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 タイトル著者発行所税込価格備考 
1047z,単行本・一般,勝負!この一手,,鑓田研一 ,青春出版社,252,一般,1064年1月15日 第1刷,204ページ・新書判ソフトカバー,T 不敗の戦法、ブルースでいこう
U 意外!この一手が大ポカとは
V ゆるめちゃ駄目、もっと強く
W 三三の復活とその作戦
X 欲の皮がつっぱり過ぎてこの末路
Y 天元を最高度に働かせるために
Z 二刀流で、いけば無敵
[ 捨てちゃえ!どうせ拾った石だもの
\ 奇知縦横、旋風を巻き起こす構え
] 逆転「この一手」の発見,一度やったらやめられない魔力の正体
文人囲碁会が、湯ヶ原の中西旅館で催されたことがある。
川端康成、村松梢風、『歴史』と題した小説を書いて新潮賞をとった榊山潤、砂子屋書房という出版社を経営していた山崎剛平、等々のほか、一枚、『出家とその弟子』の著者、倉田百三が加わっていた。
三度の飯どころか、本職の小説よりも碁が好きという連中である。一泊して大いに打った。
十局も打つと、食傷して、当分碁がいやになるのが普通だが、倉田百三だけは、呉清源に六子で勝ったことのある山崎剛平といつまでも打っていて、盤から離れようとしない。仕方がないので、みんなは二人を残して帰京した。
山崎と倉田が帰京したのは、それから三日目の夕方であった。
さっそく、榊山潤が山崎を尋ねて、
「あれからどうした?今日までずっと打っていたのか」と訊いた。
「倉田さんの助平にも呆れたよ。もう一番もう一番で、あれから三日間、夜もろくに眠らないで、打ちづめさ。ふらふらになっちゃった」
気のせいか、山崎はいくらかやつれていた。
「助平」という語は普通は淫猥の意味で使われているが、山崎は別の意味で使ったらしい。
「それで、勝負は?」
「互先から始めて、とうとう二目まで打ちこんでやった」
ふらふらになっていても、「勝負師」のハシクレという意識が作用するのか、そこまで打ちこんでやったのが、得意そうであった。
(中略)
昭和三十年のことだが、升田が宿敵の大山康晴と王将戦の五番勝負をやっている最中に、広島県の郷里にいる母が死んだ。その訃報を妻の静尾は泣きながら握りつぶして、夫に伝えなかった。ショックのために、精神力の均衡が崩れることを恐れたからである。彼女の賢明な配置の対象は、夫の体力ではなかった。
升田は大山を五連破して、王将位を獲得した。そのあとで初めて母の死を知って泣いた。
今も一代の勝負師として敬われている秀哉名人は、体重十貫前後、それこそ吹けば飛ぶような小男であった。それでいて、名人の精神力はずば抜けていた。
中川亀三郎(二代目)との十番碁では、絶対負けられない碁なので、第一局から全精神を集中した。そのためにほとんど食欲がなくなり、一日に一回、梅干一個とお粥一杯をのどに流しこむのがやっとであった。妻がせっかくライスカレーを作ってくれても、一皿平らげることができず、半分以上残す始末であった。
中川は大男で、かりに彼を鎌倉の大仏にたとえるなら、秀哉名人はせいぜい浅草の観音様であった。
この十番碁は六番で打ち切られたが、勝負は観音様に分があり、大仏の負けであることは歴然としていた。観音様の精神力は、天から降ってきたのでもなく、地から湧いたのでもない。それは訓練によって得られ、訓練によって集積されたのである(この文章では敬称を省略した)。,
1049z,単行本・一般,碁がたき,,編者 榊山 潤,南北社,315,一般,1960年12月20日 発行,334ページ・B6判ハードカバー,一 碁がたき
二 呉清源棋談
三 棋士随想
四 アマ碁談義
五 本因坊ものがたり
六 文壇囲碁会について
七 プロフィル
八 棋譜
九 付録
あとがき,あとがき
南北社の大竹君が来て、碁の随筆集を出したいという。出版の量では日本は世界で二番目というが、それほど毎月多くの本が出ながら、碁に関する随筆集というものは殆ど出ない。去年私は碁に関する文章だけを集めて一冊にしたが、他に類のないせいか、割に好評だった。大竹君は、政治、経済、その他社会全般にわたる各層から拾い集めたら、壮観であろうという。私が賛成すると、ではその編集を引受けろとの話だ。私は引受けた。実は、各層から碁の随筆を拾いあげるといっても、そう沢山はあるまいと思った。主として作家仲間のそれ、専門家がたまさか書いたものくらいで、その他はあったとしたところで、数が知れていると、たかをくくった。何はともあれ、碁のこととなれば、大本山の日本棋院に材料を求めなければなるまい。私は棋院編集部の河野さんを紹介した。
数日後、大竹君の持参した雑誌の数を見て驚いた。山ほどあるのだ。ざっと調べると、実にいろいろな人、思いがけない人まで、碁について書いている。これは大変なことになったと、私は内心閉口した。が、乗りかかった船とあれば止むを得ない。読み、整理して行くうちに、欲が出た。いっそ網羅主義にして、一人でも多くとり入れようということになった。
そんな風で、編集方針は幾度か変った。結局、各層の囲碁随筆を網羅すると同時に、主要な専門家の横顔を並べ、加えて、近頃旺んなアマチュアの活動をも含めて、棋界の現状がこの一冊ですっかり分るという形をとった。四角四面な説明ではなく、寝転んで手当たり次第の頁をひらいて貰い、碁の楽しさ、専門家に関するゴシップ以上の知識、それらを十分に味わえるような仕組みにした。そういう試みが成功したかどうかは、出来上がって見なければ分らないが、そのために予定した頁数は倍になり、予定した原稿で、残念ながら割愛せざるを得なかったものも相当ある。
大竹君の南北社は、ベストセラーは決して狙わない、という風変わりな出版屋である。年に五冊か六冊、好きな本を出して、損さえしなければいいという、手堅いのか、欲がないのか、ともかくあまり類のない出版屋だ。私が本文の中に書いている砂子屋書房も、恰度そんな風だった。そうして成功した。戦争さえなかったら、砂子屋書房は今も、時流に阿らず、好き勝手な本を出していたろう。大竹君も、これで損をしなかったら、続編を出したいと言っている。そうなれば、割愛した原稿も使えるし、この集で果せなかった別の計画の試みも出来るというものだ。
尚、棋院編集部の河野さんには、特別に感謝しなければならない。河野さんの熱心な協力がなかったら、とてもこの本はこれだけに出来上らなかったろう。
追記 集った原稿があまりに多すぎ、本が辞典みたいに厚くなりそうなので、編集計画もさらに三転四転した。思い切って半分以上減らし、後は続編を待って頂くことになり、従って折角の原稿を頂きながら、失礼を重ねるようなことになりました。私から深くお詫びいたします。
昭和三十五年十一月   榊山 潤,
1050z,単行本・一般,碁苦楽,,編者 榊山 潤,南北社,420,一般,1962年10月10日 発行,382ページ・B6判ハードカバー,一 烏鷺合戦
二 碁もまた楽し
三 棋士棋談
四 勝負師ものがたり
五 囲碁ジャーナリズム小史
六 放談 ― 囲碁座談会 ―
七 碁石の遊び,あとがき
前の「碁がたき」が評判がよかったので、その続編として、「碁苦楽」を出すことになった。続編といっても、これはこれは、独立した随筆集である。「碁がたき」とは趣向もすこし変えるつもりで、あれこれと工夫したが、この点は巧く行ったかどうか分らない。唯、巻末の座談会など、「碁がたき」にはなかったものとして、いささか自慢の種である。これに蛇足を加えておくと、升田幸三はいうまでもなく将棋の前名人、碁もアマチュア五段の実力十分である。次の大竹青雨という名は鹿爪らしいが、新橋の藤千代ネエさんといえば、天下の囲碁ファンは大抵知っている筈だ。増淵辰子五段のお弟子さんで、棋院の免状は四段か五段か知らないが、升田さんに匹敵する腕前を持っている。この藤千代さんと升田さんに、増淵さんの経営する銀座の「龍岡」で、一杯やりながら、思う存分のお喋りをして貰った。
この集の原稿集めを実際にやってくれたのは、棋院の「棋道」編集長、林裕君である。文壇関係はともかくとして、それ以外の原稿は林君の尽力なくしては、とてもこれだけ集まらなかったろう。林君には感謝の他はない。
これまで、碁の随筆集など、殆ど出なかった。その意味で「碁がたき」は新しい道をひらいた形で、続いて「碁苦楽」も、恐らく多くの囲碁ファンに、満足して頂けるだろう。これもまた大いに売れて、続いて続々篇、さらに続々々篇などと、ゾクゾク出てくれるとおもしろい。これは私の閑つぶしの空想であるが、そんな空想が、案外実現しないとも限らない。何しろ棋院の推定では、囲碁人口五百万というのだから。
昭和三十七年九月,
10,51,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,60,9,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,円在庫切れ 

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