。今はどこのご家庭でも、ほとんどがテーブルで、椅子に座って食事をするというのが、当たり前になってきました。子供たちはすくすく足も伸びていいんですが、椅子にちょこんと座ったお父さん、足が床に届かなくてブラブラさせてるなんて人もいます。父親の威厳なんてもの、これじゃあまったくありません。 その卓袱台があった頃、お父さんも、何を威張っていたのか、威厳がありました。食事もみんなより一品多くて、刺身の鉢なんかがあったりして。食べるのもみんな静かでした。 晩酌なんかして、燗酒を苦虫をつぶしたような顔で、そんなだったら飲まなきゃいいのに。あれ、親のポーズなんでしょうね。 と、突然、何が起こったのか、卓袱台を足で蹴上げてひっくり返す。派手に。何が気に入らなかったのか未だにわかりませんが、本人もわかっていないと思いますが。まあそんなこともありました。今だったら、テーブルですから足がとどきません。テーブルはいいですね。家庭円満に。 まあ、しかし蹴っちゃあいけない。蹴っていいのはサッカーとキックボクシング。 これ、聞いた話ですけど、サッカーの試合で、前半負けてるチームの監督がハーフタイム、途中の休憩時間ですが、選手を集めて、「もっと頭を使え!」と檄を飛ばしたそうです。 選手も神妙に聞いていて。後半戦。ヘデイングばかりで攻めたそうです。ゴロのボールにも頭から突っ込んだそうです。結果は言いませんが。 サッカーはいいですね。緑の芝生に白いボール、11人対11人の肉弾戦、のんびりしてません、攻めてたと思ったら、今度は防御、攻守の切り替えが早い、うかうかできません。前に、国立競技場で大事な試合を見てたんですけど、「かきピー」食べながらビールを飲んで、「かきピー」のピーがいけなかった。ピーはピーナッツですね。これが奥歯にはさまって、弁当の割り箸に入っていた爪楊枝を探して下を向いて、どこかなあと。その時に大歓声。逆転のシュートが入ったの。見てない。「かきピー」からピーナッツを抜いてほしい。そうなったら「かき」か。売れないか。まあ、それほど早いスポーツです。サッカーは。 ルールがわからないって人がいますが、別にルールなんかないんじゃないでしょうか。 まあ、手でさわちゃいけない。蹴るのはボールだけ。あるとすれば「オフサイド」でしょうかね。「オフサイド」も名前を変えればすぐわかると思います。「飛び出し禁止」。 横断歩道で信号を待ってる。敵も見方もいる。まあ、キーパーは道の向こうにいる。この時、ボールだけは飛び出しも自由、人はだめ。ボールが先に飛び出したら「それっ」とばかりに突進する。まあ、そんなことじゃないでしょうか。 わからないのは「フットサル」。これ最初に聞いた時は、日光サル軍団もいよいよサッカーに進出するのかと思いました。コートも狭い、人も少ない、素直にミニサッカーでいいんじゃないでしょうか。 「すみません。こちらでサッカーを教えていただけると聞いてきたんですけれど」 「はい。サッカの基礎というか、まあそういうのを教えていますが。あなたが」 「ここだここだ、入いんな・・・この子なんですが」 「ほう、女のお子さんですか、まあ女性も活躍していますから」 「そうそう女子も国際的になってきましたから、うちの子もなんとか」 「国際的はちょっと大変でしょうが、おいくつですか」 「小六の十二になります」 「はいはい、教えがいがあります、それでいつから」 「早い方が、さっそく今からでも、道具は持ってこなかったのですが」 「いやいや、早いほうがいい、道具なんかいりませんよ、まあ最初は基礎ですから、3Bでもあれば」 「はあ、3B、さすがだ」 「本読みから始めます、3Bは今度のときにでも」 「ああ、やっぱり違うな、有名な先生だ、理論から教えてくれるんだ、そうだよ3Bだ、サッカーは。よしよし、いいな、がんばってくるんだぞ、じゃあ私はこれで、月謝のほうは、この子に袋でも持たしてやってください、お願いします、では」 「ただいま、行ってきたぞ」 「ごくろうさま、どうだったのその有名な先生って」 「さすがだよ、さっそく今日から、理論から始めるそうだ、違うねやっぱり、ボールを蹴る前に理論だよ理論」 「なんなのサッカーの理論って」 「3Bって知ってるかお前」 「何それエンピツ?」 「エンピツ?図画の宿題じゃないんだよ、3Bってのはな、ボデイバランス、ボールコントロール、それに大事なのがブレーンだよ、頭がみんなBだろ、だから3Bだよ」 「いつそんなこと勉強したの」 「だから、理論だよ理論、ブレーンを今日やってんだよ、たいした先生だ」 「まあ、私はあの子が元気でボール蹴ってくれりゃいいんだよ、バシンと」 「俺だってそうだけど、あいつは引っ込み思案だから、スカッと蹴ってくれて、シュートが決まったら、俺は泣けるだろうな・・・」 「なんだよ、めそめそしちゃって、うれしいだろうね、ゴール!!!なんて、ねえ、旗、作ろうね、Jリーグで大きなの振ってるじゃないの、名前書いて」 | |
| 03-0020 | |
| ◆中野坂上便り 〜その九〜 ◆谷口 ◆03年08月06日 12:56 | |
| 好きなものをあげるとすれば、「落語、サッカー」と応える。いずれもも三十年をこえる付き合いだ。古い人間になったもの。この季節、落語「青菜」に出てくる「柳影」なるものにずっと憧れていた。井戸で冷たく冷やした上等な日本酒と思っていたのだが、実は焼酎をみりんで割って冷やしたもの。へえっとなる。大名が飲んでいたというが、今では居酒屋のどこにでもある焼酎カクテルといったところか。そのころは庶民には手にも届かなかった飲み物。ありがたい世の中になったもの。落語の世界に浸っていると、ついついいろんな物に感謝したくなってくる。お天道様から始まってそこらのどぶ板(今はコンクリートですが)まで。落語の世界に出てくる森羅万象、生気を与えられて活き活きと動き出す。野草の名前を覚えると急にその花が身近になり強い愛着が湧くように。存在にはすべて意味があり価値があることを教えてくれる。 こんな夢を見た。 中野坂上から新宿末広亭までの青梅街道を歩いていた。下駄を履いていた。最初は気づかなかったのだけれど、カランコロンとうるさいので見ると自分だった。もう八時半を過ぎていて、取りの小三治だけは聞きたいと思って、急いでいた。地下から行くと早いと思って新宿西口から地下に入るのだけれど、エスカレーターは遅いし、すごい人ごみで、やっとのことで地上に上がったところが紀伊国屋書店の裏、そうだ封筒がいるんだと思って、アドホックらしい所でそれを買い、手に持っていた数枚の原稿をそれに入れて、あっそうか、この原稿を小三治師匠に渡したいから急いでいたんだ、飛び込んだ末広亭は満席で、小三治が「あくび指南」を演じていた。客はみんな「フアー」とあくびをしていた。なんとか間に合った。終わったら裏の楽屋に行ってこの封筒を渡さなくては、せっかく書いたんだ。よし、最後に読み返してみよう。まくらはこうでこうでと話の入り方もこれでいい。 よしよし。封筒の宛名を書いておこう。マジックを売店で借りよう。これがカスカスのマジック。はあはあ息をかけ、小三治様か殿か師匠か、まさか本名の郡山剛蔵様じゃないだろうし、師匠としよう。何度もなぞって宛名を書いて。客席に帰るとお客は何度かのあくびでみんな寝てしまっているし、小三治師匠も高座ですわったまま寝ている。そうだ、今渡しちゃおう。お客を起こさないようそろそろと高座の前に行き、「師匠、これっどうぞ」 「おぅおぅ間に合ったか、遅いのであくびが出てあくびが出てぃ」「また寝ないでください」「どうぞ読んでみてください」 渡して寄席を飛び出してきた。左隣のおでん屋に入り、酎ハイに口を付けたとき、寄席から笑い声が漏れ聞こえてきた。グレンミラー物語にこんなシーンがあったなと思って、酎ハイを気持ちよく胃袋に流し込んだ。 こうやって文字に書いてしまうとどこまでが夢だったのだろうかと思ってしまう。しかし、夢で書いたものはしっかりと覚えていて、二つの好きなものが合わさって「サッカー落語」になっているのだ。真夏の夜の夢は奇怪である。 | |
| 03-0019 | |
| ◆勝負への執念・へぼの場合 ◆すばる ◆03年07月27日 22:10 | |
| こんどは、話はガラッと変わって、私の場合の雑感です。(^^;) 詰碁は苦手で、苦しい読みは避ける。それでも、趙治勲先生の「簡単な詰碁を たくさんやること。わからなければ、すぐ答を見てよい」のお言葉にすがって、 日々最低でも10問を反復練習。同じ本を10回反復し終わると、次のやさしい 問題集に進むという勉強法を継続してきました。この努力(?)のおかげか、 この頃になって、対局に変化が生じてきたように感じています。 隅や辺の攻め合い、中央での攻防の場面で、以前ならできなかった、もう一歩 踏み込んだ怖い手も選択するようになってきたのです!! そして、その手が成立するかどうか、『ジョジョの奇妙な冒険』に出てくる、 時間の進行を予知するスタンドのように、盤面上で、このあと数手の進行を、勝手 読みながらも、以前よりスムーズに辿っていける!! いざという場面での、このようなねばりこそ、勝負への執念ではないか。そして、 いくら執念があっても、山登りに譬えると、足腰の訓練を普段から反復しておかな ければ、現実に行動することができない。 そしてもうひとつ、さてどうしたらいいだろう、と手を読む場面で、「この手が いいよ」という直感の到来が、以前よりもはっきりと感じられるようになっている 気がしています。これも詰碁反復のおかげのようです。 そこで、ここが勝負という場面では、無心素直になって、直感の到来とその予感、 「これはいける」「これはいけない」を尊重し、かつねばりを発揮して、怖い手も 避けず、読みの裏付けも取る....という状態になっています。 以上、執念と無心の両立が必要ということで、参考までに一筆啓上致しました。 | |
| 03-0018 | |
| ◆勝負への執念・プロの場合 ◆すばる ◆03年07月27日 18:57 | |
| 現代囲碁大系・第24巻・杉内雅男から、杉内先生による一流棋士の執念評価論 の引用です。 以下、引用符を省略。 【 呉清源 】 いうまでもなく、昭和囲碁界のもっともすぐれた才能の一人。しかし天性の才能 だけが強調され過ぎて、精神面、碁に対する心構えが指摘されないのは片手落ちで はないか。究極には坂田栄男にも共通する執念を、呉は持っている。 ねばり強く、勝負を投げない。逆転の可能性を少しでも残しておく。同じ中国人 である弟子の林海峰と、二枚腰という点で共通している。奇異に聞こえるが、 呉清源はまれにみる勝負師なのである。碁は形にとらわれない。着手の自由奔放さ、 融通無礙こそ注目に値する。局面局面における、未来の沃野がもっとも広い。 【 坂田栄男 】 昭和30年頃、互いに日本棋院選手権戦を争った時代の坂田は、まだ数えるほど しかタイトルを握っていなかった。スタートは並んでいた。それが二十数年経過 してみると、坂田は60個以上のタイトルを獲得し、杉内はわずかに2個。この差 はどこから生じたのか、と杉内は考える。そしてこういう結論が出る。才能の問題 はむろんあるが、結局は執念の違いではないのかと。一例をあげよう。 昭和33年から34年にかけての第4期最高位戦リーグで、坂田、岩本、杉内の 3者が6勝2敗の同率となった。このリーグ戦は前年度の成績、つまり順位尊重で、 それに従えば、坂田、岩本、杉内の順になる。挑戦権は坂田にある。しかし坂田 6勝のうちに対島村戦の不戦勝が1局あり、不戦勝は実際に戦い取った勝星に及ば ない。これは順位よりも優先する。したがって岩本が上になり、当然岩本が挑戦者 になる。そしてそれに従うのが普通の感覚である。 ところが坂田はこう主張した。島村さんの病気が癒るまで待つと。規定は規定 として、坂田にはこう主張する権利はたしかにあるのだが、この一件に当時の杉内 は驚いている。 結局話は平行線を辿り、外部理事に計った。岩本・坂田の決戦という折衷案が 出され、そして坂田はこの決戦に勝った。木谷最高位に挑戦し、タイトルを奪取 した。 勝負師坂田の面目躍如といってしまえばそれまでだが、杉内がこのエピソード をあえて指摘するのは、自分に欠けるものを坂田の中に見たからであろう。勝負の 一点に関しては、徹底的に自己中心的、勝利に対するハングリーな精神、「力は 正義なり」の哲学。これらはみな、坂田栄男の執念を土台から支えるものである。 | |
| 03-0017 | |
| ◆無心の諸段階 → 奇書『猫の妙術』 ◆すばる ◆03年07月19日 16:09 | |
| 無心とはどういう状態か、禅で言う悟りとはどういう状態か。またそれらは、 どうすれば達成できるのか、等々の疑問が出てくるところですが、享保12年 (1727年)に、関宿藩に丹波十郎左衛門忠明という武術・兵学・仏教・老荘思想 の権威者がいて、『猫の妙術』という奇書を書いております。鳥獣戯画の再来とも いうべき珍書です。 大ねずみが出現して、退治できず困り果てたある旗本が、近在の腕に覚えのある 猫たちを借りてきて、立ち向かわせるという筋立てですが、この猫たちもかなわず、 逆にやられそうになる始末。 最後に、評判はすごいけど、見た目一向にぱっとしない年輩の猫が登場。何も しないのに、大ねずみはすくんでしまって、あっという間に一件落着。 その晩、猫たちは、この古猫を囲んで、ねずみ取りの武術の教えを請うことに なります。件の旗本も、障子の蔭から、武術の奥義を会得しようと、聞き耳をたて ています。 未熟猫による弁の一節を引用しておきます。 >> 我レ鼠をとるの家に生れ、其道に心がけ、七尺の屏風を飛び越、 >> ちいさき穴をくぐり、猫子の時より、早わざ軽わざ至らずと云所 >> なし。或は、睡て表裏をくれ、或は不意におこって、桁梁を走る >> 鼠といへども、捕損じたる事なし。 >> 然るに今日思ひの外成強鼠に出合、一生のおくれをとり、心外の >> 至りに侍る。 このあと、武術の心はいかにあるべきか、無心にはどのような諸段階があるもの なのか等が、質疑応答されて開陳されていきます。覚りの各段階を、さらさらと整理 開陳してみせるすごさ!! (仏教書にも出てきません) 老荘思想は、論語に比べると、抽象用語が多い。つまり論語成立より後世、2百年 くらい後に成立した、所詮は青年向けの抽象論に過ぎないと、馬鹿にしていたのです が、この『猫の妙術』を読んでからは、武術・仙道・老荘思想は、悟り実現プロセス の具体的ノウハウを持っていると、思うようになりました。 仏教の方が禅宗も含めて、この具体的ノウハウがない。例外的に、曹洞宗の海蔵寺 (尾道の西数キロの忠海駅から北へ少し)の住職・井上希道師『座禅はこうするのだ』 を見ると、禅の悟り達成の具体的ノウハウが考案〜確立されていて、定年退職後には、 2週間〜4週間ほど、参禅に駆けつけたい思いでおります。 | |
| 03-0016 | |
| ◆剣道・無心の一撃 ◆すばる ◆03年07月19日 15:52 | |
| 昨晩のNHK、剣道の第12回世界世界選手権大会(グラスゴー)に臨む日本の 主将・栄花直輝六段の心の変化を追ったドキュメンタリーがありました。うろ覚え で書いてますので、詳しくは再放送 BS2・7月23日午前3時00分〜3時45分 をご覧ください。 こんなに感動した番組はありませんでした。 (;_;) 感涙 放送の題名は、人間ドキュメント『快心の一撃』だったと思います。放送時間は 大リーグ放送等で変更になる可能性あり、要チエック。 以下、感想です。 (1) 剣道はすでに30年余にわたって、世界大会が行われている。今回のグラスゴー 大会では41ヶ国が参加。エリザベス女王ご夫妻もご臨席。剣道は騎士道精神や 武士道精神の流れを受けて、社会的尊敬が篤いものがある。 剣道日本の地位にほとんど並んでいるのが韓国。その第一人者・金ヒョンヒク氏 は20年にわたって、韓国第一人者の実績を誇り、日本選手には不敗の実績。 日本文化を禁止してきた韓国といえども、碁や剣道は禁止されたことがないよう です。 (2) 栄花六段が剣道日本選手権大会の決勝戦に進出できたのは、5年前32才。 そのときの相手は、すでに優勝5回に輝いていた早出の天才・宮崎正裕氏でした。 栄花六段は、29才の時の京都大会では予選の1戦でしか起用してもらえず、 ああ、自分は信頼されてないんだと痛感。日本優勝が決定した夜、ホテルに 帰った時、待っていた父と妻の前で、痛恨・無言の30分余を涙で過ごした体験 を持っています。 若き日より栄冠に輝く人あり、晩成にして花開く人あり、です。 (3) 初の決勝進出で、栄花六段が立てた作戦は、相手が面に来た時に、返し技で小手 を取るというものでした。自分では見事にその通りになったと思った瞬間、なんと 審判は3人とも相手の面一本を評価しました。 帰宅後、テレビの録画を見て、栄花六段自身、おお、面が決まっている、と見て 驚きます。そしてここから、栄花六段の反省が始まりました。 (4) 剣道では、気合・体勢が充分にともなった上での会心の一撃をこそ、理想の姿 として尊び、それは無心でなければでてこない技とされ、無心の一撃とも称されて いるとのこと。 栄花六段は、勝ち負けにこだわりすぎた自分の対戦姿勢を反省。相手からの返し 技がどうであれ、自分自身が、無心の一撃をこそ繰り出すべきではないかと反省。 剣道を始めた頃の気持ち・原点に帰るために、早朝から150畳の道場に一人来て 雑巾がけを、日々繰り返しました。 (5) 翌平成11年、再び日本選手権大会で、天才宮崎氏との決勝戦。このとき、相手 が面攻撃に来た瞬間、栄花六段の体は無心の反応を示して、大きく左足が後退。面 攻撃を避けると同時に、防御はそのまま攻撃体勢になって、無心にして会心の小手 の一撃が決まりました。 この技が、栄花六段こそ日本の第一人者であるとの評価となって、グラスゴー大会 での大将としての出場につながっていきます。 後日、栄花六段自身、「再現しろと言われても、再現できるものではない」と 述べています。 (6) そして今年のグラスゴー大会。7月6日の決勝戦は、韓国対日本。一勝一敗 2引き分けで迎えた大将戦の5分間。相手はおそらく世界一の金ヒョンヒクで、 身長180cm余。栄花六段は170cmそこそこ。体格差の不利をしのぎつつ これも引き分けとなって、代表者同士の時間無制限の決定戦にもつれこみます。 決定戦の最初10分間、水を打ったような静寂の会場に、両者の竹刀の小勢合いの 音だけが、一瞬の休みもなく続きます。そして、金選手が栄花六段の竹刀を下に 払って、構えなおす動きにはいっていく一瞬、栄花六段の身体が沈んだかと思うと、 無心かつ捨て身の片手突きが決まりました。 (7)試合後、感動した青い目の大男の選手が「いい試合を見せてくれてありがとう」 と栄花六段を抱擁にくる場面があり、剣道修行中の、英国のかわいい男の子や女の 子が、サインをもらいに来ていました。いい試合を目撃できたこの子達が、たいへん うらやましく思われました。 栄花六段自身は、泣いていました。無心の勝負とは言っても、剣道日本の地位を 守るために、是非とも勝たねばならないという重圧は大変なものがあったようです。 (8)さて、囲碁の場合ですが、 ◆ 囲碁とは調和である。調和を破るところ、勝敗が傾く。 ◆ 勝負にこだわらず、無心の境地に遊べ。 ◆ 局上石無く、局前人無し。 これらの真言の意味するところを、感動を持って、味合わせてもらえました。 製作者に深く感謝です。 【付記】 栄花六段を見ていて、バロン吉元『柔侠伝』の柳勘九郎を彷彿とするものが あり、まさか柳勘九郎と出会える日が来るとは、とジンと来ました。 (;_;) | |
| 03-0015 | |
| ◆小岸壮二の中盤での読みきりの例 ◆すばる ◆03年07月06日 18:36 | |
| 本因坊秀哉門下筆頭の天才として、大正時代の囲碁界で、その大才を期待された 小岸壮二。大正13年1月、満25才で夭折し、秀哉をはじめ、日本囲碁界あげて 悲しみに包まれました。小岸壮二健在ならば、第22世本因坊秀立を名乗ったので はないか、といわれています。 どのくらいすごかったのか、ぴんと来てなかったのですが、『坐隠談叢』の渡辺 英夫・増補改訂版に、出ていました。 >> 大正6年20才で三段に昇ってから以後の成績は、実に左の如くであった。 >> >> 大正6年 対局16、15勝、1敗 >> 同 7年 対局54、41勝、9敗、1セキ >> 同 8年 四段に昇る。 >> 対局40、36勝、4敗、 >> 同 9年 対局33、23勝、9敗、1セキ >> 同10年以降没するまでの3年間、対局数概算110数局あって、 >> 勝率9割の好成績であった。 >> この間、特に目覚しかったのは、時事新報棋戦における32局勝抜の偉業である。 『現代囲碁大系・第1巻』に、萬朝報の勝ち抜き戦で、瀬越憲作五段(29才) と小岸壮二三段(20才)の、大正7年9〜10月・延べ9日間にわたる死闘が 出てきます。 >> 中盤、白174手◇ の滑りを見て、小岸は延々と考え、終局までのあらゆる >> 変化と損得を読み切ったというから凄まじい。そして「我れ勝てリ」とほくそ >> えんだという。黒177手★ は、そうでなくては打てない手である。 白174手A-10まで ハマ 黒1目 白4目 ABCDEFGHJKLMNOPQRST .1・−−−○●○○−−−−−−−−−−・ .2●●+++●●○+○●●+++●○○| .3○●●●●●●+○+○○●●○●●○| 白175手 あ .4○○●○○+●○+・++○+●・●●○ 黒176手 い .5|○○○+○○++++++++●+○| .6|+●○●+++++++○+++○+| .7|○○●●○○++○+★++++++| .8|+●++●●●あ○+○++++++| ここで、小岸が読んだのは、 .9|+●+++●○○い○●●+++○+| 左上隅の白を分断して、そっくり 10◇++・++●●○○●++++○+○| 殺す手でした。 11|++●+●+○●●●●+●+○○●| 白が全滅を避けるには、174手◇を 12|+●●○●●○○○●++++●●●| 諦めて、持込みにするしかありま 13|●○○●●○○●●●+++++++| せん。 14|●+○○●○○●○●++++○++| 15|+○●○○+○○+○++++○●●| 16|●●●●+○+●○●++○○○++| 17|+●○○○+++○○○+○●○●+| 18|●○+○++++++++●●●●+| 19・−−○−−−−−○●−−−−−−−・ 黒217手A-08まで ハマ 黒1目 白5目 ABCDEFGHJKLMNOPQRST .1・−−−○●○○−−−−−−−−−−・ 小岸が読んだ通りが実現した局面 .2●●+++●●○+○●●+++●○○| です。 .3○●●●●●●+○○○○●●○●●○| .4○○●○○+●○○・●●○●●・●●○ 黒1目勝ちのはずでしたが、ここで .5|○○○+○○●○●+○○○○●●○| 瀬越の逆転技 ☆O-10 が出ます。 .6|+●○●++●●○+●○+○●○○| .7○○○●●○○++○+●●●○●●○| .8◆●●++●●●●○○○○○+○●●○ .9|+●+++●○○○○●●●○+○+○ 10○++・++●●○○●++☆+○+○| 11|++●+●+○●●●●+●+○○●| 12|+●●○●●○○○●++++●●●| 13|●○○●●○○●●●+++++++| 14|●+○○●○○●○●++++○++| 15|+○●○○+○○+○++++○●●| 16|●●●●+○+●○●++○○○++| 17|+●○○○+++○○○+○●○●+| 18|●○+○++++++++●●●●+| 19・−−○−−−−−○●−−−−−−−・ 【 瀬越 8時間の長考 】 以下、引用ですが >> を省略。 白218手から9日目にはいった。小岸は、前譜の黒217で、一目勝ちを 読み切って安心していたらしい。瀬越も負けを覚悟していたようだが、勝てなく ても、せめて負けない工夫はないものか、と一心不乱に読んだ結果、ようやく 見つけたのが白218のハネ込みだった。 この一手で白が一目の得をして、黒の一目勝ちに終わると見られていた碁が 持碁になる。9日目の対局開始が午前8時、白218が打たれたのが午後4時 だったという。二人とも昼食ぐらいはとったであろうが、それにしても力が はいっている。 終局後(この死闘ゆえに)病気になった二人は、新聞社に次の手合の棄権を 申し出たという。 (なお、この対局の最終手は白276手まで、でした。) | |
| 03-0014 | |
| ◆中野坂上便り 〜その八〜 ◆谷口 ◆03年06月11日 11:25 | |
| 事務所から青梅街道に出て、そのまま横切って南に下っていくと、下り切ったところに、彎曲して山手通りをくぐった神田川が流れている。朱塗りの何か似つかわしくない橋「新橋」がかかっている。その二、三本手前の道沿いに二子山部屋がある。部屋の看板がなければ、誰も相撲部屋とは思わないコンクリートの建物だ。華やかだった関取ラッシュ部屋も、今幕内力士は貴ノ浪一人になってしまった。同部屋対戦が熱望されたのも遠い話題。こころなしか建物自体にも覇気がない。爽やかな鬢付け油の香りが風にのった商店街にも。 本場所によく足を運んだ頃、国技館はまだ蔵前にあった。総武線を浅草橋で下り、人形屋やおもちゃ問屋の前を歩き右折して蔵前橋の手前。砂かぶりや桟敷で見られるわけもなく、大抵は二階席のまだ上、天井に張り付いたような所にある楽隊席で見た。実況アナウンサーの卵だろう、テープレコーダーに自分の解説を吹き込みながら白いハンカチで額を拭いていた。先輩に聞いてもらうのだろう。こちらは、たどたどしいが解説付きの相撲見物である。現理事長の北の湖が全盛で、同じく黄金の左輪島がいた。若貴の父貴ノ花、三重の海、魁傑、若三杉、旭国、ほら吹き金剛に小兵鷲羽山もいた。連日の満員御礼。「停車場に訛りなつかし」と歌った東北の詩人も、ここではなつかしき訛りをここかしこで聞けたことだろう。 今相撲名鑑を見て不思議に思うことは、北海道、東北出身の力士が数少なくなったことだ。特に北海道出身力士は幕内にも十両にも一人もいない。大鵬、北の湖、千代の富士という大横綱を生んだ北海道の出身関取が今いないのは寂しい。栄枯盛衰は部屋も出身地もあり、それらが相撲人気の凋落に大きく加担しているのだろうか。特に両国国技館の不入りはテレビ桟敷からも悲しい。たとえば父が青森県出身でもその子は東京都出身では、応援はするもののテレビ桟敷で我慢するのかもしれない。上野までの切符を買うまでにはいかないのだろうか。 相撲の歴史は、神話時代の「国ゆずり」の話にさかのぼるらしい。出雲国稲佐の小浜で高天原系の建御雷神と出雲系の建御名方神が「力くらべ」によって「国ゆずり」という大問題を解決したと古事記にある。これが相撲の起源であるという。高天原系はアマテラスであり出雲系はオオクニヌシがトップ。となると「やってきた」民族と「いた」民族との国取りの戦いであっただろう。「やってきた」高天原系の民族は勝利して国をゆずられることになるわけだけれども、どこからやって来たのかと考えると、異論はあろうが横綱朝青龍は建御雷神の遠い子孫と考えるのも面白い。モンゴル勢の活躍は当然の帰結なのかもしれない。 ともあれ、和風文化の衰退は寂しい。先日新聞に土俵を少し広げようという提案が載っていた。大型化した力士にそれも必要かもしれない。ただ、場内アナウンスに出身地を声高にいう大相撲という特殊な競技には、地方への決め細やかなリクルート活動が最重要と考える。また、年六回の本場所が東京三回、名古屋、大阪、福岡各一回というのも再考を望みたい。東京を一回にして、札幌場所、仙台場所があってもいい。構造的な改革の必要性はどの世界にも共通といえる。 かって阿佐ヶ谷勢が躍進していた頃、浅草橋に向かう総武線で幕下力士とよく乗り合わせた。浴衣姿に雪駄履き鬢付け油も爽やかに風呂敷包みに褌一本。いさぎよい。 さてさて、この地での優勝パレードはいつのことか。変則貴ノ浪の有終の奮起に期待しよう。 | |
| 03-0013 | |
| ◆伊藤博文 ◆長良川 ◆03年06月10日 14:50 | |
| 伊藤博文の名前は、千円札にあらわれるずっと前の子供の頃には知っていた。それは肺結核のためほとんど学校を休んで自宅療養していた小学4年の頃、保育社のいろいろな図鑑を買ってもらっていたのだが、そのなかに歴史図鑑というのがあって、その巻末に歴代総理大臣の名前がでていたからである。 その頃住んでいた田舎の町にあった好文堂というただ一軒の本屋には、雑誌の他にはあまり子供向けの本がなく、母親がたまたま見つけては買いそろえてくれた昆虫図鑑、植物図鑑、気象天文図鑑、保健衛生図鑑、歴史図鑑などを隅から隅まで何回も読むのが唯一の楽しみであり、また慰めでもあった。そのようなわけで、歴史図鑑の巻末に出ていた歴代内閣なかで、一番数が多かった、たしか4回も出ていた伊藤博文の名前を覚えたのである。 さて、5年生になると病気もほぼ快復して学校にも行くようになり、友達とも遊ぶようになった。近所には北村くんという同級生が住んでいたが、彼はどことなく少し鈍い感じの子であった。彼には父親がなく、弟と母親と三人で4,5頭の乳牛のいる牛舎と同じ棟続きの一間の家に住んでいた。 一度だけ彼の家へ上がり込んだことがあるが、そこは家の中まで牛小屋の臭いが鼻につく小さな部屋だった。そこに、「伊藤博文」という絵本がおいてあったので、それをはじめからおわりまで読んだ記憶がある。僕がその絵本を読んでいる間、北村くんはどうしていたのか覚えがない。たぶん部屋の外にいたのであろう。 牛の臭いのする部屋に座って一人で読んだその絵本は戦前のもので、文章はカタカナで書かれていた。その絵本のなかで、今でも記憶に残っている場面が二つある。 その一つは、まだ伊藤俊輔(後の博文)が家を出て藩の仕事を始めたばかりの少年時代の頃のことである。ある雪の降りしきる寒い日に藩庁の用事で外出した俊輔が、たまたま実家の近くを通りかかったので、一目母の顔を見たいと思い家に立ち寄ったところ、大事な藩の仕事の途中に実家に立ち寄るとは何事かと言って、母は俊輔を冷たく追い返す場面である。 もう一つは、伊藤博文がハルビン駅頭で撃たれた場面である。犯人が朝鮮人だと知らされた博文は「馬鹿な奴らだ。」と一言言ってから息を引き取った、それから1年もたたない間に朝鮮は日本に併合された、とその絵本には書いてあった。 その後、数十年の年月が過ぎ去り、伊藤博文のことについてはほとんど思い出すこともなかった。わずかに、伊藤博文の肖像が千円札に登場する際に、明治のニセ札事件との関連が疑われるような人物を紙幣に採用するとは何事かという意見が新聞の投書欄に載ったことや、松本清張の「統監」という短編小説を読んで、伊藤博文という男は大変好色な政治家であったということを知ったぐらいであった。 ところが最近、新書版の「暗殺!伊藤博文」という本を読んで、あらためて子供の頃に読んだあの絵本のことが思い出したのである。その本によれば、伊藤博文の朝鮮問題に対する態度は、山県有朋をはじめとする陸軍首脳たち強硬派とはことなり、どちらかというと穏健で融和的なものであったということである。強硬派は自分たちの主張をとおすために、わざと伊藤博文が暗殺されやすい状況をつくりだし、暗殺がおこなわれるのを未然に防止する処置をとらなかったのではないか、という疑いをその本は提示している。もし、その本の見方が正しいとすれば、あの絵本にあった「馬鹿な奴らだ!」と言ったという彼の最後の言葉の意味も何となくわかる気がする。 「軍の強硬派を押さえて朝鮮問題をなんとか穏健に解決しようとしているこの俺を撃つとは、なんて馬鹿な奴らだ!」 | |
| 03-0012 | |
| ◆中野坂上便り 〜その七〜 ◆谷口 一 ◆03年05月08日 12:51 | |
| 朝ごはんはしっかり食べる。今朝は筍と初物の蕗に少し鷹の爪を入れた煮物。この蕗が旨い。畑で育てた物ではなく、畑の脇や土手に自生するような物。採るのも手間なら、調理も手間、灰汁で指先は真っ黒になり、灰汁抜きに時間をかける。しかし房総の突端の村から届く毎週の野菜の中から、この蕗を見つけると昭和三十年代の京都丹後の野山を思い出す。土手のどこにでもあった野蕗。抱えるほど採ってきても、葉を取り皮をむき湯がき、さらに佃煮風に仕上がった時には小鉢一杯。 房総の村には年に一、二度しか行けないけれども農家の人の顔を何人も覚えている。秋の収穫祭では一緒に飲み食べ話す。村を歩くと昭和三十年前半のままの農村風景がそこにはある。畦も小川も土手も、そこに生息する昆虫も小魚も草木もみんな生きている。ぴちぴちと生きている。 八ヶ岳山麓の野菜農家に住み込みでアルバイトをしていたずっと若い頃、そこではコンコンと湧き出る地下水も多量の農薬散布による影響で飲むことが出来なかった。ただ、形のいいレタスを作るためにどれほどの農薬を撒いたか。今はどうなっているのだろう。畑にフオード社製のトラクターが走っていた景気の良かったレタス農家は。そして八ヶ岳山麓の土は、水は。「その水は飲むな」と怖い顔をしたおばあちゃんは。 列車の旅をすればわかることがある。休耕田、荒地がますます多くなっているのだ。穀物自給率、イギリス107%、ドイツ125%、フランス201%、米国140%、日本27%。日本は穀物を大量に輸入し、他国は輸出するほどあるということ。他国は工業国であり、しっかりと農業国なのだ。日本も昭和三十年代には穀物自給率は80%あった。同じ頃、イギリス、ドイツは50%未満。それを日本とは逆に100%以上に押し上げたのだ。また、耕地面積の少ない山岳国スイスでさえも20%前後だったものを、今68%に上げてきている。国の政策がこれほど違うのだ。 農水省は他人事のように言っている。「輸入がゼロになれば敗戦前後の食糧難時代を上回る飢餓状態に日本は陥る」と。 昭和三十三年実質経済成長率5.5%、同三十四年10.4%、同三十五年15.6%、岸信介から池田勇人の時代、ここらあたりが日本の転換点だと思う。三十九年の東京オリンピックの開催が決まったのも昭和三十四年だ。土建国家発展モデルの始まりだ。京都丹後の水田にもタガメがいなくなり、メダカが小鮒が消えたのだ。水田のあちこちに赤い布を棒切れに巻いたものが立っていた。農薬注意の目印だ。学校でも田んぼに近寄るなの注意があった。通学の田んぼ道には、乾いた、鼻の奥を刺激する臭いがあった。半ズボンにランニングシャツ姿で畦を走り回った記憶がそれを境にぷっつりと途切れている。故郷の田畑も山も川も荒れた。みんな「物の豊か」を望んだ。そしてそうなった。それはもういい。しかし、その「豊か」を蝕むもの、積年のつけがじんわりとやってきている。その脅威の源を取り違えてはならない。それは北朝鮮のミサイルではないし、米国のご機嫌を損なうことでもない。農業文化という国力の芯を失いつつあるということにある。数字で言えば穀物自給率27%。今、時代のキーワードは「IT」。イナカ、タウエのITである。富国とは自分の食い物は自分で賄う力があること。でなければ「ノン」とは言えない。イギリス、ドイツが前世紀末に30年かかって成し遂げた穀物自給率100%達成にある。 米国は今、中国をアジアの自然なリーダーと捉えてる。2008年の北京オリンピックに向けて、ますます中国は国力を伸ばしていくだろう。かっての日本が東京オリンピックを踏み台にしたように。日本の企業も中国を工場ではなく、マーケットとして進出を加速するだろう。しかし、もうその繰り返しから国の豊かさを望めない。むしろイナカ・タウエのITが、国を、したたかな国を作っていく。 さあ、青嵐の中、房総突端の村に援農にでかけよう。 | |
| 03-0011 | |
| ◆中野坂上便り 〜その六〜 ◆谷口 一 ◆03年04月21日 15:40 | |
| 鹿島灘までは遠いけれど、太平洋を満喫でき、あわよくば大ハマグリをゲットできると聞けば早起きドライブも何のその。大泉から外環、常磐、東水戸道路で大洗海岸へ。ここまで来ればしっかりと太平洋がある。日本海、若狭湾そしてさらにその奥、宮津湾を海として育った身には、ここは右から左までぐーんと広い海だ。先に半島が見えたり、向こう岸に漁村が見えたりはしない。見える範囲すべて海だ。そして海が丸い。波打ち際まで200mはあろう、砂浜も広い。干潮まであと2時間。すでに潮干狩り集団が水際あたりにしゃがみこんでいる。とは言っても広い広い砂浜、自分が採るであろうハマグリを横取りされることはない。山の男からいっぺんに海の男になって、前夜に加山雄三がTVで熱唱していた♪海よ俺の海よ♪を鼻歌で歌ってみるが、実は気は焦る。一刻も早く前日仕入れた「潮干狩り3点セット」の熊手を手にして、波打ち際まで猛烈に走って行きたいのだが、そこはにわか海の男、「潮風がしょっぱいな〜」なんて思いながら砂に足跡を残していくのだ。頃合いを見て靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、もういい、走れ、波打ち際まで、掘れ掘れ掘れ。潮干狩りと聞くとなんとものんきな行いを連想するが、とんでもない。大ハマグリを取ってその場で炭火で焼いて、ハマグリが口を開けたら醤油を2,3滴。じゅじゅっとなったら汁ごとはくはくと食べる。これが前日から頭にこびりついている身には、とにかく掘って掘ってまた掘ってあるのみ。それに砂浜のあちこちには大ハマグリの貝殻が落ちているのだ。誰かがかってここで大ハマグリを取って焼いて食べたのだ。大ハマグリはこの海のこの砂浜のどこかでぼくとの邂逅を心待ちにしているはずだ。堀りが足らない。もっと掘れ、もっと掘れ。あっちも掘れ。こっちも掘れ。 しかし悲しいかな体力は無限ではないし、コンビニで買えるものでもない。半ズボンはへそまで濡れ、熊手を持つ手は筋がつって、左手に持ち替えても力を発揮してくれない。海は気持ちよく心を大きくさせてくれるけれど、潮干狩りは足の下、一畳の海しか与えてくれなく、またその与えられた一畳の海も、すぐ移り気にあっちこっちと飛び回り、挙句の果てにまた同じ所に帰って来て目指すものは掘り当てられないのだ。ふと、地元のおばさんらしき人の一挙手一投足に目をやると、同じ場所をほとんど動かず、熊手をリズムカルに動かし、手の筋がつるなんてまったく無縁の動作で、ああのんきだ。あれが潮干狩りだ。そして手に持った網袋にはアサリにまじって一個の大ハマグリが入っているのだ。 海岸線に魚市場があった。いしもち(@150円)3匹、ずわいがに(@250円)2杯、えび(@80円)3匹、場所を変えて炭を熾し、遠火で焼いて塩で食べた。 5月は16日が大潮だ。ぼくの大ハマグリはもっと大きくなっているだろう。それまでにあれとあれを用意しなくては。それに網袋ももっと大きなのを用意しなくては。 | |
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| ◆kensei様 死活の手数と相手の納得について ◆ざる碁 ◆03年04月14日 19:29 | |
| このかきこみは掲示板で話題になっていたkensei様の質問に対するものです。 サース様のいわれるようにこのまま黒死です。相手の方が納得せず、碁を終わりにすることが出来ないという状況であれば、もし後で示すように2目の損で勝負がひっくりかえらないのであれば、6目中手までの形にして相手に納得させた上で計算に入るという妥協は可能と思います。2目の損が直接勝敗に影響してしまう場合は両勝ちにして事務局に判断をあおぎましょうと相手の方にお願いし、計算に入られるとよろしいのではないでしょうか。 ≪2目損の理由≫(スペースの関係で図を90度回転させました) ┼┼┼┼┼┼┼┼┼ ┼┼┼┼┼┼┼┼┼ ┼┼┼┼┼┼┼┼┼ ┼┼○○○○○┼┼ ┼┼○○○○○┼┼ ┼┼○○○○○┼┼ ┼○○●●●○○┼ ┼○○●●●○○┼ ┼○○●●●○○┼ ┼○●●○●●○┼ ┼○●●○●●○┼ ┼○●●┼●●○┼ ┼○●○○┼●○┼ ┼○●○○◎●○┼ ┼○●┼○┼●○┼ ┷○●┷○┷●○┷ ┷○●┷○◎●○┷ ┷○●●┷┷●○┷ 図1 図2 図3 図1はこのままで白地25目です。ところが図2を経て黒が白6子をとり白が中手をした図3は29−6(アゲハマ分)=23目となり、2目の損となります。図2で、不要な白石◎2子分がそのまま損になっています。 ≪攻めあった場合の地の減少について≫ ┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼ ┼┼┼●●●●┼┼┼┼┼┼┼┼┼ ┼┼●┼┼┼┼●┼┼┼┼┼┼┼┼ ┼┼●○○○○┼●┼┼┼┼┼┼┼ ┼○○●●●○○┼●┼┼┼┼┼┼ ┼○●●○●●○┼●●●●┼┼┼ ┼○●○○┼●○┼┼┼┼┼●┼┼ ┷○●┷○┷●○○○○○○┷●┷ 図4 そこでこんな図4は全くありえない話ですが、実戦では複雑に入り乱れた状態で簡略にすればこれと同じ状態が出現する可能性があります。左側の白は生きているとし、右側の白と黒が攻めあった場合白の地がどうなるかという問題です。 白は攻めあうために6+5+4+3=18子の石をとられなければなりません。対するに黒はやがてとられることになる黒石は1+1+1+1=4子しか増えません。はじめにあった11子の黒石とあわせ、15子の黒石がとられますから最終図での白地は30目、これにアゲハマ18子を差し引いて白地はたったの12目ということになります。図1の状態が25目でしたから、25−12=13目も損をしたことになります。攻め合いにもっていけば相手の地はかなり小さくなるという典型例と思います。 また13目の損(つまり、攻めあう手数と同じ)というのは中国ルールに照らしても全く矛盾がなく,私自身が調べていて驚いています。このような機会を下さったkensei様、ありがとうございました。 | |
| 03-0009 | |
| ◆掲示板への画像の乗せ方 ◆すばる ◆03年04月03日 23:19 | |
| 掲示板の画像は1記事につき、画像5枚まで、画像サイズが合計で300KBまで ....という制約があります。 ところがデジカメ画像は、ふつう1枚でも380KB〜440KBあって、 すでにサイズオーバーで、掲示できません。そこで以下は、掲示可能なサイズに画像を 縮小する場合の手順です。 (1)元画像を表示します。 【スタート】→【プログラム】→【アクセサリ】→【ペイント】→ 【ファイル】→【開く】 ファイルの種類=すべてのピクチュアファイル を指定しないと、 元画像名が表示されない場合もあります。 (ファイルの種類 → 掲示板03-0605 のイメージ参照ください ) (2)元画像を縮小します。 ツールバーの【変形】→【伸縮と傾き】 水平方向 100 % → 40〜60 % 垂直方向 100 % → 40〜60 % を指定 →【OK】 ( 40% 〜 60% ) これで、元画像=400 KB → 50 〜 90 KB になります。 以下の切り取り不要ならば → (4)保存 に進んでください。 (3)縮小画像から必要部分だけを切り取った 切り取り画像 にします。 A:ツールボックスの右列一番上の 図記号 を左クリック。 (ツールボックス → 掲示板03-0605 のイメージ参照ください ) B:画像の上に マウスポインタ を移動。 切り取りたい範囲の左上端を左クリック。 C:マウスを左クリックしたまま 切り取りたい範囲の右下端まで マウスを移動(ドラッグ)。 右下端で左クリックの指を離します。(ドラッグ終了) D:ツールバーの【編集】→【切り取り】 以上で、縮小画像が 切り取られ状態 になります。 E:ツールバーの【ファイル】→【新規作成】 F:元画像を切り取られ状態のまま保存するか? →【いいえ】を指定。 G:ツールバーの【編集】→【貼り付け】 以上で、切り取った画像 が表示されます。 画像の外側に白地のキャンバス部分が付いてきて邪魔なので、 白地部分なしの画像にします。 H:ツールバーの【変形】→【キャンバスの色とサイズ】 幅/高さ → 白地が無くなりそうな値を指定 →【OK】 (4)切り取り画像を保存します。 ツールバーの【ファイル】→【ファイル名を付けて保存】→ →【ファイル種類】→【JPEG か GIF 】を指定 →【OK】 このとき、ファイル名=元画像と違う名前 を付けます。 同じ名前だと、元画像が無くなってしまいます。 | |
| 03-0008 | |
| ◆中野坂上便り 〜その五〜 ◆谷口 一 ◆03年03月04日 20:01 | |
| 日が長くなってきました。ざっと計算して一日四十秒程伸びているのでしょうか。夕方五時半を過ぎてもまだ明るく、冬至の頃に比べると五十分程、日が長くなった計算になります。光も穏やかになったような気がします。東南に向いた事務所の窓に、午前中はたっぷりと日が入ってきます。冬を越した鉢植えにも新芽が成長しています。昨日は「春一番」、東京では風速二十mを超えたとか。青梅街道を吹く今日の風も尋常ではありません。大きく電線が揺れています。今朝の新聞のコラムによると日本には風の名前が二千百四十五もあるそうです。 東風(こち)浦西(うらにし)青嵐(あおあらし)木枯らし(こがらし)凱風(がいふう)南風(はえ)は知っていても、その数の多さには驚きです。日本はまさに風の島です。その島で今最もやっかいな風が、the bush wind(やぶかぜ)でしょうか。これは太平洋の向こうから吹いてくる、きな臭い制圧的な風です。そんな風に吹き飛ばされていった外務副大臣は今頃イラクで何をしているのだろうか。政府のパフォーマンスもここまでくれば、滑稽というよりは悲しくなってきます。とは言っても当人たちはどこ吹く風でしょうが。 先の太平洋戦争に日本がひたすら向かって行った時期に、土屋文明がその状況を詠んだ歌「大き波たふれんとしてかたむけるためらいの間もひたよりによる」を思い出します。大きな災いは音も無くよってきて、気が付いたときにはその中にすでに呑みこまれているということでしょう。桑原桑原。ちょっと高みに立って四方を眺める必要があるようです。尾崎放哉「山に登れば淋しい村がみんな見える」、ちょっと居場所を変えなければ、日常の安穏へ流されてしまう。たとえ忙碌厳烈といえど日常は日常、席を立とう、そんな気になります。 米ニューヨーク州の女子大生トニ・スミスさんの行動には頭が下がります。バスケットボール部の彼女は試合前の国家斉唱の際、一人星条旗に背を向けます。昨年の11月に今季のリーグ戦が始まって以来、静かに戦争反対の抗議行動を続けているそうです。二月に対戦相手の学生が「非愛国者」と騒ぎ出しメディアに注目されても、メディアに直接語ることは一切拒否し、一通の声明のみ公表したそうです。「ブッシュ大統領が私たちを守ろうとする計画が、海の向こうで多くの罪のない人々を死に至らしめることを見逃してはなりません」と。そして、彼女の大学の学長のコメント「個人的に彼女の『言論の自由』に基づいた行動を支持します」。アメリカ人の民主主義は健在です。一人、藪(bush)の中の人を除いて。 宝仙寺の椎の木でしょうか、常緑の葉が大きく揺れ動いています。 さて、席を立って青梅街道をゆっくり荻窪辺りまで歩いてみましょう。心にプラカードを持って。 | |